二十歳
小中の同級生が双極性障害になった。昨年の春にキャンパスで会ったことがあるから、彼は大学二年生の夏から秋にかけて発症したのだろう。この病気は二十歳前後で発症することが多い呪いのような物だと、私は思う。
私の姉も大学二年生で精神を病んだ。その頃私は受験生だったし、かつてうつ病から自殺未遂を起こしたことがあったから、彼女は私に深く語りはしなかった。そのため、彼女も旧友同様の病気であったかは分からない。が、この年齢で精神を病む人が多いのは確かだ。私にもそういう節がある。
双極性障害だと診断を受けた旧友Hの告白にも私は驚きはしなかった。彼は幼い頃から物事を達観して捉えるところがあったから、些細な孤独の時間に目紛しいほど思索し、その結果病んでしまうのは致し方ない。むしろ久しぶりに彼と連絡がついたことで安心したくらいだ。彼は生きているし、私が彼から酷い嫌悪を抱かれていたわけでもないのだから。軽い言葉だが、やはり時間は物事を解決してくれる。どんな堅固な壁も風化し、どんな生物もいずれ死ぬように、内心に生じた毒素も時間経過とともに攻撃性を失う。化石化した信念は深く体を穿ち、健康な暮らしの中にもふと呪いのように脳を支配することはあるかもしれない。しかし、それすらも時間と共に薄れていく。
何はともあれ、彼の身は安全な家庭に置かれ、何事も生まない時間と健康な食事が偉大な薬になって、きっと彼を救うだろう。順風満帆に思われた穏やかな道が突如行き止まりに差し当たり、迂回を強いられたことで彼は出遅れたように思うかもしれないが、大学にいても休学中であっても時間は同様に流れる。無益に思える時間にどこかで風化した壁が風に倒され、彼は強い劣等感に苛まれるかもしれない。しかし、彼は何も歩むことを辞めたわけではない。再び歩むために必要な薬をゆっくりと投与されているだけだ。
私は突如彼を襲った病を「二十歳病」と呼びたい。安直なネーミングだが、守られていた時分が終わることを自覚するこの年には、やはり大きな意味が存在している。過ぎてしまえば単なる一年やそこらでも、道中見る景色や出会いをただの思い出としてしまうのは惜しい。十代の終わり、大学で扱う内容も教養から専門的なものに変わり、就職や院試などを考慮しなければならないことで生じる焦燥感。陽が沈むのが早くなり、茫漠たる明日が妙に不安に思える。焦り、苛立ち、それら全てを誤魔化す酒も合法となり、体に深く傷をつけながらただ前へ前へと進む。しっかりと地に足をつけていても感じてしまう浮遊感。長い道程の最中、ともすれば最も重要であるかもしれない時間にいて、何にも縛られていないかのような不安が襲う。無闇に世間に晒され、誇れる武器もなく、高々数年前の自分を呪う。
二十歳病患者の気分は浮き沈み、世間に顔向けできる時分ばかりを晒してしまうから、誰にも救われず、沈んでいる自分を運良く見つけてもらっても、きっと彼は私を見放す。孤独、不安、焦燥、それでも日が経つのは早くなり、走り出しても地に足つかず、ふわふわと揺蕩う羽虫や花の種子に自分を重ねる毎日。憂鬱そうに流れる河川に厚顔無恥な池は知った顔で風に揺れ揺れしながら説教をする。
そんな毎日と戦い続ける多くの同胞へ。