8. 洞窟、海の守り人
ぴちょん。ぴちょん。
水滴が跳ねる音に目が覚めたトワは硬い岩の上で寝ていた。あれほどの高さから落下したのに死なずに済んだ安堵で、トワの緊張が少し緩んだ。と、トワの顔のすぐそばでまた水滴が跳ねた。見上げると頭上も同質の岩で覆われていた。岩肌からにじみ出ては落下する水滴は地下水の類だろう。
「ここは……もしかしてあの洞窟?」
場所を察するとトワの頭が一気に覚醒した。起き上がるや、周囲をざっと見渡す。すぐそばには海があり、水平線の向こうにはうっすらと大陸が見えた。となると、ここは海の守り人のための洞窟で間違いない。あのとき飛び降りた崖にほど近い場所にあるが、村人が訪れることはめったにない聖域だ。トワもここに来たのは初めてだった。
一緒に崖から飛び降りたアキトがそばにいないことを気にしながらも、トワは海水で濡れそぼった重い体を叱咤しつつ洞窟の奥へと入っていった。あちらに炎がゆらめいているのが見えていたからだ。そこが海の守り人の住まう場所なのだろう。ならば。
「おお。もう目覚めたか」
やはりというか、炎の前にはお婆そっくりの老人がいて、そのそばには眠るアキトが横たえられていた。粗野で簡素な竈――おそらく手作りだ――で焚かれた炎の上には古ぼけた鉄鍋が置かれており、その中では沸騰した水がくつくつと泡をたてていた。
「トヨの娘のトワだな。お前さんとは初めて会うなあ」
「お爺……だよね」
小さな体に少し曲がった背までお婆にそっくりなこの老人、だがそれも当然のことで二人は双子だった。そしてこの老人こそが海の守り人である。
「んだ」
声もどことなくお婆に似ている。ただ、お婆のように足の一方が短いということはなかった。また、身なりのいいお婆と違って、お爺のまとう着物はぼろきれ同然だった。首元で無造作に縛ったぼさぼさの白髪からもこの洞窟における生活の質がうかがえる。
「お爺。アキトは大丈夫?」
「おお。気を失っているだけじゃ」
青白い顔のアキトは固く目を閉じている。海面で落下時の衝撃をもろに受けたのはトワを抱きしめかばっていたアキトのはずだが、脱がされた上半身にも、そのほかの場所にも怪我の類はなさそうで、トワはひどくほっとした。
「何があったんじゃ。……ふむ。ほんじゃ向こうへ行こうかのう」
応えあぐねていると促され、トワはうなずいた。
洞窟の入り口近く、先ほどトワが目を覚ました場所まで戻ると、お爺はトワに体をふくための布を手渡した。
「ここにも火をおこすから待ってろい」
そう言われるとトワは急に寒さを感じた。もう昼前のようだが、全身が濡れているし、かつ洞窟の中にいるせいだ。トワはお爺の作業を見守りつつ、頭頂部に結わえていた髪をいったんほどくと、絞り、さらに水分を布に吸い込ませてからもう一度簡単に結わえ直した。着物が含んでいる水分もできるだけ搾り取っていく。さすがにここで胴衣と短裙だけにはなれないから、着たままで。それでも冷えはおさまらないので、トワは両手の指先をこすり合わせ、手のひらに温かな呼気を何度もかけ続けた。
お爺が手際よく動きながらすまなそうに言った。
「女はあっちに入れたらまずいからなあ」
「うん。知ってる」
海の守り人は男の仕事で、この洞窟は男のもの。特に奥のほう、住まいからその先へはたとえ子供でも女は足を踏み入れてはならないということは、この島では有名な話だった。
「で。何があったんじゃ」
新たに作られた焚火を囲み、あらためてお爺に訊ねられたトワは、少し考えたものの結局は思いつくままに口にした。
「アキトはまだ目が覚めない?」
「おお」
「……アキトはわたしをかばってくれたの。多分ここまで泳いで連れてきてくれたのもアキトなの」
それからトワは自分が知っていることを時系列とは逆にぽつぽつと話していった。カイジとチョウヒに襲われて崖から飛び降りたこと。自分とアキトはヨウガの依頼で代官からの文を受け取りに船着き場に向かっていたこと。それにはおそらくヨンドの件が絡んでいること。
「ヨンド……なあ。今度のヨンドは大きなお魚様なんだよなあ」
どういう手段を使っているかは知らないが、お爺は双子のお婆と連絡を取り合っているようだった。ただ、存在そのものが不思議な双子だから、トワもそこには気を留めなかった。それよりも。
「今度って? 前にもヨンドが現れたことがあるの? その時は別のものだったの?」
「んだ。五十年ほど前のことさね。ヤドカリの姿をしておった。ほれ、そこに現れたんじゃ」
お爺がすぐそばの水たまりを指すと、ちょうど水面に落下した水滴がぴちょんと跳ねた。
「そのときは何が起こったの?」
「迎えに来た姉者によって村長の館へと誘われていったよ。それから村を挙げての宴が続いたな。ほれ、今と同じように」
「その後は?」
長い枝で炎をつついていたお爺だったが、しばらくしたら何やら思い出したらしく笑みを浮かべた。ただ、答えようとはしなかったので、トワは迷ったものの、館で見た衝撃の場面を口にした。
「そのお魚様なんだけど……今朝、見たの。人の姿になったところを」
「そうか。ならばもうお魚様は姉者に願いを伝えたんだろうよ」
「願い? ヨンドは何をしてほしくて現れるの?」
「さあなあ。それはヨンドによって違うからのう」
「五十年前……のことだけど。ヤドカリ、様は。どんな願いごとをしたの?」
「ところでお前さん」
ふいにお爺が話題を変えた。
「お前さんはトヨと暮らしているんじゃろう?」
「う、うん」
「お前さんの父親のサイラだがな。単なる海の事故で亡くなったわけではないぞ」
「……どういうこと? 父さんは船から転落したって、母さんも他のみんなも言ってるのに」
「いいや。そういう単純なことではないんじゃ」
海の守り人とは、海から人を守る人間のことではないのか。トワの表情から疑問を読み取ったお爺であったが、やはり詳しくは語ろうとはしなかった。そのお爺がふと顔をあげた。
「おお。起きたか」
やや緩慢な動きでアキトがこちらに近づいてくる。
「トワ。体は大丈夫か?」
「うん。わたしは大丈夫。アキトは?」
「俺も大丈夫だ。ちょっと着水に失敗したけどな。ってえ」
平気だと言いながらもその場に座るという単純な動作一つでつい痛みを訴えてしまうあたり、まだまだ不調なのだろう。
「お爺。助けてくれてありがとう」
あぐらをかいた膝の上に両手をついたアキトは、囲む焚火ごしにお爺に深々と頭を下げた。
「いいや。わしは大したことはしとらん。それよりお魚様は人の姿になったんだな」
「ああ。そうなんだ」
「お前さんたちを殺そうとした主犯はヨウガじゃて」
「そうだ」
驚いたトワと違って、アキトは神妙にうなずいてみせた。
「理由はわかるか?」
「いいや。ただ、以前から父者には伝えていたんだ。もしも俺を殺す必要があったらその時はためらわないでくれと」
「ほお」
「お魚様にとって俺はゆるせない存在なのだと思う」
「ふむ。それはお前さんがお魚様を刺したからか」
「それもあるし、他にも理由があるのかもしれない」
語り合う男たちに、トワはとうとう口を出した。
「ちょっと待って。どういう意味? 村長がアキトを殺そうとしたの?」
「ああ。正確には俺とトワの二人を、だけど。……だからわからないんだ。なぜトワの命も狙ったのか」
わからなかった。だからアキトは死ねなかった。自分が死ぬのはいい。覚悟はしていたから。だがトワが死ぬことには我慢がならなかった。
「なあ。トワは『あれ』に対して何もしていないよな?」
「なにもしてないよ。あの朝、初めて見たくらいだもの。……あ。もしかして壁にかけられたままの自分を放置して働いていたわたしに腹が立ったのかもしれない」
「それはあるかもしれない。でもそれなら飯屋の人間全員が対象だ」
「順番に殺していこうと思った……から?」
殺すという言葉を使ったのは自分なのに、実際に口にのせたことで正直なトワの体が震えた。そんなトワの様子にアキトが安心させるように笑った。
「大丈夫だ。ここにいれば父者にも簡単に手は出せないから」
「お前さんがわざわざここまで泳いで来たのはそれが理由か」
顔をしかめたお爺に、アキトはそれ以上に顔をしかめてみせた。
「しょうがないじゃないか。あの時はここのことしか思いつかなかったんだから。ちょうどこの真上にいたんだ。利用しない理由はないだろう?」
「は? 利用だって? この神聖な場所をか」
「ああ。命には代えられない」
「まったく。次の村長になろうとする奴が生意気な口を利くもんだ」
「もう俺は村長にはなれないと思う」
「それもそうか。いやいや、どんな理由があるにせよあの崖から飛び降りてここにやってきた人間は今までいないぞ。普通は死ぬ」
この洞窟へは通常は船を使って移動する。なぜなら徒歩で入れる道が故意に設けられていないからだ。
「でもあのままだと殺されていた。だったら少しでも命が助かる方を選ぶ」
「まあな。それもそうだ」
真面目にこたえるアキトに、とうとうお爺も負けを認めた。
「だがこれからどうするつもりだ。お前さんたちがここにいることは姉者にはわかっている。お魚様がお前さんたちの死を望むなら、姉者も村長もそれをやり遂げようとするだろうよ」
いずれ知るでも、すでに知っているでもなく『わかっている』と言い切ったお爺に、アキトも考える表情になって口をつぐんだ。
「たとえ誰が来ようとも、ここならアキトは殺されずに済むだろうて。だがトワ、お前さんは無理じゃ」
お爺は焚火をいじっていた枝を抜くと、トワに小さな炎をともした枝の先を向けた。
「この洞窟は聖域で、特に奥の方は立ち入る者を選ぶ。たとえばアキトは最奥でも立てこもることができる。村長の血には聖者の血が含まれているからのう。だがお前さんは駄目じゃ。特別な血もないし、ましてや女だ。女はさっきわしとアキトがいた空間に足を踏み入れただけでも死ぬ」
これにトワの喉がひゅっと鳴った。女にとって禁じられた場所だと伝え聞いてはいたが、まさか本質的に立ち入ることができない場所だったとは――。
「だったらトワはどうしたらいいんだ」
「家に帰るんじゃな」
苛立つアキトにお爺はなんてことのないように返した。
「家に帰れ。そしてトヨに伝えるんじゃ。サイラは海の事故で死んだのではないと。おそらくそこから物事が進むだろうよ」
◇◇◇