3. 魚が動く
この島の夏は長い。暑いだけの毎日が半永久的に続くかのようで、海の向こうの大陸の住人も夏場はめったにこの島を訪れないほどだった。それは裏を返せば、島が村人だけの物となり、一息つける平和な日々が約束された季節ともいえた。
しかし、その幸福の均衡がにわかに崩れた。
その日もトワは飯屋で愚直に労働に勤しんでいた。ここで働き出してはや五年、働くことはトワの一日を占めるもっとも重要なものとなっていた。その飯屋に、昼時に漁を終えた若い男衆がこぞってやって来るのもいつもどおりだった。ちなみに女衆がここに来ることはめったにない。家にいる者も畑仕事をする者も、自分や近所の子供と自宅付近に集まって食べる習慣があるからだ。
あの日アキトが捕獲した魚はすっかり干からびていた。まるで昔からこの店の壁に掛けられているかのようにこの場にしっくりとなじんでもいた。魚の下にある机は、この時間帯、アキトやタイラといった若い衆の中心的人物が座る定位置となっていて、その日も彼ら四人はそこに当然のように腰かけていた。そしてトワに辛味の効いたソバを注文し、大して待たずに出されたそれを威勢よくすすり始めた。漁で濡れた短髪やこんがりと焼けた肌も相まって、食べている時の彼らはとても健康的だった。そして平和だった。
トワが水さしに水を足しに行き、また戻ってきたときにはその異常事態は起こっていた。
魚が動いていたのだ。
以前、トワはこの魚が動いた気がすると言って騒いでこの場にいる男たちに失笑された。だがこの日、その夢物語が現実のものとなったのである。
トワが気づいたときには、魚は長い身をくねらせ、談笑に夢中になっていたアキトの右手にがっしりと噛みついていた。
「なんだこいつはっ」
痛みにアキトが箸を取り落とした。強く振り払うと魚の口は離れ、しゅるりと身を引き、あっさりと元いた位置に収まった。まるで狂暴な出来事が夢幻だったかのように、寸分たがわず。
あまりに突然かつ短時間のことで、誰も何も言えず、また何一つできず硬直した。
だがアキトの甲にはしっかりと二つの穴が残されていた。そこから赤い二つの血の球が湧いてきて、アキトは噛まれた右手を胸に抱えてしばらく痛みをこらえていた。いつも勇猛果敢なアキトが額に汗を浮かべて歯を食いしばる姿こそ、トワには非現実的な光景に思えた。だが見上げれば、壁にかかる魚の口、左右に生えるひと際長い牙には確かに血がついていた。
「くそっ。どうなってるんだ」
アキトがトワと同じように魚を見上げてつぶやいた。
「それはヨンドだな」
「……お婆?」
誰もが声のした入口の方に振り向いた。
そこにいたのはこの村の聖者である老婆――通称、お婆――だった。
逆光を背にしたお婆の表情は屋内にいる者にはよく見えなかった。だが、小さな体、少し曲がった背、それに太く艶のある声はまぎれもなく本人のものだった。お婆は普段は社にこもっているのだが、二年ほど前に大勢の前に姿を現した時と、今と、外見は何も変わっていなかった。
お婆は一方だけが短い足をひきずりながら近づいてきた。そしてアキトたちの陣取っていた机の前に着くと、恭しく頭上を仰いだ。トワもつられて見ると、やはり魚は木彫りのごとき体を保って飾られており、二本の牙に付着する血の色さえなければ、白昼夢でも見たのではないかと思えるほど静寂を保っていた。
お婆が繰り返した。
「うむ。ヨンドだ。間違いねえわ」
「ヨンド? と、いうことは、こいつはただの魚ではないということか」
「アキト。おぬしは村長になるんだろう。だったらなぜ今まで気づかなんだ。この体の大きさ、形、どれもそこらにいる魚とは違かろうに」
「……すまない」
青ざめた顔でうなだれたアキトにかまうことなく、お婆は話を進めていった。
「この魚が良きものか悪しきものかはわからねえ。だが丁重に扱う必要がある。ヨンドとは『この世にあらざる者』。偶然にでも故意にでもこの島にやってきたのであれば、わしらは総出で慈しまねばならん」
「わかった」
「アキト! 正気なの?」
トワは思わず抗議していた。
「この魚はアキトのことを傷つけたんだよ?」
「トワ。わかってくれ。ヨンドとはそういうものなんだ」
「わかるわけない! アキトは自分を傷つけるような魚のことをもてなすっていうの?」
「聞きわけてくれ。トワ」
苦しげに吐き出したアキトにさらにトワが言い募ろうとしたところで、アキトが言い含めるように優しい声を出した。
「トワ。俺は大丈夫だから。こんなの全然大したことないから」
そう言うアキトの顔色はまだ回復しておらず、さしものトワにもそれが強がりであることは察せられた。だがアキトに再度「聞きわけてくれ」と頼まれ、無理して笑う様子を見れば、それ以上は強く言うことはできなかなった。
それからはあっという間だった。
魚は杭をはずされ、壁から降ろされた。その間お婆は絶えることなくぶつぶつと意味不明の言葉をつぶやいていた。それはこの世にあらざる者と通じる言葉だそうで、お婆しか使えない秘術にも関係するものだった。だがトワはそれをお婆の適当な鼻歌のようなものだと思っていた。久しぶりに聞いた今でもそうだ。だから魚を懇切丁寧に扱うアキトも、それを見守り頭を垂れる他の男衆も、何か馬鹿げた遊戯をしているようにしか思えなかった。
そうしている間に村長、つまりアキトの父であるヨウガが呼ばれて駆けつけてきた。ヨウガは干物にしか見えない魚に向かって深々と頭を下げ、それから牛車にのせて村長の住まう館へと魚を連れ帰ったのであった。
◇◇◇
その夜は館で貴賓を招くときと同等の宴が執り行われた。そして魚は館でもっとも良い客間に安置された。
慌ただしくすべてのことを執り行った深夜、ヨウガの部屋にはお婆とアキトが集っていた。照明は油に浸したより糸が一本燃えているだけで、室内の明度はお互いの顔をなんとか認められる程度だった。だがそれだけではなく、明らかにここにいる三人の顔は険しかった。
ヨウガが神妙な顔で切り出した。
「どうだ、お婆。お魚様の素性はわかったか」
これにアキトは内心笑いをこらえた。きっとここにトワがいたら「お魚様ですって?」と目をひん剥くことだろう。昼間に魚に噛まれた手はいまだじくじくと痛んでいるが、こうやってトワのことを思い出せば少しは気分がよくなる。
お婆もまたヨウガと同様に難し気な顔をしている。
「いんや。まだわからねえ」
「……そうか」
「明日もあさっても宴はやめるでねえど。お魚様がどういった方か判明するまではきっちりと敬うことだ」
「わかった」
ヨウガはため息をつきつつ了承の意を示した。
今日、ヨウガは魚に対して一日中腰を低くして接してきた。だが相手は異形の魚であり、善とも悪ともつかない魚なのだ。しかも今は物も言わず動きもしない干からびた魚である。何を言おうと、何を捧げようと、今日、魚は一切反応を示さなかった。明日も続く永遠とも思える労苦を想像すればため息の一つも出よう。
そんなヨウガをお婆が厳しく叱咤した。
「お魚様がどれほどのお方かわからねえんだ。決して気を緩めるでねえ」
「……すまん」
体の大きなヨウガがとことん背の縮んだお婆に言い返せないことを、アキトはまた面白く感じた。今度トワに会ったら話してやろう、きっと一緒になって笑ってくれるだろう、と。
そんなアキトの心中を見抜いたかのように、お婆が今度はアキトの方に顔を向けてきた。
「アキト。おぬしも村長になる男だったらな、よおく心しておくことだ。この世にはな、人間なんかじゃ考えもつかねえようなことはいくらでもあるんだ。わしらにできることは限られているんだわ」
今度はアキトがうつむく番だった。昼間、トワは魚に対して憤慨していた。アキトの手を噛んだ魚をなぜ敬えるのか、と。それに対してアキトは次期村長らしく言い含めてみせたがまだ理解が足りていないようだった。アキトはそんな己を恥じた。
「わしらの常識や道徳なんて関係ねえ。そういうお方がいるんだわ」
お婆の講釈は続いている。
「それを誰もが理解できるわけでもねえ。でもそれは仕方ねえこった。だからこそ村には長が必要なんだわ。高みにいる方ほどたった一度の過ちでもわしらをゆるしちゃくんねえよ。わしらすべてを殺せるだけの力を持っとるお方ほど、時として無慈悲なんだわ。だからおぬしらは知らないとなんねえよ。この村を、島を守るために何をするべきかをなあ」
しんとした室内に、じじ、と、より糸が油で燃える音が鈍く響いた。お婆の顔が炎に照らされてひときわ赤く映った。
◇◇◇
明日以降は毎日一話を朝6時に公開します。