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トワの祝言  作者: アンリ
本編
6/37

6. 変化した魚

 腰の低さほどの木々のふくらみから抜け出ようとしたところで、トワは庭に面した部屋に白髪を結わえた団子状のものがゆらめく様を見かけた。あれはお婆だ。


「お魚様。準備ができましてごぜえます」 


 お婆が頭を下げつつ恭しく告げた目線の先、開け放たれた部屋からあの魚の姿をトワは捉えた。台座の上に敷かれた艶やかな布の上に、魚の長々とした渇いた体躯が横たえられている。


 そうか、この庭は客室に面した庭だった、とトワが気づいたその時。


 自然の摂理として伏したままだった魚がふわりと体を起こした。トワは動くこともできず、息を止めてその光景に見入った。だがお婆はすでに何度も見ているようで、一向に驚くこともなく、静かにその場に座していた。


 魚はしゅるしゅると形を変えていく。そして最終的には人の姿となりそこに座していた。


 丈は縮んだもののこの村の誰よりも背の高い男へと変化を遂げた魚は、外見は元の体躯のように細く長く、それゆえ遠目からだと余計に背が高く見えた。そして、腰まで届く髪も肌も、優美な衣も、どれも魚の姿を彷彿とさせる白さだった。だが両の目だけが異様に赤かった。


 それらの一部始終すべてを、トワは木陰に隠れて凝視していた。


「魚が……人に?」


 トワはその怪奇を即座に受け入れることができなかった。元が魚である人間は、色素や大きさだけではなく何もかもが異質な存在に見えた。手と足が生え、目と耳と口があるが、自分と同じ人間だとは到底思えない雰囲気を醸し出している。それゆえ、トワは人間のふりをしているだけのような魚に対して一層不快な感情を覚えた。と――その時。


「トワ」

「ひっ……」


 突如背後から耳元で声を掛けられ、トワの背筋が凍り付いた。


 どうにか声をあげることを我慢し、それからおそるおそる振り向いた。


「……アキト!」


「しっ。黙ってろ」


 たった十日、いや十日も、か。しばらく会わないうちにアキトはその身にまとう気配を変えていた。やんちゃで明るい面もあったのに、今のアキトは頬を幾分こそげ落とし、その目も以前より鋭利になっていた。声もそうだ。その低さと太さの変化はわずかな違いだが、聞きなれた声質との差異にトワは少なからず違和感をおぼえた。


 そのアキトの目は今、トワを通り越して館の方を見つめていた。険しさのあるアキトの表情からトワは察した。アキトもあの魚に対して良い感情を抱いていないということを。だがアキトは何も言わず、ただひたすら魚を見つめ続けていた。


 トワとアキトのいる場所から魚とお婆の元までは距離が遠く、二人が何やら会話を始めたもののその内容まで聞き取ることはできなかった。時折、断片的に音を拾える程度だった。


「……海が……」


「……ここから……」


 それでもどうにかして話を聞こうとするアキトの腕をトワはたまらず引っ張った。


「行こう。これ以上ここにいたらよくないよ」


「あ、ああ。そうだな」


 そのまま二人、そっと木陰を離れようとしたところで。ふとトワが振り向くと、遠くから赤い二対の瞳がこちらをじっと見ていた。だが気のせいだったのか、あらためて見ると異形の男はお婆の方に視線を向けていた。


 庭からある程度離れたところで、朝からあり得ないほどに緊張していたトワは安堵で一気に脱力した。


「いったいなんなのあれ……。アキト?」


 なんの応答もしないアキトを不審に思って見やると、アキトはじっと前を向いて物思いにふけっていた。


「……アキト?」


「あ? ああ、どうした」


「どうしたって、それはこっちの台詞だよ。アキトこそどうしたの?」


「俺はなんともない」


「嘘ばっかり!」


 まだつかんでいた腕を再度引くと、ようやくアキトの顔がトワに向いた。


「……トワ?」


「なんともないことくらいわたしにはわかる。それにあんな光景を見たばかりだよ? アキトは村長の息子だし、人に言えないことを抱えているのはわかるけど、でも……不安だったり辛いこととかあったら言ってよ。そういう感情はためておいたらよくないもの」


 言い募るトワにアキトの表情が柔らかくなった。


「それは俺の嫁になるからか?」


 これにはトワもあきれた。


「もう。こんな時に何言ってるのよ」


「こんな時だからさ。な、絶対に俺の嫁になれよ?」


「……ほんと相変わらずなんだから。ふふっ」


 結婚を迫ってくるアキトは普段のアキトそのもので、これにはトワも笑うしかなくなった。


「あ、こんなことしてる場合じゃなかった。わたし、アキトの部屋に行かなくちゃ」


「俺の部屋に? 俺に何か用があったのか」


「用があるのはアキトじゃなくて村長だけどね」


「父者が? なら俺も一緒に行く」


 あらためて門から館に入り目的の部屋に向かうと、そこにはすでにヨウガが待ち構えていた。


「おお。来たか」


「おはようございます。遅くなりました」


「父者。トワに何の用だ」


 アキトの声には幾分の刺がある。それにヨウガは叱ることもせず、「用があるのはお前たち二人だ」と言った。


「俺も?」


「ああ。まずは座れ」


 二人が言われたとおりにすると、ヨウガは懐から文と拳ほどの大きさの袋をアキトの前に置いた。置いたときの動作や音から、袋の中身が銭であることは察せられた。


「これから船着き場に行ってきてくれ。今日の船で代官様からの文が届くことになっているからそれを持って帰ってきてくれればいい」


「いいけど、でもそれくらいのことなら二人で行く必要はないだろ。それにこれは何だ」


 アキトが顔の横に銭の袋を掲げてみせた。


「いいから今すぐに行け」


 ヨウガが低い声音で言った。


「そして船着き場に着いたらこの文を読むんだ」


 普段、ヨウガが人にものを頼むときはもっと理解しやすいように言葉を選ぶ。だから村の誰もがヨウガの意見に素直に従う。だが今日の依頼という名の命令はそれとはまったく違った。


 それでも、ヨウガの表情から、アキトはこれ以上の問いを発することはしなかった。


「わかった。行ってくる」


 立てかけてあった自分の銛を自然な動作でつかむ。


「トワ。行こう」


「う、うん。それでは行ってきます」


 トワは頭を下げると、先に歩き出したアキトを小走りに追っていった。このとき前を歩くアキトの表情がまたこわばっていることにトワは気がつかなかった。そして室内に残るヨウガの表情に珍しく肉親の情が見えていたことにも気づくことはなかった。



 ◇◇◇


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