29. 祝言(2)
「わ。教えてくれた。お婆さん、魚がこうしてちゃんと答えてくれるなんてめったにないことなんだよ。よかったね」
にこりと高槻が笑った。だがお婆は喜ぶどころか滂沱の涙を流し始めた。
「なら……。わしらは……。いったいわしらはなんのためにこんな思いを……」
その先をお婆は言えなかった。コウヤが止めたのだ。
「高槻。もうやめてくれ。お魚様。場を乱してしまい申し訳ありません」
上座にあらたまった様子で頭を下げたコウヤに、魚は緩く首を振った。
「よい。気にするな。さて、そろそろわたしは島を出る」
突然の祝言の終焉宣言にコウヤが再度頭を下げた。もはや誰も何も言えなくなっている。
そのときだった。やや離れた場所から爆発音が響いてきたのは。腹に響く低重音は普段の生活では耳にしない類のもので、トヨが甲高い声をあげてヨウガにしがみついた。
「なにがあったんだろう」
高槻が怪訝そうな表情になったその隣で、コウヤがすっくと立ち上がった。
「……お爺め。やってくれたな」
そうつぶやくとともに壁にたてかけていた銛を片手に部屋から出ていく。やはりというか、爆発はコウヤの部屋で起きていた。完璧に閉じていた棚戸には人間が両手で抱えられる程度の穴があいており、そこから濃い黒煙がもくもくと立ち昇っている。そして穴のそばには全身を黒く汚したお爺がいた。この破壊の実行者であろうお爺だが、今は穴の中に上半身だけを入れて何やら熱心に作業している。
「熱い! 熱いって!」
「ほれ。動くでない。我慢せえ。よし、縄が切れたぞい」
穴から顔を出したお爺の横顔はやり切った表情をしていた。少し遅れて、穴を蹴り壊しながら装備に身を固めたアキトが部屋から出てきた。こちらもいたるところを黒く汚している。
「アキト……生きていたのか」
ヨウガのつぶやきには様々な感情が含まれていた。
「なるほど。シカリの力を含ませた黒油を使ったんじゃな」
コウヤの背後で感心したようにお婆がつぶやいた。これにコウヤが顔をゆがませた。だがどこか面白そうでもある。そのコウヤの弧を描く双眸が、ちょうどこちらを向いたアキトとかち合った。その瞬間、アキトの瞳が大きく見開かれた。
「叔父貴! 俺はあきらめないぞ!」
吠えるように叫ぶや、銛を構えたアキトが一直線にコウヤへ向かって駆けてくる。それをコウヤは真っ向から迎え入れた。銛と銛とで、柄同士が激しくぶつかり合った。
「おお。ずいぶん力が強くなったな」
「ぬかせっ!」
「だがまだまだだ。たとえ素であろうと俺の方が強い」
余裕のある笑みを浮かべつつ、コウヤが推す力を強めていった。
確かに体格も経験も何もかもがアキトの方が劣っている。耐えきれず、アキトの足が若干ぐらついた。だがアキトは腹に力をこめて押し返してみせた。
「俺はもう子供じゃない!」
「何を言っている。アマエイを獲りに行く気概もないくせに」
「なんだとっ?」
お互いの唾が飛び交うほどの至近距離で二人が再度にらみ合った。
と、その背後を、すり抜けるようにお爺が通り過ぎていった。向かう先は祝言の執り行われている部屋だ。
「シカリ! 待てい!」
お婆がとっさに制止の声をかけた。すると間髪入れずにヤドカリが叫んだ。
「トカリ姉ちゃん! 何もしないで!」
ヤドカリもお婆の肩の上で祝言を見守っていたのである。もちろん、お爺の行動もこっそりと視ながら。
「お願い! シカリ兄ちゃんのやりたいようにやらせて! それはトカリ姉ちゃんのためでもあるんだから!」
「……わしの?」
戸惑うお婆の横をお爺が片目をつむって見せながら通り過ぎていく。そのお爺の腰にはいくつもの革袋がぶらさがっていた。手にも二つ同じものを持っている。走るお爺に同調して、見かけよりも薄い袋の表面がたぷたぷと揺れている。釣り餌を入れるためのよくある袋――だが。
「くそっ! そういうことか……!」
根本的に強い力を有するコウヤだが『視る』ことにかけてはヤドカリのように万能ではなく、お爺に比べても劣る。だが袋の動きやかすかなにおいで察することはできた。あの袋に入っているものはすべて黒油だと。
「邪魔だ! アキトっ……!」
全力でアキトを押しのけるや、コウヤがお爺を追いかけた。だがお爺の方が速かった。部屋の前に来るや、まだ上座にいた魚に向かって袋を立て続けに投げつけたのだ。
「こざかしい」
片手でトワをかばう魚の手前、見えぬ壁のようなものに袋が次々に当たる。衝撃で緩く結んでいた袋の口がひらき、黒油があたりに飛び散った。
部屋にいまだ残っていた様々な香りが、黒油特有のきつい匂いによって上書きされていく。
「まだまだじゃあ!」
お爺は手を休めない。腰に結わえていた袋もどんどん投げつけていく。だが今度は魚に直接投げることはしなかった。魚を取り囲むように、周囲の床や壁に故意に投げつけていったのだ。
袋が破裂するたびに室内の黒油の匂いが強くなっていく。金屏風はすっかり黒色に染まり、花瓶に生けられていた多数のアオツバキは油にやられてみるみるしおれていった。
さっきまで腰を抜かしていた奏者たちはいつの間にか姿を消している。下座にはカイジとチョウヒだけが残っていたが、銛を手に片膝をついた状態で動けずにいる有様だ。
祝い事にふさわしい雰囲気がいっさい掻き消えた部屋の中で、いまだ自分の席にあぐらをかいて座っていた高槻が驚きの声をあげた。
「なるほど。その油にも不思議な力が込められているんだね」
と、上座で静かに座っていたトワが身じろぎをした。
「う……ううん」
魚がトワの肩を抱き寄せた。
「大丈夫か」
「……んん。なんだか……頭が重くて……」
痛む頭を押さえながらあたりを見回したトワは、次の瞬間、まるで夢から覚めたばかりのような愕然とした表情になった。
「……え? 何が起こっているの?」
トワはまだ現状を理解できていない。その理由は魚の力と指示によるものだ。肝はアオツバキである。アオツバキの種子を練りこんだ団子を、同じくアオツバキの種子から採取した油で揚げる。そこにアオツバキの蜜をかける。こうすることでこの菓子が置かれた場所では海の力を強く感じられるようになるのだ。極めつけに生のアオツバキの花をこれでもかと部屋に飾らせていた。そして魚はトワに軽く幻術をかけていた。毎夜、夢の中でトワは魚と海を泳いでいる。その意識を継続した状態でトワは祝言へと連れ出されていたのである。
だからトワは海から突然現実に引き戻された状態にあった。心地よく泳いでいたと思ったら、なぜか黒油で汚された部屋にいて、しかも花嫁の打掛を着せられていたのである。驚いて当然だった。
「どうして……?」
トワが心細げな面持ちで魚を見上げた。その目には疑いの色が浮かんでいた。この三日間、トワは魚に幾分かの信愛を抱くようになっていた。だが今、そこに陰りが見えていた。
ちょうどそこにコウヤが駆け寄ってきた。
「お魚様。トワ。大丈夫か」
コウヤの顔を見るやトワが安堵したのは、幼き頃からの刷り込みのようなものだ。
「うん。大丈夫。でもいったい何があったの?」
そのときだった。屋外のどこからともなく矢が飛んできたのは。
矢じりの先には炎がともっていた。
さきほどコウヤに庭の奥まで突き飛ばされたアキトが、体勢を立て直すや、すぐさま放った渾身の一矢だった。
だが超人的な力で気配を察したコウヤが、振り返るや眉間に力をこめた。たったそれだけのことで矢が急激に速度を落としていく。と思ったら、矢はすぐさま元の速度を取り戻した。お爺がコウヤの力を一瞬だけ抑え込んだのだ。だがその一瞬で十分だった。
「くそっ……!」
向かってくる矢を避けるため、コウヤがはじかれたように後退した。一瞬遅れてその位置に矢が勢いよく突き刺さった。
小さな炎を受け入れた途端、黒油を燃料にして畳の上に巨大な炎が生まれた。炎はまず上座とコウヤの間に壁のように立ちふさがり、続けて周囲へと勢いよく燃え広がっていった。急速に膨張するすえた匂いと熱気に、誰もが一斉に顔を覆った。
「こっちだ。早く」
村長としての矜持からこの場にとどまり続けていたヨウガだが、劫火におされてトヨを腕にかばいながら出ていった。高槻も愛刀二本を腰に差すや口元を袖で覆いながら後に続いた。ここに残れば確実に死ねるが、燃死は高槻の美学に反した。カイジとチョウヒもあわてて出ていった。
だが魚とトワは上座にて四方を炎に取り囲まれてしまい、逃げ場所を失っていた。あっという間のことでどうすることもできなかったのだ。炎越しにコウヤと、それからお爺がいるが、天井まで届く狂暴な炎を通り抜けてそちら側へと移ることも容易にできない状況に陥っていた。




