紐を結びし出会いの日
船がとうとう速度を落とした時、コウはやっと海人達の口煩いお喋りから解放されることに感謝した。外つ国と倭国の間の海で交易に従事している海人というのは、とにかく喧しいことで有名なのだ。ベラベラと調子よく大袈裟に喋り、嘘も多い。どこの地でも変わらない評判の元をここ何日かで身をもって知り、無視するために噛み締め続けた口はもう二度と開かなくなりそうだった。
そうでなくとも、この船旅が快適になる筈がないんだがな。考えながらコウが身を起こすと、海人達は油断のならない目をこちらに向けた。船出三日目に海人の一人を殴ってから、食事の量を極端に減らされている。後ろ手に縛られた上に栄養不足で弱っていようが、コウは彼らより優に頭一つ分は背が高い。暴れられると厄介だと、こいつらは身をもって知っているのだ。
ぼうと霞んだ目に対岸の景色が逆さに映り少々ギョッとして頭を振った。これはかなり参っているのかもしれない。最悪の気分だが、まぁ新しい主人がどんな野蛮人だとしても、今の環境よりはマシだろうという気になれることだけは良かったが。
「見てみろよ」
海人の長がそう言って前方を指差した。美しい景色だった。地上を両断するように幅広く広がった山脈と、そこに至るまでの巨木が聳える手付かずの森。その手前、自分達がいる海から続くのは湾か湖か、雄大な水盆が静かな水を湛えて水鏡のように空を映している。そして最も目を惹くのは、湖畔や海岸のそこかしこに小山のようになって群れ咲いている椿だった。競い合うように咲く真っ赤な花弁が、普段強い色など見慣れない目を鮮やかに射抜く。
「綺麗なところだろ?殆ど地の果てだが、景色だきゃあまるで竜宮だ」
強面に似合わない台詞をしみじみと言う。やはり海人というのは軽薄な生き物らしい。
竜宮かは知らんが、建物が水に沈んでいるというところは同じかもしれないな。
コウの方はそう簡単に何かに感動するような性分でもなかったから、思いつくのはそれだけだ。コウの目には大きな湖の向こうに木の建物が見える様は、まるでムラが水中に半分沈んでいるような頼りないものに映るのだった。
湖に面した自然の港からムラへの入り口には広場があり、そこにも椿の木が生えていた。相当古い、見事な大木だ。赤い花の付いた枝を屋根のようにして、村人達の何人かがゴザを敷いて物品を並べている。多分、ここが市なのだろう。籠に入れられた土器や木の実等と自分が同じ売られる立場と考えると面白くない話だが。
コウよりいくらか歳を取った村長が現れ、海人の長と向かい合い、互いに柏手を打ち礼をした。敵対心のない相手を迎える礼儀だ。
「今日はとっておきを持ってきた」
海人はそう言ってコウの方を手で示した。
「生口(奴隷)か」
長の厳めしい顔がピクリと動く。じろじろと商品を調べる目を向けられるのは立場を理解していても屈辱的だ。続けて訛のきつい口調が何か言ったのは「随分大きい男だな」辺りだろう。初めて俺を見た倭人が言うことなど決まっている。
「そうだ。海の向こうの外つ国から来た蕃人だ。ほうら、口を開けて見せてみろ」
まるきり犬に命令するような言い方だった。黙って睨み付けているうちに若い海人が飛び出してきて、櫂で遠慮加減なく殴りつけられた。ただでさえ食料を減らされ、弱らされていた身体である。倒れ込んだ所を海人が口に親指をつっこみ、ぐいと力ずくで開かれる。
「どうだ、上のこの歯がないだろう、俺らとは違う位置さ。蕃人の印だよ」
痛みよりも身のうちから湧き上がる熱い怒りの方が強かった。畜生扱いするなら、そうしてやろう。喉の奥から唸り声を上げ、辺りにガチンッと上下の歯が打ち鳴らされた音が響きわたった。海人が面白くなさそうな顔で手を振ると血が飛んで、見守る村人達が恐れるように足を引く。「まるで鮫だ」と海人達が囃す中、コウは血の味がする唾を吐くと土の上に座りなおし、一周分たっぷりと見物人を睨み付けてやった。下手な真似をするとお前達もこうなる。畜生が人の言葉でそう言ってやる必要もなく、じりじりと更に人垣が遠のいた。今は生口の身だがむしろ元々のコウは人を使い、指図する側だった。身を落としても黙って田舎者共の見世物になるつもりはない。
コウの大きな身体と盛り上がった筋肉を指さし村人達が恐ろしげに囁きあう中、「凶暴だな」と呟く村長は流石に恐れた様子を表面に出さなかった。
「歯を抜くだけなら誰でも出来るぞ、証明になるか。それに本当に蕃人だったとしてもこの凶暴さだ。見たところ、歳も食っている。役に立つかどうか」
いかにも乗り気でないことを見せるように顎髭を撫でながら長が言うが、商品にケチをつけるのは既に商談に乗りかけている証拠である。経験豊富な海人は勿論それに気づき、待ってましたとばかりに口上を並べた。
「おいおい長よ、知ってるだろう。蕃人は俺達にはない技術を持っている。木や石の加工にしても、建築にしても、何でもな。村を大きくするには、絶対に必要だろう?西の伊都国や奴国は蕃人を山ほど使って、金ピカの銅も鉄も、見上げるような大きい建物も山とある大国になったんだ。なんとこいつは最近までその奴国にいたのさ。それも、蕃人共を仕切る立場でな。だから倭人の言葉もわかるし、腕も確か。それに汚れてるから老けて見えるが、海にでも浸けて洗ってみろ。現れるのは三十過ぎの働きざかりだ。どうだい、こんな掘り出し物は中々ないぜ。まだまだ長い間、相当便利に使えるぞ」
いかにも粗暴そうな田舎ムラの長が興味をそそられているのは見ればわかったが、それでも海人の持ってくる上手い話をそのまま信じない程度の世知はあるようだった。
「ほう。こいつがそんなに役に立つなら、何故こんな生口として売られている?奴国が手放したのは何故だ?」
海人の軽い口が閉じた。まさかこんな田舎の世間知らずに一本取られるとは思っていなかったのだろう。だが言い訳を口にする前に、場違いに涼やかな声がその場の色を変えた。
「罪人ね」
若い女の声だった。いつの間にか、椿の木下に天女が立っている。いや、竜宮城の乙姫か? そう思うぐらい、急に現れた姿は現実離れして見えた。結ばずに垂らした艶やかな髪に赤い椿の花を飾り、白い顔に目立つ唇もその花弁と同じ色をしている。ほっそりとした身に纏う衣装は見たことのないような、鮮やかな紫だ。その肩に乗る白い鳥が使いだとしたら、この女は男を惑わすという椿の花の精霊だろうか。今の状況も忘れ一瞬そんなことを考えた後、いや、とコウは思い直した。だとしても、まだ蕾だ。もう数年もすれば最上の女になる気配があったとしても、今はまだ童らしい輪郭の丸みが残っている。
「これは巫女様。流石、お見通しで」
「そう、わかってしまうのだから、隠し事は良くないわ」
巫女か。雰囲気が常人と違うのはそのせいだろう。つう、と黒い瞳が流れてコウの姿を捕らえる。どこか、目が合った者を後ろめたくさせるような目の使い方をする女だと思った。それなのに視線を外す気にはさせない。こんな風に人を惹きつけるための手管を持ちながら、だが愉しそうに笑った口には白い歯が全て揃っているのがまだ成人の儀式も済んでいないことを示していた。大人と子供との中間にいる者だけが持つチグハグな魅力を、香り立つように全身に纏わせている。
「教えて。どんな悪さをしたの?」
ゆったりとした問いは海人に言っているのではなく、コウに聞いたように感じた。隠した部分をくすぐってさらけ出したくさせるような、そんな声音だ。
「王殺しだぜ、巫女様」
だが声に誘われ急き込んで答えたのは海人だった。「王殺しだって?」「そんなまさか」村人達が一度にざわめき、呪いの言葉を耳から払い落とそうとするように頭を振った。村長も鼻の頭に皺を寄せたが、巫女は表情をそよとも動かさない。「まぁ」と漏れた声は、やはり愉しそうだ。
「勿論、未遂だ。馬鹿なことに奴国の王を倒そうとして、その前に捕まった。通常なら死罪だがこいつには蕃人共がついていたからな。反乱が起こると面倒だと、それで追放さ」
気を良くしたまま語る海人に「オヤジ」と別の男が不安げに声をかけたが遅かった。
「自分の王を殺そうなどというバチ当たりな男を村に入れてみろ、自分の家に火を付けるようなものではないか」
吐き捨てるような長の台詞を聞き、失敗を悟った海人がほうッと声を上げて頬を掻く。だがコウはそんなやりとりは見ていなかった。輝く瞳がこちらを見つめ続けているから、先に目を反らしたくなかったのだ。
「あなたは、あの湖の水面のように真っ直ぐな線を描くことができますか?」
王殺しの話など無かったかのような気安さで突然、落ち着いた声が言った。今度こそコウに聞いた事は間違いない。
「できる」
この場に来てから初めてコウは声を出した。長い間喋らなかったせいで嗄れた声になったが、巫女は快さそうに目を細める。
「その線と並べて、最初の線とけして交わらないように別の真っ直ぐな線を描くことはできますか?」
長と海人が不可解な顔をしているのを視界の端に捉えて気づく。この巫女は、コウにわかる言葉で話している。奴国の属する地域、西の言葉だ。完璧ではないにしても、少なくとも意味は通じた。だがそれよりも内容の方に驚いた。二本の交わらない線というのは、つまり角度の概念を言っている。そんなものは、外つ国や奴国でも理解している者は限られる。こんな地の果ての女童にわかるというのか?
「できる」
内心の驚きとは別に、コウの返事は技術者としての端的なものだった。探るような目を向けても、巫女は意に返さずにまだ続ける。
「ならばあなたは、満ちた月のように完璧な円を描くことはできますか?」
そうだ、やはりこの巫女はこの俺に、技術者としての力量を測ろうとしている。しかも、的確な質問で。こんな最果ての地で、しかも女がきちんと師について教わった筈もないだろうに何故こんな質問ができるのか。やはり、この自分より二十も歳若く見える童は人外の類なのだろうか。
「専用の道具があれば、できる」
長い睫が目立つ目が弧を描いた。多分この場に、話が通じているのは俺とこの童だけだろう。言語の問題ではなく、質問の意図がわかるような者はいない。直線と角と円を操れればどれ程の事が出来るか、そんなことを知るなら既に野蛮人とは言えまい。この場に二人だけしかいないかのように見つめ合ううちに、ポウと白い頬に薄く血が昇ったのがわかった。なんだ?多分、喜んでいるのだろう。そして、赤い唇が静かに最後の質問を地に落とした。
「では、あなたは銅や鉄から、剣を作ることはできますか?」
流石に、このわかりやすい質問は二人だけのものにはならなかった。長が欲を隠さない表情で目を剥き、海人が面白がるような、不安なような顔でホッホッと声を上げる。直線や円が何に使えるかがわからなくても、鋭い金属の剣で何が出来るかは誰にでもわかる。
今度の質問に答えるには、色々な点で一筋縄ではいかなかった。技術者にペラペラと海人のような虚言を喋る口はないから、ただ黙って不思議な童を見返すだけだ。それで、相手には伝わったらしい。
「父様、この男は私に下さいな」
急に童らしい声になって巫女が言った。父様と呼ばれた村長は困り顔で顎髭を捻る。
「凶暴な大男だぞ。お前が噛みつかれでもしたら」
「大丈夫、私はどんな気の荒い犬にだって噛まれたことがないの。きっと私が仕える神が怖いのね」
ころころと笑ってそんな事を言う。また犬扱いだ。わざとらしく歯を剥いてみせても、この童は予想通りやはり怖がらない。それどころか小さな身体で地に座る自分を真っ直ぐに見下ろし、当然の権利のように問うてきた。
「名を聞きたいわ」
コウは昔から、権威を笠に着たような人間が嫌いだった。憎んでいると言ってもいい程に。だが、今見上げている目はあまりに嬉しそうに輝いていた。頬を染め口元が緩むのを堪えているような様からすると、きっとこんな地で初めて意味の通じる話ができたことをこの童も相当喜んでいるに違いない。そう考えると心が緩み、肩から力が抜けた。第一、祭の鬼でもあるまいに、いつまでも童を相手に怖い顔をしているのも馬鹿らしい。
「コウ、で良い」
「ではコウ。あなたが今日から仕える主の名は、ミトヤといいます。よく励みなさい」
権威ぶった言葉を使う方が、子供が威張っているような響きになるのだから不思議だった。弾むのを努めて堪えているような声だから、尚更。村長と海人の間で始まった値段の相談などはもうどうでも良いらしく、小鳥のような足取りで近づいてきたミトヤはこちらの顔を覗き込んで秘密ごとを囁くようにこう言った。
「あなたは私のものね、コウ」
随分と傲慢な言葉だ。だがこちらの言い方の方が、なんだかこの童らしい気がする。
どうも妙なことになった気がする。腹の奥が落ち着かないように思うが、まぁ物事はなるようにしかならないのだ。人間ごときがくだくだと思い悩んだところで仕方がないか。
「わかったからまずは何か食わせてくれ、主様」
ため息混じりに言った台詞に、ミトヤが浮かべた勝利の顔といったら。どうにも小憎たらしくて、妖しい魔力が剥がれたその顔は今度こそただの童にしか見えなかった。だが初めて素直に愛らしいと、その時思ったことを覚えている。