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トワの祝言  作者: アンリ
本編
31/37

31. 祝言(4)

 めらめらと燃える打掛をかぶって、トワが館から飛び出してきた。


「トワっ……!」


 トワとアキト、二人が庭の池に飛び込むのはほぼ同じだった。


「大丈夫かっ?」


 水に濡れて重くなった打掛をアキトが忙しない動きでめくる。やがて衣の中から現れたトワの頬を、今度は逆に大切なものを扱うようにそっと両手で包んだ。


「無事か? 無事なんだな?」


 こくりとうなずいたトワに、アキトの表情がほころんだ。


「……っ! よかったっ……!」


 だがそれで終わりではなかった。苦悶の表情を浮かべたコウヤが二人に近づいてきたのだ。


「もう……駄目だ……」


 そこには普段の快活で健やかな青年の面影はなかった。


 警戒したアキトがとっさにトワを背中にかばうと、これにコウヤがひどく傷ついた表情になった。


「……なあ。アキト。俺は本当に限界だったんだよ。今日、トワがいなくなればすべてが終わると信じて、それだけを救いにして生きてきたんだよ。なのにこんなことになってしまって……。俺はいったいどうすればいいんだ……?」


「……アキト? いったいどういうこと? コウヤ? どうしたの?」


 何も知らないトワがコウヤを心配げに見つめた。だが双方で見つめ合った瞬間、コウヤの中の何かが――本人いわく、獣が――放たれた。


「……トワ。こっちへ来い」


 一転して冷静さを取り戻したコウヤがトワに向かって手招いた。


「さあ。来るんだ」


 コウヤの目を見て、声を聞いて――トワがアキトの背中から現れた。


「トワ! だめだ!」


 だがアキトの叫びはトワには聞こえていなかった。


 燦々と照らす太陽の下、ぐっしょりと濡れて重くなった打掛を引きずりながら、操られたトワがゆっくりとコウヤに近づいていく。その間、アキトは動くことができなかった。おばあも、おじいですらも。力を出し惜しみしないコウヤの前では誰もが無力だった。


 震える足でなんとかたどりついたトワを、待ち構えていたコウヤが微笑んで抱きしめた。


「なんだ……。こんな単純なことだったのか……」


 ほおっと、コウヤがため息をついた。そこには長年抱えてきた苦悩の色はなく、純粋に喜びと達成感だけが見えた。


「こんな単純なことに俺はずっと抗い続けてきたのか……」


「……コウヤ?」


 腕の中で身をよじり、トワがコウヤを見上げた。


 抱きしめられた瞬間に自我を取り戻したトワは当然のことながら混乱している。なぜコウヤの命令に従ってしまったのか、なぜコウヤに抱きしめられているのか、理由も原因もわからずにいる。


 ただ、コウヤに抱きしめられるのは昔から好きだった。


「……ふふ。子供の頃みたいだね」


 甘えるようにすり寄ったトワに、コウヤの体がわかりやすく硬直した。幸福にひたっていた表情も、一転して強い驚愕に塗り替えられた。


「俺は……何を……?」


「コウヤ?」


「俺はトワになんてことを……!」 


 叫ぶや、トワを離したコウヤが勢いをつけて後ずさった。


「ヨウガ殿。コウヤはいったいどうしたんだ」


 ヨウガに問いかける高槻たかつきの様子もだいぶ変化していた。祝言中もそうだが、さかのぼればこの島に足を踏み入れて以来、高槻はどこか夢見心地だった。トワやトヨのように魚の幻術にやられていたのだ。理由は当然、高槻の欲する最上の死を与えるためである。


「ヨウガ殿!」


 再三の問いかけに、茫然としていたヨウガがはっとした。


「あ、ああ。コウヤはおそらく闘っているのです」


 腕の中で意識を失っているトヨを気にしながら答えるヨウガを、高槻はさらに問い詰めていった。


「闘っている? その相手はヨンドか?」


「……いいえ。この島です。そして自分自身かと」


「それはどういう意味だ。コウヤは大丈夫なのか」


 これまでのような好奇心を前提としたものではなく、純粋にコウヤのことを案じる高槻の問いかけに、ヨウガはためらいながらも島の秘密に触れていった。そこにはこの場の異様な雰囲気も影響していた。


「コウヤには聖者の血をつなぐ義務があるのです。簡単にいえば、最も適した女を見つけ次第、孕ませずにはいられなくなるのです」


「……なんだって?」


「そして今までわからなかったのですが、その女こそがトワなのでしょう。思い起こせば、おそらくコウヤはトワに出会った瞬間にトワが特別な女だと気づいていたのだと思います」


「私はコウヤからそんな話は一度も聞いていないが」


「この島でも限られた者しか知りませんから。いや……しかし。子を孕ませたいという衝動は自らの腹を引き裂かずにはいられないほど強いものらしいが、コウヤの奴、よく今まで耐えてきたものだ……」


 ヨウガの感嘆めいたつぶやきに、高槻がたまらずといった感じで黒煙で汚れた袖で口元を覆った。


「……そんな。ひどすぎる。なんてむごい定めなんだ」


 高槻にとってのヨンドとは、単に自分の願いを叶えてくれる都合のいい存在でしかなかった。魚がトワを生贄のごとき花嫁に求めてもなんとも思っていなかった。知人でもない娘一人がどうなろうとも、高槻には痛くもかゆくもない。だが友と呼んでもいいコウヤまでもがこの島の不思議によって苦しめられていることを知り……この島の抱える闇と、それと同じくらいどす黒い自分の性根に想いを馳せ、高槻の眉がきつくひそめられた。


「……あの娘の年から逆算すれば十六年、か。ああ、なんて途方もない時間だろう。たまらないな。だからコウヤはあんなにも村長になりたがっていたのだね」


「高槻殿は知っていたのですか?」


「すまないね。でも人間だもの、少しくらい秘密があってもいいでしょ?」


 少しなどという生易しい話ではないが、高槻の軽い物言いにヨウガも冷静さを取り戻した。ヨウガはぐっと眉間に力を入れるとお婆に向かって叫んだ。


「お婆! 我々がどうすべきか教えろ!」


「そ、そんなの決まっとるわい。コウヤがトワを孕ませればええんじゃ。それですべてが丸く収まる」


 早口で応じたお婆は、だがすぐに自分の発言を否定した。


「いいや。違う。それじゃあ今までと同じだわい。トワを、トワを殺すんじゃ」


「トカリ姉ちゃん、何言ってるの?」


「なんだってっ?」


 気色ばんだヤドカリとアキトをお婆が順々にきつく睨んだ。


「コウヤは生きている限りトワを求めてしまうんじゃ。だがコウヤを殺せる方法なんてわしらにはない。おそらくコウヤ自身も自らを傷つけるようなことはできないはずじゃ。ならばトワを殺すしかなかろうて」


「嫌だ! そんなの絶対に嫌だ!」


「おぬしは知らんだろうがな」


 ごねるアキトにお婆が低い声で告げた。


「意にそわない子を孕まされることは死ぬことよりも辛いんじゃ。ならばトワは死んだ方がましじゃて」


 真に迫るお婆の物言いに、事情を知る者はもちろん、お婆とコウヤの関係を知らないアキトですら反論することができなくなった。


「なんだよそれ……」


 それだけ言うので精一杯だ。だがお婆は容赦しなかった。


「それともなにか。コウヤにトワを孕ませた方がええか?」


「はあ?」


「子を産めばトワはお役御免じゃ。その後、トワをどうするかはおぬしの自由じゃて、その方がおぬしにとっては都合がいいのではないかえ?」


「……トワは物じゃない! 俺はトワに自分の意思で生きてほしいんだ!」


「ほお? だったらコウヤが我慢すればいいのかえ? だがわしにはそんなことは言えん。コウヤはこの島のために苦しんでいるのだからな」


 お婆は前村長であるコウガに犯されている。だがその数か月前からコウガが何やら苦しみだしたことを察していた。お婆の住む社と村長が住む館は同じ敷地内にあるし、そうでなくても、村長の様子を時折『視る』ことはお婆の務めの一つだったからだ。


 やがてコウガは夜もほとんど眠れなくなった。昼日中も脂汗をかき、胸をおさえてうめき出し、心配した家族が医師でもないお婆に相談に来るほどだった。


 お婆がコウガを最後まで拒めなかった理由はいくつもあるが、その一つはコウガに対する同情だった。


 人が耐えられる限度をはるかに超えた苦しみにさいなまれ続けたコウガは、お婆の腹に子が宿った瞬間、憑き物がとれたように落ち着いた。コウガはお婆に心からの謝罪を告げ、死ぬまで自分の犯した過ちを悔いていた。


 お婆はいまもコウガをゆるしてはいない。深く傷つけられた尊厳を回復する手段は皆無だ。だがコウガに同情する余地は当時からあった。自分が逆の立場なら同じことをしていたとも思っている。たとえその結果、生涯にわたる罪悪感に苦しむことになり、相手を深く傷つけようとも。


 お婆のさ迷う視線がコウヤに向かった。今、コウヤは地面に膝をつき、頭を抱えてうめいていた。その姿は在りし日のコウガと瓜二つだった。


「ああ……。コウヤ……」


 握り慣れたまじない骨を握りしめ、お婆がその場に崩れるように座り込んだ。


「すまんのう……そんなにも苦しませてしもうて。そんなにも長い間苦しんでいることに気づいてやれなくて……」


「姉者……」


「トカリ姉ちゃん……」


 と、この状況下でトワが動いた。


 トワがコウヤの体を背中から包み込むように抱きしめたのだ。


「コウヤ。わたしのために苦しんでいるならもう我慢しないで」


 お婆とアキトの会話から、トワはなぜコウヤが苦痛に耐えているのかすでに理解していた。理解しての行動と発言だった。ただ、トワの声はかすかに震えていた。そこには未知の事柄に対する隠しきれない恐怖が含まれていた。


 コウヤは一瞬息を飲んだものの首を振った。


「いや……だ……」


「どうして? 苦しいんでしょ? でもそれはコウヤが悪いんじゃない。仕方ないことなのよ?」


「いやだ……。俺はトワには、トワにだけはそんなことは……したくない……」


「コウヤが何をしてもわたしはコウヤを嫌いになんてならない。それは島のみんなも同じ。だから心配しないで。心を解放して」


「だめだ……。絶対にだめだ……」


 ただ、そうは言いながらも、振り向いたコウヤの顔がトワの胸に埋もれていった。そしてコウヤの太い腕がトワの腰にきつく回された。おそらく無意識のことでコウヤ自身も気づいていないようだった。濡れそぼった打掛ごとトワに抱きついているせいで自らも濡れてしまっていることにも気づいていない。


「トワはそういうやつだから……。だからだめなんだ……。絶対にだめなんだ……」

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