30. 祝言(3)
「魚!」
コウヤが叫んだ。
「さっさとトワを連れてこっちへ出てこい! このままでは館ごと焼けてしまう!」
だが魚は動こうとしなかった。いや、動けなかったのだ。そして魚はとうとうその場に腰を沈めてしまった。弱る魚の様子は想定外で、トワもコウヤも驚きを隠せなかった。
「魚……?」
「お魚様?」
魚は万能だと、トワもコウヤも今の今まで思いこんでいた。たとえばここで大量の水を生成して消火したり、瞬間移動によってこの場から逃げ出したり、この危機的状況を回避する手段を持ち合わせているものと思っていたのである。だが違った。お爺の目論見どおり、全方位を炎に囲まれた魚は、今、なすすべもなく苦しんでいた。炎こそが最大の急所だったのだ。
「くそっ! なんでこんなことに……!」
コウヤがたまらず畳を蹴った。コウヤもこの不思議な炎を攻略する術を知らなかったのだ。普段力を完璧に抑え込んでいる分、使い方を工夫する機会がなかったのがあだになっていた。
炎に囲まれたトワは本能的に魚に寄り添った。このままでは魚と共にここで焼かれてしまう。だが魚の低い体温ごときではこの暑さは耐えきれるものではないし、魚にこの現状を打破してもらうことも期待できなかった。
カタカタと、トワの体が震え出した。何もかもが時間の問題だった。
すると、炎でゆらめくトワの視界に見慣れた少年の顔が入りこんできた。
「トワっ……!」
弓を手にこちらに向かってきたのはアキトだった。
「トワっ! こっちに出て来い! その打掛を頭にかぶって出てくるんだ! そして池に飛び込め!」
アキトの言う池とは、この部屋の目の前の庭にある。確かにそれならなんとかなるかもしれない。そう思ったものの、目前に立ち塞がる炎の壁にトワは完全に怖気づいていた。
「無理……! そんなの絶対に無理だよ……!」
「大丈夫だ! そりゃあ髪とか肌とか、少しは焼けちゃうかもしれないけど、でもさすがに死にはしないから!」
言った後で楽観的過ぎると思ったのだろう、アキトが強い口調で重ねてきた。
「ああもう! いいから出てこい! もう何も考えるな!」
「そんなこと言われたって……!」
「俺が絶対に助けるから! 助けてみせるから……!」
それはずっと誰かに言ってほしかった言葉で――その瞬間、トワの目から涙があふれた。
同じ乳を飲んで育ち、十六年という年月をともに過ごしてきたアキトのことを、これまでトワは親友であるとともに弟だと思ってきた。たとえアキトが男で、自分よりも背が高く、力が強く、自分にはできないことをこなそうとも、アキトの幼く頼りない部分を補うのは自分の方だという自負があった。
だが思い返せば――魚が動き出して以来、トワが早々に運命に従うことを選んだのに対して、アキトは常に抗い続けていた。カイジとチョウヒに襲われ崖から飛び降りたときも、そして今も。アキトの煤で汚れた着物も、顔も、まだ何もあきらめていない証だ。
そのアキトが求めるものとは――。
手を伸ばす先にいるのは――。
「トワっ……! こっちに来るんだっ……!」
切実な声で名を呼ばれ、トワの足が自然と前に出た――そのとき。
トワの隣で魚が強くせき込んだ。
「お魚様……!」
人間ですら耐えがたい熱さ――ならば魚にとっては拷問と同じだ。トワは感動も恐怖も飲み込むと急いで打掛を脱いだ。そして魚に手を差し出した。
「さ、早く逃げましょう。この打掛に入ってください」
トワの手を、顔を、魚がいとおし気に見つめた。だが魚は首を振った。
「お前だけで逃げろ」
「一緒がいいんです」
確かにこの打掛で体の大きな魚も連れて逃げるのは難しい。だが魚を置いてここから出るという選択肢はトワにはなかった。そこには損得はなかった。
すると魚が困ったようにつぶやいた。
「わたしの中のサイラという人間の魂がこう言っている。お前を生かしてくれと」
「……サイラ? それってもしかして……わたしの父さん?」
「そうだ。この男はわたしが食らった魂の中でもっとも大きな願いをとなえていた者だ。お前がほしいと。抱きしめてみたいと」
「……父さん、が」
「だがこの男は今、こう言っている。もう十分楽しく過ごせたと。抱きしめ、ともに海で泳ぐことができたと。本当ならばずっとそばにいたかったがもう心残りはないと。今はただお前に生きてほしいと、そう言っている」
また魚がせき込んだ。黒油の発する煙はいよいよひどくなっている。
「さあ。行け」
「お魚様……」
「またどこかで会おう。その時を楽しみにしている」
そう言うと魚は力尽きたのか、人型から魚の姿に戻っていった。そして完全に魚の姿に戻ると畳の上でうねり始めた。その様子はひどく苦し気で、トワはとっさに魚のことを抱きしめていた。
「離せ」
「いやっ! このまま置いていくなんてできない……!」
この三日間、海でともに泳いでくれた魚。すばらしい世界を見せてくれた魚。その魚を見捨てることなどトワにはできなかった。だがトワの背を魚がひれで軽く叩いた。離れろと、そう言っているのだ。何度か叩かれ、トワは涙を流しながらも魚から離れた。
トワは泣きながら打掛を頭からかぶった。
「……お魚様。わたしもお魚様にお願いしていい? いつか海で再会したら一緒に泳いでくれる?」
これに魚が尾の先端で畳を小さく叩いてみせた。
「……ありがとう」
トワは一度目をつぶった。そして覚悟を決めて目を開いた。
「また会おうね。絶対に会おうね。お魚様。……父さん」
そう言うや、トワは炎の壁へ――アキトへ向かって走りだした。苦しむ魚を残して。海に還れなければ魂は巡らないという昔からの言い伝えをあらためて思い出し、新たな涙がこぼれそうになるのをこらえながら。
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