推し活をする
耽溺の日々が、始まった。
ネット用語では、趣味のジャンルを「沼」、それに耽溺することを「沼に浸かる」というらしい。園子はそれを、美理さんから教わった。
美理さんの手引きで、ツイッターを始めた。自分でなにか呟くことはなく、公式や情報アカウントをフォローして、情報を得るためだけのアカウントだ。俗に「閲覧垢」というらしい。慣れてみると、ツイッターはインスタよりも情報収集に便利だった。リアルタイムで、掲載された雑誌や、出演するテレビ番組が流れてくる。社割で雑誌を買い、テレビは欠かさずに見た。You Tubeの配信もあった。雑誌を買うと、解体作業が待っていた。園子はそれを、嬉々として行った。バラバラになった雑誌のページを、一枚ずつポケットファイルに収納する。すると、他の誰でもない、恒星だけの記事を集めた、専門誌のようなスクラップ・ブックが、少しずつ膨らんでいく。
ある時、その中の恒星の発言が、園子の目を釘付けにした。
読者からの質問:恒星くん、こんにちは。私は高校二年生の女子です。私の悩みですが、まわりは彼氏がいるのに、私には好きな人がいません。恋愛って、しなきゃダメですか?
恒星くんの答え:こんにちは!恋愛って、無理してするものじゃないと思うよ。最近は結婚しない人も多いし、そのままでもいいんじゃないかな?それより、自分で自分を好きになる方が大事だよ!
実になにげないやり取りだった。しかし、園子の心には、まっすぐに恒星の言葉が届いた。心のどこかにひっかかっていた、自分は恋愛向きではないかもしれない、という思いが、一気に溶かされていくのを感じた。今まで、誰も、こんな風には言ってくれなかった。園子は思って、ポケットファイルのそのページに、青の付箋をつけた。
青は恒星のメンバーカラーとして、公式に設定されている。疾風は赤だ。ライブでは、それぞれのファンが、メンバーカラーの服装に身を包んだり、ペンライトを持ったりして、立場を表明するのだという。ふたりのうち、どちらを好きであるかが可視化され、彼らも励みに感じるという。
美理さんからそれを聞いて、園子の胸は躍った。青い服なら、たくさん持っている。自分の好きな色が、恒星のメンバーカラーと一緒であることも嬉しかった。次のライブには誘われている。でも、新しい服を新調するつもりだ。ハレの日だから、と美理さんは言った。
「日常が普通の日――『ケ』の日だとしたら、ライブは『ハレ』の日、特別な日なの。だから、皆、思いっきりおしゃれしていくんだよ。席が近かったら、疾風の視界にも入るかもしれない。それに、みっともない恰好をして、疾風のファンはあの程度なのか、って思われるの、嫌でしょう。疾風に恥ずかしい思いをさせたくないもの」
美理さんは、大人のファンとして、常に恥ずかしくない振る舞いをこころがけている。そのすべてが、「疾風に恥をかかせたくないから」という理由だった。書店バイトは地味な女性も多いが、美理さんは常にフルメイクで、シャツにもアイロンがかかっている。髪は丁寧にトリートメントされ、毛先まで手入れが行き届いている。社割で雑誌を買う時は、立場を表明せざるを得ないこともある。その時に、
「誰かに、こんなおばさんが?って思われたら、疾風だって恥ずかしいでしょう」
というのだった。美理さんは確かに、おばさんという雰囲気ではなかった。結婚していないせいもあるが、どちらかというと、大人の女性というイメージだ。そう言われると、そんなものなのかな、と園子も漠然と思うのだった。
意識の外側で、電話の呼び出し音が、規則正しく響いている。何度目かの音で電話を取り、眠りから覚めきれないまま、園子はくぐもった声を発した。
「…もしもし?」
「おはよう」
美理さんだった。土曜の朝、今日はバイトも入っていない。そうしたオフの日に、美理さんから呼び出されることはちょくちょくあった。美理さんの家で鑑賞会をしたり、神保町で古いアイドル雑誌を探したりするのだ。
「今日、暇?時間あったら、一緒に銀座行かない?」
新たな誘いに、園子は目を丸くした。銀座なんて、行ったことがない。最近はプチプラファッションの店も増えて、敷居が低くなったというが、園子にとっては、まだまだ未知の街だ。美理さんの提案は、園子にとっていつも、新しい世界だ。胸を高鳴らせながら、園子は返事をした。
「大丈夫です。行きます」
「そうこなくっちゃ」
電話の向こうで、いたずらっぽく、美理さんがはしゃいだ。
渋谷でランチをしてから、銀座線に乗った。駅に降り立つと、そこはもう、未知の街だ。相変わらず人は多いが、随分動きがゆったりしており、身なりも上品に感じられる。建物も、渋谷の猥雑な雰囲気に比べるとシンプルで、それでいて重厚だった。鼻先を、関東地方特有の乾いた風が吹き抜けていく。和光の時計台を仰いで、周囲を見回す。美理さんが笑いながら、
「こっちこっち」
と、手招いた。
しばらく歩くと、クリップ型の赤いオブジェが目に留まった。
「伊東屋。行ったことある?」
「いえ、私、銀座自体が初めてで…」
「そうなの?いいわよ、伊東屋は」
笑いながら、美理さんが颯爽とエスカレーターに乗った。開放された作りのエスカレーターが、果てしなく、上へ上へと昇ってゆく。それぞれのフロアが、圧倒的な量の文房具で埋め尽くされている。ビルひとつが、巨大な文房具の専門店なのだと、美理さんは言った。
「恒星くらいのクラスになると、もう、ファンレターは読んでくれないかもね」
気の毒そうに、美理さんが園子を見遣る。
「でも、バック・ダンサーになりたての、研修生の子たちは違うの。ファンの絶対数が少ないから、出待ちや入り待ちで直接渡せることもあるし、きっと励みにしてくれる。それを信じて、わたし、青田買いした子には、必ず手紙を書くの。観たライブや、舞台の感想を添えてね。プレゼントを贈る人もいるけど、私は手紙派。ここでレターセットを買うことが多いわ」
話しながら、美理さんはてきぱきと、棚のレターセットを引き抜いていく。
「推してる子のイメージに合わせて選びたいから、品数が多い方が助かるのよ。メンカラを取り入れることもあるわ。園ちゃん、青田買いはしないの?」
美理さんの話に圧倒されていた園子は、慌てて口を開いた。
「いえ、私は、恒星くん以外は、よくわからなくて…。推しがたくさんいれば、それは楽しいと思うんですけど、恒星くんを見てるだけで、いっぱいいっぱいで」
「健気ねえ」
美理さんが、目を細めて笑った。
伊東屋の次は。鳩居堂だった。これも大きなビルが、和風の文房具で埋め尽くされた専門店だ。和紙や硯、書道の道具もあったが、美理さんの目当ては一筆箋だった。
「プレゼント派の友達に頼まれたの。こういうのを添えたら、ちょっと目を引くわよ、って、私が教えたの」
水彩で薔薇の花が描かれた一筆箋を手に取り、美理さんが微笑む。大人の女性の余裕を感じて、園子はどぎまぎする。研修生の男の子だって、こんな女の人に手紙を貰ったら、確かに励みになるだろう。一方で、軽い疑問が、園子の脳裏を掠めた。
――美理さん、彼氏いないのかな?
休みのたびに園子と会っているのだから、きっといないのだろう。でも、手練手管にも長けていそうな、物慣れた雰囲気の美理さんだ。どう見ても、恋愛経験は多そうである。未婚・晩婚が珍しくない世の中とはいえ、男の人の影がないのは不思議な気がした。
園子が思考を巡らせている間に、美理さんが会計を済ませる。この後はお茶でもして解散かな、と園子が思っていると、
「ねえ、今日、夜まで時間ある?」
と、美理さんが問いかけてきた。