小蛇の望み
「コウ!こっち!コウったら!」
小さなムラに明るい声が響き渡る。苦虫を噛み潰したような顔で声の元に向かうコウを見て、農作業をしていた村人が笑いかけてきた。「大変だな」と言いたげな顔は、もう王殺しの罪人相手に向ける顔とは思えない。
コウの新しい主ミトヤは、今年14になるらしい。母親を早くに亡くし、家族はあの村長 と、のちに迎えられた後妻との間に腹違いの弟妹達。数年前に叔母から巫女の立場を継いで、もう一人前にムラの神事を全て取り仕切っているとのことだ。
そんな事を買われてからのここ数日で知った。いや、知った事がこれだけだと思われては困る。もっともっと、コウの重い口では語りきれないくらいに膨大にある。この数日というもの、主様がコウのことを放してくれず、のべつ幕なしにあれやこれやと喋り倒してきたからだ。全く、随分と気に入られてしまったものだ。
どこにいてもコウ、コウと犬にでもするように呼ばれ、呼ばれる度に釈然としないものがありながらも馳せ参じた。あの罪人はいつ暴れ出すかと戦々恐々としていた村人達も、案外大人しいコウを見て今ではおずおずと話しかけてくる者もいる程だ。大人しい、の一言では済まない葛藤があることはきっと知らないのだろう。
今日の主殿は髪を低い位置でくくり、また椿の花を飾っていた。茜色の服を春の風にそよがせながら、コウが近づくのを待っている。そして楽しそうににっこりと笑い、こんな風に葛藤を増やすのだ。
「川の向こうを案内してあげる。足が濡れてしまうから、お願いね?」
お願いとは、と考えて思いついた。そうだ、西の国でも、偉ぶった人間がやっていたじゃないか。生口を橋のように水の中に跪かせて川を渡る、なんてことを。だが青筋が額に浮かぶ前に、細い両腕が差し出されたことで察する。抱き上げろ、ということか。まぁマシではある。マシではあるが。
言葉を飲み込み、屈んで軽い身体を抱き上げる。首に両腕を巻きつけた童がきゃあ、と歓声を上げた。
「高い!すごい、こんなに高いのね!鳥になったみたい!あなたっていつもこんな風に見えているのね、コウ」
はしゃぐ童を落とさないように腕に力を籠めたが、頼りないふにゃふにゃとした感覚にどうにも落ち着かなくなる。コウが扱い慣れている、木や石や金属という固く命のないモノ達のどれとも違う感触だ。いや、女を抱く時だって、とうっかり思いかけて首を振る。違う、こんな童と比較するのはどう考えたってふさわしくない。童で思い出すならむしろ。
ふっ、と頭を過った記憶は簡単に消えてはくれなかった。生涯で一番、柔く脆い生き物を腕に抱いた記憶だ。
「コウ」
声をかけられ現実に戻った。間近にある顔は微笑んでいるが、何を考えているのかは読めない。まさか、こっちの考えだって読めないだろう? 当然そうである筈なのに何故か確信が持てないまま、コウは水の中に一歩足を踏み出した。
やはり、慣れないことをするから妙な事を思い出すんだ。無心で水を足で掻き分けながら考える。そうだ、こんな扱い、大人の男にされたのならとっくに実力に出ている。特に今は失うものもないから、簡単だ。だが、とここ数日でもう何回目かわからない考えに突き当たって眉間に皺が寄った。よりによって、相手が14の女童ときた。細く小さい、コウの腕が少し当たっただけで吹っ飛びそうな。こういう場合、どう解決するべきなのか。その結論が出ないから、コウは現状ただ黙って従うことしかできないのだった。
川は存外に深く、背の高いコウでも腿あたりまで水が来た。この童に渡らせたら危なかったからどの道こうするべきだったんだと、そう思ったコウは多少溜飲を下げる。だが渡りきった川岸に下そうした身体にギュウと抱きつかれ、見上げた顔にいかにも幼く微笑まれた時には落としてやりたくなってしまったのだが。
別に、元々コウは童というものが嫌いではない。ただいつも相手の方から恐れて逃げていくから、煩わされたこともないけれど。普通に見れば、ミトヤはかわいらしい童だと思う。懐かれて喜ばないコウは珍しいのかもしれないが、だが考えてみて欲しい。小さくてかわいらしくても、小蛇を抱えて歩きたくはないだろう。戯れに噛まれて毒が回ったらたまったものではない。今コウが持つミトヤへの印象は大体そんなものである。
「ねぇ見て、ここからなら川がよく見える。手前のがクンネ川。大きいでしょう?」
コウに抱かれたまま手を伸ばしてミトヤがそう言った。あまりに自然な態度は、突っかかることさえさせてくれない。
「…確かに、あんなに大きい川は珍しい。それに、枝分かれしているな?細いのまで含めるとかなりの数だ」
しぶしぶでもコウが会話に乗ったことが嬉しかったのか、童の口の端がきゅうと上がった。
「そう、しかも大雨の後には流れの場所も数も変わるんだから、大変よ。上流には大蛇が住むって言われてるわ。暴れるから、洪水には気を遣うけれど」
「少なくとも、田の水には困りそうもない。湖といい、水に恵まれた地だな」
「フフ、そうよ。あ、あっちは見える?あそこにもムラが一つあるわ。うちとは血縁関係。それも越えて北に一日行くと、翡翠取りのムラよ。毎月船で行って勾玉の材料を取引するの」
ここ数日というもの、ミトヤはこんな風にこのムラのことをコウに教えたくて仕方がないようだった。田から取れる米の量、竪穴式の家々の作り、他のムラとの関係と、どんなものを取引しているか。驚くことに、ミトヤはこのムラの事で知らない事はないようだ。そんな巫女は珍しい。コウが知っている巫女というものは大抵婆さんで、いつもよくわからない理屈をブツブツ言っているものだと思っていたが、目の前にいる巫女は随分違う風に物事を見ているらしい。
「なんでそんなにムラのことに詳しい?」
気になっていたことを聞いてみると、目が不思議な光を湛えて光った。
「なんでって、自分の持ち物に詳しくなるのは当然でしょう?」
持ち物? 確かに、この童は村長 の娘ではあるが。
「お前が次の長なのか? 弟もいると言っていなかったか」
愉しそうな顔は、何を当然のことを?と言っていた。だがあくまで慎ましく、ミトヤはこんな風に言う。
「選ぶのはムラの神だもの。神様はきっと、私を長にしたいとおっしゃるわ」
慎ましい? 間違った。
この台詞が慎ましいのは、言うのが巫女ではない場合に限られる。何故って、その神の言葉は巫女にしか聞こえないのだから。
この童はやはりまだ底が見えない。コウの頭の中で、小蛇がむくむくと大蛇に育っていく気配がした。