5. 館へ
その朝。
トワが浜から戻ると、共同井戸の前で隣人のキナに声を掛けられた。
「トワ。おはよう。村長がすぐに館に来てほしいんだって」
「そうなの? 教えてくれてありがとう」
すると、背中にくくりつけている赤子の尻を軽く叩いてやりながら、キナがトワに意味深な視線を送ってきた。
「……ねえ。もしかして」
「なあに?」
「今日呼ばれたのって、もしかしてアキトとトワの祝言の話だったりしない?」
「まさか!」
トワは思わず顔をしかめた。今は魚のことでそれどころではないはずだ。だがキナはトワの表情の変化に別の意味があると勘違いし、ふくれっ面になった。
「もう。どうしてトワはそんなにアキトと夫婦になるのが嫌なの? 確かにトワは普段はおとなしいのに頑固なところがあるよ? でもアキトとの話になるとびっくりするくらい意固地になるんだもん」
「嫌というか……。そういうことじゃなくて」
口ごもったトワに、同じく井戸のそばで野菜を洗っていた年配の女、サナが顔をあげた。
「トワちゃんは一緒に育ってきたアキトのことを夫として見れないんだよねえ?」
「そう。そうなの!」
トワが力強くうなずくと、これにサナが苦笑した。
「でも夫婦になれば自然と関係は変わるものよ。わたしもそうだったもの」
「……そう、なのかな」
「うちの母さんの言う通りだって!」
曖昧にすませたいトワに反してキナが同調してきた。
「だからそんなにアキトのこと邪見にしない方がいいんじゃない? それにアキトがかわいそうだよ。自分が同じようにされたら嫌でしょ?」
「……う、うん」
「ていうか、アキトは絶対いい男になるよ?」
「……そうかもね」
早朝からの矢継ぎ早の正論に、トワは言い返す気力をすっかり失ってしまった。
「じゃあわたし、館に行ってくるね」
この一年ほど、女同士で話す機会があるとアキトとの関係について追及されることが増えてきており、そのことにトワは内心では辟易としていた。色恋の話は盛り上がりやすく、次期村長となるアキトとトワの話は恰好のネタになりやすいことはわかっている。だがそれでも嫌なものは嫌なのだ。
トワの二歳年上のキナとは、アキトとの関係ほどではないものの、実の姉と妹のように仲がいい。だが新婚ゆえか、キナは自らの経験をもとに説教めいたことを言ってくる傾向があって、そういうときにはトワはその場から逃げ出すことにしていた。本人は良かれと思っての忠言であるし、相手を納得させる言葉をこちらが持ち合わせていないときたら、それしか方法がなかったのである。
「もう行くの? 朝ごはん食べてないんでしょ?」
「うん。でもなんだか食欲ないからいいや。母さんには食べさせてくれるとすごく助かるんだけど」
「全然いいよ。遠慮なんてしなくていいんだよ?」
「ううん。いつもほんとごめんね。うちの母さんもサナさんのようにもっとちゃんとしてくれればいいんだけど……」
「気にしないでよ。トワの方こそいつだって助けてくれてるじゃない。産前産後のことなんて、もう一生感謝しかないんだから。ささ。早く行ってきなって」
キナがトワを追い立てるように手を動かして見せると、サナも心得たようにうなずいた。
「トヨさんのことはいつもどおり任せてくれればいいのよ。さあ、いってらっしゃい」
キナとサナは相変わらず明るくて、優しくて。トワは申し訳なさを覚えながら二人から離れた。こうやっていつも気にかけてくれている人達がいるから母子二人でもどうにかやっていけているのに、と。キナとサナだけではなく、村人全員によってトワとトヨは生かされていた。そう、村とは家族と同義なのである。言葉に出さずとも村人すべてがその認識を共有していた。だが、彼らと話しているとトワは時折苦しくなるのだった。そして皆が喜ぶ未来を素直に受け入れられない自分がはがゆくなるのだった。
アキトとの結婚にはいまだ納得できていない。同じ乳を飲んで育っただけで許嫁にならなくてはならないだなんて、まったく意味がわからない。けれど、いつか自分の中で折り合いをつけなくてはならないだろう。そんなふうにトワは思っていた。それがこの島の不文律なのだから、と。
『アキトがかわいそうだよ』
「……そんなこと、言われなくたってわかってるのに」
誰にともなくつぶやくとトワはその足を速めた。
◇◇◇
さて、その足で館へと向かうトワが今考えていることは、色恋のことでも、自分自身の未来へのやるせなさでもなかった。村長が自分を呼び出した理由、これ一つに尽きた。
村長はこうして誰かれ問わずこまごまとした用事を言いつけることがあり、そういったとき、村人は誰もが従うこととなっていた。普段なら面倒に感じるところである。だが今のトワは違った。それどころか、なぜもっと早く自分のことを呼んでくれなかったのかと、やや苛立ちを覚え始めていた。
死していたはずの魚が動き、アキトの手を噛み、そして館に連れていかれ――すでに十日が過ぎていた。
その間、村人は魚のことで白熱した議論を繰り広げていた。あれは何なのだ、これからこの島はどうなるのか、と。トワも散々訊ねられた。あの日飯屋で何が起こったのか詳しく聞かせてくれ、と。ヨンドという言葉や概念は皆知っているが、その実態を正確に理解している者も、実際に見たことがある者も誰一人いないことから、今では一部過大な表現や憶測までもがある種の娯楽のように島中に伝播している有様だった。
ただ、魚が動く以前から、村の誰もが魚を仕留めた張本人がアキトであることを知っていた。アキトが「自分が獲った」と飯屋に持ち込んだことは周知の事実だったからだ。だからアキトの身に何か不幸な出来事が起こるのでは、と、皆に恐怖が広がりつつあるのも当然だった。アキトがいなくなれば次期村長にふさわしい男がいなくなる。アキトは村長の唯一の息子だが、血筋を抜きにしても、アキトよりも才覚のある若人がこの村にはいなかった。
あれからアキトは一切トワの前に姿を見せていない。漁をしに海に出ることもせず、同年代の男たちとの集いにも出ず、飯屋にも来ていない。トワが日々通う浜にも一度も現れていなかった。
これほどまでにアキトに会わなかったことはトワにはなかった。だから近頃ではアキトのことが懐かしくてたまらなくなっていた。この一年ほどは結婚云々の話でうっとうしくもあったが、それを除けば、トワにとってのアキトとは、大切な乳兄弟であり友人であることに変わりはなかったのである。
勝手知ったる館にトワが赴くと、門の前でコウヤに会った。
「おお。トワか」
男衆に囲まれて雑談をしていたコウヤはトワに気づくと輪の中から抜け出してきた。この時間帯にここにいて、しかも髪が濡れていないということは、今日の漁はお休みのようだ。
「コウヤ。おはよう」
コウヤはヨウガの弟、つまりアキトの叔父にあたる。齢三十、そろそろ肉体の衰えを感じ始めてもおかしくない年齢だが、コウヤはいつでもみずみずしい生気に満ちあふれていた。それには独身であることも影響しているかもしれない。そのせいだろうか、コウヤは性別問わず特に年下から慕われていた。
トワも他の者同様、コウヤに会うと自然と笑みが浮かぶ。だがトワがコウヤに抱く親しみには特別な縁も関係していた。
母がアキトの乳母であった三年間、トワはこの館で暮らしていたが、母がアキトの世話にかかりっきりな時、トワと遊んでくれていたのはこのコウヤだった。たとえば幼い子供に泳ぎを教えるのは父の役目なのだが、トワにとってのそれもコウヤであった。だから、父の顔を見たことがないトワにとって、コウヤは年の離れた兄というよりも年の近い父のような存在だった。ただ、アキトはトワがコウヤを別の意味で慕っていると邪推することもあって、コウヤもそれを知っているのか、最近はトワに声をかける回数が減っていた。
「今日はどうしたんだ。今はあんまりここには来ないほうがいいぞ」
優しい忠告にトワは笑みを深めた。アキトが何と言おうと、コウヤと一緒にいると嬉しくなる気持ちは抑えられるものではないのだ。
「うん。わかってる。でも今日は村長に呼ばれたの」
「兄者に?」
目を丸くしたコウヤは明らかに何も知らされていないようだった。
「何かわたしに頼みたいことがあるみたい。村長はどこにいるのかな」
「たぶん自分の部屋にいると思う。ああいや、あそこには今は行かないほうがいい」
その言い方に今度はトワの方が目を丸くした。この小島には小さな村が一つあるだけで、それゆえ村のすべての者は一つの大きな家族のようなものだった。村長であるヨウガもその強大な力で村人を従えるようなことはせず、あくまで親身な家長としてふるまっていた。だから、本来であればこの館も普段はひらかれており、誰もが自由に行き来できる憩いの場所なのである。用のないとき、または労働の合間に、ここに来れば誰かがいて、一息ついたり、談笑したり、ときに村に有益な情報を共有する、そんな場所なのだ。村長の自室ですら例外ではなく、相談事があれば誰もが気軽に訪れることができていた。だが――。
コウヤの言い方にトワは胸が苦しくなった。あれから十日もたつというのに、いまだ魚について何も解明されていないらしい。であれば、アキトも苦しい思いをしているに違いなかった。村人は皆アキトの今後についてひどく憂いており、それはトワも同じだった。さっき井戸端でのんきに恋の話をしていた女たちだって、アキトが心配だからこそ剣呑ではない話題を選んでくれていたのだ。
トワの眉間にひそめられたしわの深さにコウヤが慌てた。
「大丈夫だ。トワが案ずることなんて何もない。さ、アキトの部屋に行ってこい。兄者には伝えておくから。アキトもきっと喜ぶ」
「う、うん」
ためらいながらもうなずくと、コウヤはあからさまにほっとして館の中へと入っていった。
トワもコウヤに続こうとして、一寸考えてやめた。そのままぐるりと館の外を回って庭へと向かう。このほうがアキトの部屋に早く着く。結婚の話がおおっぴらに出るようになってからは足が遠のいていたが、それまで、トワはしょっちゅうこちら方向からアキトの部屋に遊びに行っていたのだ。
今はただ、アキトに早く会いたくてたまらなかった。
◇◇◇
館へ入ったところでちょうどアキトと遭遇したコウヤはトワの来訪について教えてやろうとした。だがアキトの不満げな表情に気づいてやれやれとため息をついた。
「見ていたのなら声を掛ければよかっただろう」
「別に」
言葉少なにコウヤの前を通り過ぎていくアキトからは強い反発が感じられた。もう何年もこの状態が続いている。
「あいつ余裕がないですよね」
まだ雑談を続けていた男衆の中からタイラが抜け出してきてコウヤに声を掛けた。これにコウヤは苦笑してみせた。
「だな。甥っこながら困ったもんだ」
「もっとどっしり構えてろって、アキトにはいつも言ってるんですけどね。なんだってコウヤさん相手にああいう態度をとるんだか」
「仕方ないさ。まだ若いんだ」
「でもコウヤさんはトワのことを娘や妹みたいに思っているっていうのに。ですよね?」
コウヤはタイラの意図を察し、うなずいてみせた。
「俺がトワに泳ぎを教えたんだ。そして俺はトワと同じ女の乳は飲んではいない」
「ですよね」
タイラがあからさまにほっとした顔になった。
◇◇◇