33. 祝言のあとのこと、そして待望の祝言へ
魚が消えてから三月後。船着き場には大陸の着物に身を包んだトワがいた。そして島の人間の多くがこの狭い場所に見送りのために集まっていた。
あの出来事の後、トワは考えに考えた。そして決めたのである。この島からいったん離れることを。島のことは今でも好きだ。島の人々も。しかしこの島の呪縛から一度離れた方がいいと思ったのだった。
あれからヨウガは村長を引退した。自らの責任をとると言って。そして正気を取り戻したコウヤが現村長として粉骨砕身はたらいている。それもトワが島を出る決意を固めた理由だった。自分がいればコウヤは心から安らげないだろう。ならば自分が島から消えた方がいい。それはコウヤのためでもあり、島のためでもあった。コウヤはあれからトワを意図的に避けていて、今日もトワの旅立ちだというのにここに姿を現してはいなかった。
「トワ。あっちでも頑張ってね。体には気をつけるんだよ。でもさみしくなったら帰ってくるんだよ」
涙ぐむキナの手をトワは無言で握りしめた。きつく結んだ口は、いったんひらくと泣いてしまいそうだからだ。
「トヨさんのことは心配しなくていいからね。うちの母さんもいるし」
トワはもう一度キナの手に力をこめてうなずいた。
トヨは――あんなにも毛嫌いしていた浜で日がな過ごすようになっていた。あの騒動の間気を失っていたトヨは、魚が泡になったことも、浜に向かって消えた様子も見ていない。だが何かを感じるようで、浜にいる間はいつになく機嫌も調子もよくなるのだった。トヨが浜にいる間は村長を辞したヨウガがよく付き添っている。それがヨウガなりの贖罪なのだろうとトワは思っている。
魚の願い――そして人の願い。
願いの強さは時として誰をも狂わせる。
たとえ誰であろうとも――。
「そろそろいいか。船を出すぞ」
今回、大陸まではカイジの船で行くことになった。チョウヒも同船する。それが二人にできるトワへの精一杯の罪滅ぼしなのだ。
「カイジ。チョウヒ。トワのことを頼んだぞ」
「おお。俺たちが必ず大陸まで送り届けるから安心しろ」
誰かの声に自信満々に答えたのはカイジ、無言で拳を握ってみせたのはチョウヒだ。
トワが乗船するや、チョウヒが岸を蹴って船を岸から離した。追い風の中、カイジが帆をあげていく。風を受け、膨らんだ帆が船を沖へと連れだしていった。
「トワーっ!」
「トワーっ! 達者でな!」
大勢の人々が大きく手を振りだした。これにトワも振り返した。
そのときだった。群衆の中でずっと黙っていたアキトがひときわ大きな声で叫んだのは。
「トワーっ……!」
そして天に向かって銛を突き上げた。
「俺がこの島を守るからーっ……! 守り続けてみせるからーっ……!」
アキトの必死な姿にトワは両手を振ってみせた。何度も、何度も。
◆
今日もトワは早朝から浜へと出向いている。そこではトワのことをアキトが待っていた。トワの予想どおりに。
「よお」
軽く手をあげたアキトは普段どおりだった。だがトワが近寄ってもなかなかしゃべろうとはしなかった。
「どうしたの? 変なアキト。もしかして別れがさみしくなっちゃった?」
こうやってトワが茶化すとアキトはたいてい反発する。だが今朝のアキトは少し困ったようにうなずいた。
「そう。ちょっとばかりさみしくてさ」
トワは目を丸くし、それから照れ隠しにアキトの隣の岩に勢いよく座った。
「今日はやけに素直だね。でもわたしはこの島を出るし、アキトの嫁にもならないよ?」
「ああ。わかってる」
「……え?」
今度こそトワは驚愕で言葉を失った。確かにあの魚との一件以来、アキトはトワと夫婦になる未来について一切語らなくなっていた。ただ、アキトはいまでも自分と夫婦になることを切望しているものとトワは思い込んでいたのである。そして、たとえトワが島を出ようとも、許嫁の関係を破算することはできないとも思っていた。
「トワ。今までごめん」
アキトの謝罪は突然だった。
「どうしたの……急に」
「いや。俺と夫婦になりたくないってトワははっきり言っていただろう? なのに俺はそれを信じようとしなかったから。ずっとしつこくてごめんな。嫌だったよな」
「そんなこと」
思わず否定したトワにアキトが困ったように笑った。
「こんなときまで優しくしなくていいから。というか、大陸に行っても今みたいに誰にでも優しい顔をするんじゃないぞ」
「なにそれ」
つい吹き出してしまったトワにアキトが真面目な顔で答えた。
「優しくされると俺みたいに勘違いする奴が絶対現れる。だから気をつけるんだぞ。いいな」
「う、うん。気をつける。でも……ほんとにいいの?」
「なにが」
「えーっと。その……わたしはアキトの嫁にならなくてもいいの?」
「いい」
「でも島の慣習が」
「いいって。もうそんなものどうでもいい」
「じゃあ……アキト自身は?」
「俺?」
再度見つめ合い、やがてアキトがため息交じりに白状した。
「俺は今でもトワを嫁にしたい。トワのことが好きだから」
好きだ。そうはっきりアキトに言われたのは初めてのことで、トワは小さく息を飲んだ。
「驚かせた?」
「う……うん」
「だよな。ああもう、俺って馬鹿だな。こういうことをもっとちゃんと伝えていればよかったんだよな。でも俺、鈍くて。トワへの気持ちにちゃんと気づいたのもついこの前のことでさ。だからしょうがないんだ。自業自得ってやつ」
「アキト……」
「だから俺、トワがここを出ていくのを止めない。それに俺さ、自由なトワが好きなんだ。言いたいこと言って、好きなことして笑ってるときのトワが好きなんだ。トワ、幸せになれよ。絶対に幸せになれ」
「……うん」
「ほら。泣くなって」
アキトに言われ、涙をぬぐわれて、トワは自分が泣いていることにようやく気がついた。人前では絶対に泣かないと決めていたのに、どうしてだろう、涙がどんどんあふれてくる。
「ああでも、あっちに行ったらいっぱい泣けよ。泣ける場所を見つけろよ。我慢なんてするな。な?」
こくこくとうなずくトワに、アキトが安心した表情になった。だが少しさみしそうに視線を落とした。
「……ほんとは俺がこうしてトワのことをいつだって慰めてやりたかったんだけどな」
「アキトは……泣かない? わたしがいなくなっても大丈夫?」
問いながら、トワは自分自身に同じ問いかけをしていた。わたしはアキトがいなくても大丈夫なのだろうか、と。この十六年間、生まれたときから一度も離れたことがないのに。魚とのことだって、アキトがいなければどうなっていたことか。
「俺?」
突拍子もない質問にアキトの目が丸くなった。だがすぐにはっきりと言い切った。
「俺は泣かない」
「どうして? さみしくないの?」
「それをトワが言うか?」
「……ごめん」
「はは。トワらしいや。もちろんさみしいに決まってる」
「ならどうして」
「でも俺のさみしさは俺のものだから。トワを一方的に好きな俺の、俺によるさみしさだから。だから耐える。俺が耐えればいいだけのことだ」
そのためには強く在らねばならない。その大切なことをアキトはコウヤから教わったと思っている。
「あのさ。一つだけ言わせてくれるか」
アキトが居住まいを正してトワに向き合った。
「多分、俺、トワのことをずっと好きだと思うけど、トワはこの気持ちは忘れてくれていい。ただ、俺はトワにとっての島でありたいと思ってる」
「……島?」
「ああ。島。トワが安心できる場所。だから俺はこの島でこれからも生きる。この島を守り続ける。だから、トワ。トワは好きなように生きてくれ。何かあったらいつでも帰ってくればいい。頼りにしてくれ。俺はいつでもここにいるから」
◆
船が島からどんどん離れていく。もう船上のトワの顔はよく見えない。一人、また一人と人々が船着き場から離れだした。何があろうと日常は止まらない。今日もやるべきことがある。
キナは去りがたい思いで最後まで残っていたが、背中の赤子がぐずりかけてきたので家に戻ることにした。最後にと、もう一度振り向いたキナは、ただひとり、船に向かって銛を高く掲げ続けているアキトの背中を見た。
どのくらいの期間島から離れることになるのか、トワが決めかねていることをキナは本人から聞いて知っていた。もしかしたら一生帰らないかもしれないし、場合によっては帰れる状況を失うかもしれないと、そう言ったときのトワは少し不安そうでもあった。この時代、絶対的なものなど何一つない。キナにできることは母とともにトヨの世話を請け負うことと、笑顔で見送ることだけだった。だが、船上のトワは満面の笑みで、もう心配はいらないとキナは思った。
そして密かに心配していたアキトの方も今日の様子を見れば大丈夫そうで、だからキナもトワやアキトのことをもうかわいそうだとは思わなかった。
◇◇◇
洞窟に今も住むお爺もまた、沖に現れた一艘の帆船を見つけるとまぶしそうに目を細めた。
「おお。おお。順調そうだわい。のう。姉者」
海を眺めるお爺の隣にはお婆がいる。お婆はあれからこの洞窟に移り住んでいた。
「そうじゃのう。天気もええし」
お婆は聖者を引退した。後継ぎを定めることなく。おそらく二度と島にヨンドが来ることはないとお婆は確信していた。次代の聖者が生まれる見込みがないことを魚が抱えていた無数の魂は知っており、それはヨンドの意志を人間に伝える者がいなくなることを意味していた。また、それらの魂が海に還ったことによって、この島はヨンドを迎えるための場所として機能しなくなったことを幽世に周知したはずだった。
実際、漁に出た者たちから、近海に青色以外の魚が泳いでいるという報告が幾たびもあがっている。
「あの娘に幸いが待っているといいがのう。よし。ちょっくら祈ってみるか」
長年の習慣で首からかけているまじない骨を握りしめ、お婆が何やらつぶやき出す。これにお婆の肩の上でヤドカリがあきれた声を出した。
「まったく。トカリ姉ちゃんは変わらないね」
「うるさいわい。ところでウカリはいつまでここにいるんじゃ。もう十分願いはかなえたんじゃないのかえ」
これにヤドカリが嫌そうな顔になった。
「おいら、まだここにいるもん。せっかくトカリ姉ちゃんとも暮らせるようになったんだから。ね。トカリ姉ちゃん。トカリ姉ちゃんもおいらがいた方が楽しいよね?」
ヤドカリの声は祈りに夢中になるお婆には聞こえていないようだ。だが耳たぶが赤らんでいる。お爺はこれを指摘することなく、逆にヤドカリに誘いをかけた。
「どうじゃ。そろそろ釣りに行かんか」
「そうだね。今日は何が釣れるかなあ」
お婆も加わった洞窟での新たな生活はヤドカリがずっと求めていたもので、幸せすぎてヤドカリの殻は始終揺れっぱなしである。女のお婆と共に暮らせるように洞窟の中に村人たちが建てた小屋、そこで木材のいい香りに包まれながら三人で過ごす時間はまるで夢のようだ。三人で寝て、食べて、笑って過ごせる毎日――ああ、いつまでもここで暮らしていたい。
と、ヤドカリが大きな声をあげた。
「あ! あそこを見て! 光ってる!」
「どれどれ。おー。すごいのう」
トワを乗せた船のあたり、海面がおぼろに光っていた。陽光で輝く波に揺られて、細かな砂のような光の粒子が様々な色の輝きを放っている。その波間に赤い目をした魚の顔が一瞬見えたような気がした。だがお爺がよく目を凝らすよりも先に魚は海面に隠れてしまった。
「……そうか。あれも共に泳ぐということか」
ならばトワが最初に魚に願ったこともかなえられたということだ。なんとも懐の深い魚である。
「ん? 何か言った?」
「いいや。なんでもないわい。さ、釣るぞ」
「どっちがたくさん釣るか、競争だあ!」
その日、洞窟だけではなく、漁に出ていたどの船も類を見ない大漁となり、島中がざわついたという。
◇◇◇
やがて――何年かたち。
お婆が不慮の事故で亡くなった。不用意に洞窟の奥の方へと足を踏み入れてしまったことが原因だった。続けてお爺も亡くなった。こちらの死因は定かではない。しばらくすると洞窟からヤドカリの姿も消えていた。
島から一切のヨンドがいなくなったからだろう、コウヤがいまだ有していた不思議な力もゆるやかに失われていった。その頃には島中に赤や白、黄色の花が咲くようになっていた。猫もヤギも、いつしか青毛は生まれなくなっていた。ニワトリのトサカも見事に赤くなった。島を訪れた高槻がこれに残念そうな表情を見せたが、島人はこれらの変化を前向きに喜んだ。
アキトはトワとの約束を守り続けた。島を守り、村長であるコウヤや島人の助けになり続けた。そして――島にトワが戻ってくる直前にコウヤは村長の座をアキトに譲って、トワと入れ替わるように今度は自分が大陸に渡った。そして島には二度と戻らなかった。
そしてトワとアキトは夫婦になった。生まれたときからの定めのとおりに。だが当の二人にはその定めに従ったつもりは毛頭なかった。幸せになるためにはお互いが必要なことを十分に理解し、だから夫婦になったのだった。そのことに気づくまでに紆余曲折する時間が必要だったわけだが、十年ぶりに再会した瞬間、トワはアキトへの深くゆるぎない想いに気づき、アキトはトワの変化を喜んで受け入れたのだった。
その日の祝言は島をあげて盛大に行われた。あの日、無数の魂で成る魚が空を駆けた日のような青天の下、お互いを見つめる夫婦の目には確かな愛情と信頼が映っていた。
了
これにて本編は終了です。
本日12時に次話として設定の詳細や裏話、そして各登場人物のその後などを簡単に載せて完結。
そちらはネタバレのオンパレードですので気をつけてください。
特に本編後の話についてはかなり踏み込んで書いていますので本編の余韻が損なわれる恐れがあります。
ただ、本編で抱いた疑問点は次話を読むと解決しやすいかと思います。




