7. どうしてわたしたちを
この狭い島には人を乗せるための馬などは存在しない。耕作のための水牛やヤギを有しているくらいだ。だから船に緊急の要件がある場合、若い者が船着き場に早足で出向くのが最速の手段だった。そう、狭い島といえど、歩くとなるとそれなりに大変なくらいには広いのである。今回、トワとアキト、二人で船着き場へ行くように命じられたのは、文の他にも何か運ぶべき荷物が届いているからなのだろうと、そうトワは推測していた。きっとそれはヨンドである魚に関することだろうとも。そして受け取りには相手方への対価としての銭が必要なのだろう。
ヨウガは代官からの文が届くと言っていた。ということは、あの魚のことは海を越えた地にまで広まっているということだ。そう考えるとトワは少し気が楽になった。あんな得体のしれない生き物のことをこの島だけで解決するのは無理がある。しかもあの生き物はアキトの生死を握っているかもしれないのだ。
だが、やや気の急いているトワとは対照的に、前を歩くアキトの様子はいつもどおりだった。薄い衣ごしに動く肩の盛り上がりも、むき出しの二の腕もふくらはぎも、銛の柄を握る拳の力強さも。何もかもがトワの知る男のものだった。こんなに立派な友が、弟が、わけのわからない生き物のせいで……そう思うと、少しばかりの空想でもトワの心中は荒れた。
「もっとあれのこと見ていたかったか?」
しばらく無言で歩いていたところにふいにアキトに問われ、トワはすぐに答えることができなかった。だが、あれとは、つまり『あれ』しかない。
今日も暑い。乾いた風には少しの冷感効果はあるが、本当に少しだけだ。まだ陽はそれほど高く昇っていないが、白く冴え渡る陽光は容赦なく二人の若者に照り付けている。
トワは額に薄くわいた汗をぬぐいながら答えた。
「もういいよ」
「もういいってことは、見たいとは思ってたんだな」
「見たいけど見たくなかった」
「なんだよそれ」
「怖いもの見たさ、かな」
自分のことながら適当な答えだ。これにアキトが「それは一理あるな」と声をあげて笑った。背を向けたままのアキトの両肩がふるふると震えている。成熟したコウヤの体躯に比べればまだまだだが、見るたびにたくましく感じることに、トワは嬉しさとわずかばかりの戸惑いとを感じた。
と、アキトの体から笑いが抜け落ちた。
「でも俺は正直あいつが怖い」
アキトにしては随分弱音な発言だった。
「もしもヨンドに会ったら敬うように昔から言われてきたけどさ……実際会ったらやっぱりな」
「……そうだね」
村の集落から船着き場まで続く海沿いの細道は、船に緊急の用がない限り誰も利用しない獣道だ。今もここには二人しかいない。だが二人しかいないということは、この村で禁忌とされる会話をすることができるということだった。
トワはこの一連の出来事についてずっと誰かと会話をしたくてたまらなかった。それはアキトも同じで、この十日間、館に閉じこもって非日常的な体験に浸り続けていたせいもあって、かつ久しぶりにトワのそばにいることもあり、だいぶ気が緩んでいた。それに、先ほど見た魚が人の形に変化する瞬間は衝撃だった。あれを見るのはアキトも初めてだったのだ。
若干のためらいはあったものの、二人の口は自然と滑らかに動いていた。
「ああでも。わたし、もっと魚のことを見たかったかも」
「そうか」
「うん。あの魚が何をするのか見ていたかった。気になるもの」
「はは。お前らしいや」
全身に深く響く、絶え間ない潮騒の音。見上げれば雲一つ見当たらない澄んだ上空。そして周囲には密集する野生のオオキビ。足元にはツユクサとアオアザミ。どれも見慣れた光景だ。……なのに。
「でも同じくらい……怖い」
「トワ?」
足を止めたアキトが振り返ると、トワもまた足を止めアキトをじっと見つめ返した。
「あの魚が何をしでかすのか、怖くてたまらない。村長もお婆も、アキトも、魚のことが怖くないの?」
「どうだろう」
内心動揺しつつもアキトは笑ってみせた。
「父者もお婆もヨンドに詳しいからな。俺もそれで案外怖くないのかもしれない。ほら、知っていればそれほど怖くなくなる時があるだろう?」
「でもアキトはあの魚に噛まれたんだよ?」
「噛むったって、猫にされたのと同じだよ。見てみろ。全然大したことない」
見せられたアキトの右手には青紫に変色した痕が二つあるものの、腫れているわけでもなく、確かに大したことはなさそうだった。
「もう痛くはないの?」
「ああ。全然平気さ」
「……村のみんながアキトのことを心配している」
アキトの肩が少しだけ上がった。
「あの魚はアキトのことをどうにかするんじゃないかって、みんな心配している!」
「トワ。さすがに声が大きい」
「なんでそんなに平然としてるの? 自分のことでしょ。なのにどうして!」
「どうしようもないからだよ」
「でも……!」
「しっ! ちょっと待て。向こうからやってくるのはカイジとチョウヒじゃないか?」
アキトが来た道へと視線をやり、つられてトワも振り向いた。
「本当だ。どうしたんだろう? 二人は『あれ』の警備があるから館を離れられないんじゃなかった?」
この村は基本的に暴力沙汰に縁がない。村人は家族同然のつながりで親しんでいるし、数世代前に大陸の支配下に置かれるようになってからは島は外敵とも無縁だからだ。ただ、村の男の多くは漁を生業にするだけあって屈強な体つきをしていて、カイジとチョウヒはそんな男衆の中でもかなりの剛腕を誇る者たちだった。
「ね。なんだか二人とも……悲しそう?」
普段は笑顔の絶えない男たちの表情が一様にして暗いことにトワが気づいた。この島の男は誰もが持ち歩く銛も今の二人にはどことなく重そうだ。
「……確かに。変だな」
アキトは知っていた。魚のせいで最近は嫁を抱けていないと二人が嘆いていたことを。その場にいたのだ。だがそのときも二人は豪快に笑っていた。非日常を楽しむ余裕が二人にはあったし、実際、二人はそういう典型的なこの村の男だった。
アキトがはっと息をのんだ。
「もしかして」
胸元に入れていた文を取り出すや、音をたててひらく。
「アキト。まだ船着き場に着いてないよ」
制止するトワにかまわずざっと文に目を通したアキトだったが、すぐさま表情を変えた。――何も書かれていやしない。
「くそっ」
文を握りつぶし、アキトが悔し気にうめいた。
「アキトっ? なに? なにが書いてあったの?」
「いいから。逃げるぞ」
「え? どうして?」
まだ何もわかっていないトワの手を、アキトは空いている方の手でぎゅっと握りしめた。そして強引に走り出した。
「あ、おい。待てっ」
背後から男たちのあわてた声があがる。そして遅れて駆け出した音も。
「待て!」
「村長の命令だ!」
カイジとチョウヒの声音には若干の焦りと不安が聞こえる。それでも次第に駆ける速度があがっていくのは二人の純真さゆえだ。そして、まだ戸惑いのあるトワを連れている分、アキトたちの方が不利だった。
「ねえ。どうしてあの二人から逃げるの? 何か言伝てを持ってきてくれたんじゃない?」
後ろを何度も振り返りながら訊ねるトワにアキトがばっさりと言い切った。
「そんなものはないさ」
「どういうこと?」
「今はとにかく走れ。……っ?」
嫌な予感がしたのは本能だった。
「伏せろ……!」
アキトが問答無用でトワに覆いかぶさった。腰の高さほどに身を縮めた二人の上を勢いのついた銛が飛んでいく。まさに間一髪だった。
「くそっ。カイジの野郎!」
銛の柄に彫られたヒブダイの意匠からカイジが投げたのだと一目でわかった。
「ほら立て! ここで立ち止まっていたら死ぬぞ!」
「な、なんで? どうしてわたしたちを?」
「いいから早く!」
いっそう混乱したトワをアキトが無理やり立ち上がらせた。そしてまた手を引いて走り出した。ただし、道をはずれて。そちらには海しかないというのに。
案の定、背丈を超える高さのオオキビをかき分けた二人の目の前に、途端に海が広がった。ただし海面までの距離はひどく遠い。そう、二人が立っているのは崖のふちだった。
「うっ……」
眼下の圧倒的な景色にトワはめまいを覚えた。どんな島人であろうとこのような場所に平然と立つことは難しい。
だが恐怖に震えている時間はなかった。
「もう逃げ場はないぞ」
カイジとチョウヒだ。
完全に追いつかれてしまった。
カイジの手には銛がある。ということは、先ほど放たれた銛はチョウヒのものだったのか。いや、違うな。チョウヒは俺たちを傷つけるのがこわくなってしまって、それでカイジがしぶしぶ引き受けたんだろう。そんなどうでもいいことをこのような状況で考えていたアキトは、カイジがためらいつつも振りかぶる動作にうまく反応できなかった。
カイジが銛を放つのと、アキトがとっさにトワの腰を引き寄せて地面を蹴ったのは――ほぼ同時だった。
◇◇◇