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トワの祝言  作者: アンリ
本編
9/37

9. ヨウガの凶行

 太陽が海に沈み、空に小さく星々が輝き出した頃。お爺の船で近場の浜まで送ってもらったトワとアキトは、集落に戻る道を警戒しつつ進んでいた。


「アキトは洞窟に残ればよかったのに」


 同じ言葉をトワはアキトに何度となく告げている。だがそのたびにアキトが返す言葉は決まっていた。


「俺はトワと一緒にいる」


「もう……」


 呆れるトワの心中はといえば、嬉しさはあるものの困ってもいた。あの洞窟にいればアキトは安全なのだから。


「いいじゃんか」


 トワの襟元でこの場にそぐわない第三者の明るい声が響いた。


「アキトはトワと一緒にいたいって言ってるんだもん。トワは気にしなくていいんだって」


「……ヤドカリ様」


 少年の声を発したヤドカリは洞窟を出る前にお爺に渡された。お前達といっしょに行きたいそうだからお連れしろと言われて。五十年ほど前に現れたヨンドとはこのヤドカリのことだったのである。


 ヨンドのヤドカリはこの五十年間、ずっとあの洞窟に住み着いているのだそうだ。理由は教えてもらっていない。だが皆があれほど畏怖するヨンドが純朴な少年めいた言動をするとは思ってもおらず、トワもアキトもいまだ戸惑いを隠せないでいた。少なくともあの魚とは真逆の印象しかない。


「ほらほら。早くトワの家に行こうよお」


 同じ問答を繰り返すのにも飽きたのか、トワの着物の襟にしがみついているヤドカリが声を強めた。


「わかりました」


 これさいわいとアキトの歩く速度が上がる。必然、会話は中断した。


 村に近づくにつれ、やや小高い中央の丘の上、館の賑わいがこちらにも伝わってきた。煌々と燃える幾多のかがり火。調子のいい竹笛の音に、踊りだしたくなるような五線琴の音。口笛。歌声。笑い声。トワとアキトを殺すと決めたくせに、村の様子は昨日までとなんら変わりないようだった。いや、これまで以上の盛り上がりである。正月でもこんなに大がかりな宴はしない。


 むっとした思いと、それ以上にうら寒い恐れを抱きながら、トワは人気のない道を選んで自分の家へと向かっていった。その後ろを警戒しながらアキトがついてくる。


「トヨさんはもう寝てるのか?」


「普段なら。でもわたしが帰ってくるまでは起きて待ってると思う」


「おいら知ってるよ。トワの母ちゃんは起きてる」


 なぜかヤドカリが断言し、さらに続けた。


「アキトの父ちゃんも来てるぞ」


「どうして父者が?」


 アキトが目を丸くした。ヤドカリの不思議な力には今更驚かないが、自分の父の行動の不可解さには素直に驚きを示している。


「宴中に父者は何してるんだ? トワ、父者はお前たちの家によく来るのか?」


「来るには来るけど……でもそれは他の家と似たようなものだよ。顔を見て、何か困ったことはないか訊いて回るのは村長の仕事でしょ? あ、でも、うちは他と違って食べ物を恵んでもらうことは多いけど。でもそれは母さんがアキトの乳母をしていた縁でのことだってみんなわかってるし」


 それとわたしがアキトの嫁になることが確定しているから。トワはその続きの言葉を胸の中でつぶやくにとどめた。そしてアキトにばれない程度に小さくため息をついた。アキトも自分も同年代の中では島で大切にされてきた方だったのに……と。それがどうしてこんなことになってしまったのか。


「……もしかして。俺たちを匿っていないかトヨさんに訊いてるのかな。トヨさん、大丈夫だろうか。もしもトヨさんの身になにかあったら」


「えええ……」


 不穏なことを言い出したアキトに、トワまで顔色が悪くなってきた。そこにヤドカリが追い打ちをかけるように言った。


「確かにトワの母ちゃん、やばいかも」


「どういうことですか?」


「アキトの父ちゃんがトワの母ちゃんの腕をつかんでる。けっこう痛そうだし、トワの母ちゃんは嫌がってる」


 思わずトワとアキトの目が合った。


「急ごう」


「うん」


 無事に家の裏手につくと、念のため、トワはアキトを庭のほうへと促した。ごく淡い光を放つホタルの群れが舞い踊る闇の中を、トワを先頭にしゃがみ、頭を低くして進んでいく。夜といっても暑い時分だから家中の棚戸は全開となっており、居間に二人にとっての父と母の姿を容易に認めることができた。確かにヨウガはトヨの腕をつかんでいた。ただ、それだけが理由ではなく、二人の距離は随分近かった。


「トヨ。俺の妻になってくれ」


 驚愕の展開に、庭の隅で隠れるトワとアキトがほぼ同時に息を飲んだ。


「やめてください」


「冷たいことを言わないでくれ。今後は子を失った者同士、労わりあおうではないか」


「いいえ。いいえ。結婚だなんて、あんなにも悲しい思いをするのはもうたくさんです」


「俺はお前を悲しませることは絶対にしない」


 首を振るトヨにヨウガが熱く言い募っていく。


「ずっと好いていたんだ。アキトが死に、村長を継ぐものを産んでくれる女が必要となった今、トヨ、俺はお前を妻にしたい」


「いや。いやです」


 何度も首を振っているせいだろう、頭頂部で一つに結わえたトヨの髪が緩んでしまっている。その髪が幾筋が首元にかかっていて、白い肌の上で揺れる黒髪はどこか煽情的だった。


「トヨ……」


 ヨウガがごくりとつばを飲み込んだ。その音は忍んでいる子供たちにも聞こえるほど大きかった。


「くそっ……!」


「待って」


 かっとなり立ち上がりかけたアキトの腕をトワがとっさに抑えた。


「どうして」


 燃えるアキトの目がトワを責めるように見つめた。なぜ止めるのか、と。アキトの母はすでに亡くなっているし、この大人二人は不貞をはたらいているわけでもない。だが実子にとってはそんな単純な話ではなかった。しかもヨウガは双方の子を自らが殺そうとしたくせに求婚しているのだ。


『もしも俺を殺す必要があったらその時はためらわないでくれ』


 そうアキトは父に願った。だがこれは違う。こんなことのために命を捧げるつもりはアキトにはなかった。


 だがトワは落ち着いていた。


「ヤドカリ様。お願い」


 襟にしがみついていたヤドカリをはがすとアキトの手のひらにそっと載せ、トワがすっくと立ち上がった。


「村長。やめてください」


 突然現れた、死んだはずのトワの登場。これに色に支配されつつあったヨウガの熱がすっと冷めた。驚きに見開かれた表情はついさっきのアキトの表情にそっくりで、そんな些細なことにトワの緊張がややほどけた。


「母さん。ただいま。ほら、わたしはこうして生きているよ」


「トワ……!」


 はらはらと涙を流し始めたトヨの腕からヨウガがそっと手を離した。立ち上がり、トワに向き直ったヨウガは、普段の村長らしい風格を身にまとっていた。


「生きていたのか」


「ご存じでしたよね」


 きっとお婆はこの島のすべてを知っている。知る術を有している。そのつもりでトワは村長と対峙していた。それはお爺も同様だし、お爺との会話からも察せられたことだった。


「帰ってきたのか」


「はい」


「アキトはどこだ。ああいや、言わなくてもいい」


 お婆に訊けばわかることだとヨウガは暗に匂わせている。実の子を案ずる様子がない理由はこれに尽きるのだろうが、それは常日頃のヨウガの印象とはかけ離れていた。村人想いで、献身的で。理想的な村長だとトワも思っていた。なのに、これほどまでに非情な人だったとは――。


「母さん。父さんは海の事故で死んだんじゃないんだって」


 言いながら、トワの視線は村長に注がれていた。


「海の守り人のお爺が言ってた。母さんに伝えてくれって」


 トワの双眸は罪を暴かんとする意思をまとっている。


「この小さな島で誰かを殺せるような人って誰だと思う? 父さんにいなくなってほしい人って誰だと思う?」


 トワ自身はこの問いの答えを確信していた。それはもちろん、視線の先にいるヨウガだ。確信したのはついさっきのことである。ここに来る道すがら、なんとなく察してはいたのだがアキトの前では言えなかった。だがトヨを求めるヨウガのすさまじい熱量を目の当たりにすれば、もはやヨウガが仕組んだこととしか考えられなくなっていた。


 絶句するトヨに、トワは若干苛立ちを覚えながら言い募った。


「ねえわかる? 母さん。父さんはね、殺されたんだよ」


「……え?」


 ようやく発した間の抜けた声からも、トヨはいまだ状況を理解できていないようだった。そして見上げてくるトヨの姿にトワは強い驚きを受けた。


「……母さん」


 乱れた髪、緩んでしまった襟元、めくれあがった裾。子供のように純真無垢な瞳。どうして今まで気がつかなかったのだろうと悔いるほどに、トヨの姿はか弱い女そのものだったからだ。


 体の弱いトヨは心も同じくらい弱い。そのことにトワは気づいていた。なのに見ないふりをしてきたのはこれまでのトワ自身だったのである。たとえ母と娘の関係であろうとも、トワの方が年下だろうと、それでトヨに『強く在ること』を求めてはいけなかったのだ。『普通』であることすらトヨにとっては難しいというのに。


 トワは一度硬く目をつぶり、そしてひらいた。


「母さん。わたしたち、この島を出よう」


 こんな状況下ではここに住み続けるわけにはいかない。自分も、そして母も。それがトワが瞬時にくだした決断だった。


「村長。今までお世話になりました」


 トワは黙したままの村長に向き直った。


「わたしと母さんは今夜この島を出ます。船着き場にある一番古い船をもらっていきます。この島であったことは誰にも言いません。父さんのことも。村長がわたしを殺そうとしたことも」


 大陸では島の人間は蔑まれ、奴隷のような扱いを受けるという。だから島から出たがる者はこれまでいなかった。いや、出る必要もなかったのだ。大きな家族のような島人同士の関係も、島の風土も、なにもかも。こんなにも住み心地のいい場所は他にはないと誰もが自画自賛するほどなのだから。


 だが――もはやトワたちには島を出る選択肢しか残されていなかった。


「さ、母さん。行こう。何も持っていかなくてもいいから。母さんの嫌いな海のないところに行こうね」


「……海がない、場所?」


「そう。さ、立って」


 するとトヨに近づこうとしたトワの前にヨウガが立ち塞がった。


「トヨを連れていくことはゆるさない」


 その瞬間、ヨウガに対してずっと我慢していたトワの怒りの蓋がはずれた。


「母さんはわたしの母さんだ! たとえ村長だろうと止めることなんてできない……!」


 するとトワに対抗するようにヨウガが肩をいからせた。


「だめだ。ゆるさない。トワ。お前もだ。お前もこの島を出ることはゆるさない」


「だったら村のみんなに村長がしたことをすべて言ってやるんだから……!」


「言えばいい」


「……え?」


「これはお魚様が定めたことだ」



 ◇◇◇


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