4. 時はきた
魚をもてなすための宴は飽きることなく毎晩繰り返された。
お婆の忠告に従ってヨウガは朝から晩まで魚に尽くした。誠心誠意、まるで神をたたえるが如く。その一歩後ろには常にアキトが従っていた。
アキトは父の言動を日々つぶさに観察し、この世ならざる者である魚に強い畏怖を覚えていった。だが村一番の猛者として知られる父がここまでしなくてはいけない存在――その魚に銛を打ち、命を絶ったのはアキト自身である。まだこの魚が尊むべき存在か忌むべき存在かはわからない。わからないが、たとえどちらでも、アキトのことを憎んでいると考えるのが自然だった。ならばいつなんどき魚に報復されてもおかしくない。たとえば今、その乾いた体に潤いを満たし、膨れ、蛇が首をもたげるかのように頭を動かしてきたら……。
魚の頭が一直線に我が身を貫く――アキトの脳裏に一瞬だが恐ろしい幻が見えた。
アキトは頭を伏せた。伏せたその顔は白く、額には汗が浮かんでいた。
お婆が祝詞を上げ始めた。この場でお婆にしか理解できない言葉の羅列は、それを聞く者たちの心をこそむしばんでいくようであった。
◇◇◇
それからも『お魚様』の正体は掴かめずにいた。魚は飯屋で突如動いたその日以来、生き物らしい反応を一切見せようとはしなかった。だから魚に関わる者たちの疲弊は日々募っていった。特にヨウガやアキトはひどかった。顔にはありありと疲れが見え、目の下には色濃いクマができた。気の休まらない日々は終わりが見えない分、辛いものがあった。
「お魚様は何かを成したいようだのう」
同じく疲れによって顔のしわを深めたお婆が言った。
毎夜、ヨウガの部屋でアキトとお婆の三人が集うのは習慣となっていた。
「わしはお魚様は神に近しい者だと思っとる」
それにヨウガが無言でうなずいた。このところのヨウガは必要以上に言葉を発しなくなっていた。不必要な発言を魚に聞きとがめられることを恐れているのだ。
魚は今夜もこの館の一室に安置されている。ただそれだけのことに何を恐れる必要があるのかと、館に出入りする者の幾人かは呆れている。だがヨウガは村長だ。こうまでしてお婆が神経をすり減らして対峙するあの干からびた魚は、やはりただの魚ではないのである。そう確信していた。
お婆はヨウガと、それからアキトに言った。
「もしも忌むべき者であればまず間違いなくすぐに事を起こす。こんまい者ならささやかな願いを口にする。だがあれから一週間、お魚様は何もなさろうとはしていねえ。ということはだな、お魚様は時を待っておるんじゃ」
「時を?」
「そうじゃ。ご自分の望みをかなえる時をな」
お婆がじっとアキトを見つめた。アキトはどきりとし、反射的に顔を伏せた。そんなアキトを物思う様子でしばらく眺めていたお婆であったが、やがて「よっこらしょ」と立ち上がった。
「ではまた明日にな」
やや短い方の足をかばいながら、一歩ずつ踏みしめるように、お婆はゆっくりと去っていった。
お婆特有の不規則な足音が消えるまで待ち、それからヨウガはいつまでも隣でうつむく息子に声を掛けた。
「アキト。この父に何か言いたいことがあるのか」
ぐっと、アキトが喉を鳴らした。それでも、拳を握り、震える声で言った。
「おそらくだが……お魚様は俺を恨んでいるのだと思う」
「お前を? 根拠は」
小さく目を見開いたヨウガを見、アキトはまた顔を伏せた。
「お魚様を銛で打ったのは俺だ。飯屋の壁に飾らせたのも俺だ。それにお魚様は俺の手を噛んだ。俺の手、だけを」
しばらくの間、静寂が二人を包んだ。
ややあってアキトが苦し気に言った。
「……もしも俺を殺す必要があったらその時はためらわないでくれ」
「アキト」
「父者。俺はこの村を守りたいんだ。自分が次期村長になるって知った時からずっとそう願ってきた。俺はこの村のためなら命を捨てられる」
ふうっと、ヨウガが深いため息をついた。
「わかった」
「恩に着るよ」
アキトが薄く微笑んだ。
◇◇◇
父と子が緊迫した会話をしている頃、お婆は魚のための部屋に戻っていた。
今日は月が満ちている。それゆえ深夜だというのに、棚戸を一つ開けただけでも室内は薄暗い程度だった。まだ宴の際の酒や肴のにおいが残滓のようにただよう室内で、畳を踏んだかすかな音が広い部屋にやけに大きく聞こえた。
魚にはお婆が不在の間も動いた形跡はなかった。魚を載せた紅色の絹、その布の皺の数も動きも、何も変わっていない。魚自身も干からびたままだ。いったいこの魚が動くと本心から信じているものはこの村にどれほどいることだろう。
お婆は深く息を吐いた。それから顔をあげると、おもむろに月の光で清めておいた酒を漆の盃に少しずつ注いでいった。そう、まだまだヨンドのためにすべきこと――試すべきこと――は山ほどある。
ぽたん、ぽたんと、昔ながらの作法に従って粘度の高い酒をゆっくり注いでいく。その間も魚はぴくりともしなかった。そこに給女が揚げ団子に練りたての蜜を添えて持ってきた。甘い香りがぷんと室内に広がる。続いて、入れ替わるように別の給女が大きなお盆を手に入ってきた。肉厚の葉の上に大輪のアオツバキを載せて。
蜜の甘い香りが清涼な花の香りと混じり合い、得も言われぬ空気が満ちていくと、まるで海の中にいるような錯覚が生じていった。潮の香りとは似ても似つかないのに、不思議とこの香りが海を連想させるのだ。五十年ぶりの感覚に、お婆の背中にうっすらと鳥肌がたった。
そして――花の盆が魚の前に置かれた刹那。
室内の空気がびりりと震えた。
心の臓を射るかのごとき衝撃は突然のことで、お婆はとっさに首にかけた古いまじない骨を握りしめた。代々の聖者に古くから伝わるクジラの骨を。だが若い給女は盆を取り落としてしまった。床に落ちた衝撃で肉厚な青い花びらが幾重も畳に散った。
もうもうと、魚の周囲に気のうねりが生じ始めた。目を凝らさずとも視覚が明らかにそこに歪みを認めた。魚が人ならざる力を解放した瞬間であり、それはお婆にとっては待ちに待った瞬間だった。
だが圧が尋常ではない。ただの人間が感じるには危険すぎる代物だ。
「ヨウガを呼んできとくれ!」
「はいい……!」
腰の抜けた給女は床に座りこんでしまっていたが、お婆の声に目が覚めたように飛び上がるや、一目散に部屋から出ていった。
お婆の額にはいつしかうっすらと汗が沸き上がっていた。そう、時はきたのだ。
「お魚様。お魚様」
まじない骨を額の前に掲げ、お婆は一心不乱に祈り始めた。
「どうか教えてくだせえ。お魚様は何をお望みですか。わしらに何をお望みですか。教えてくだせえ……」
祈りながらもお婆は全身で感じていた。魚が発する気は尋常ではないほど巨大に膨れ上がっており、祈りを中断することなどもはやできないことを。心構えせずに顔をあげれば自分の命が危うく、それはこの村、または島の破滅を意味していた。
◇◇◇