28. 祝言(1)
魚が待ち望んだ日は好天となった。
青々としたアオザクラの葉が日の光を反射するたびにきらきらと輝く様は、さながら天からの祝福のようである。その光をまとう大樹がよく見える部屋において、トワの祝言はつつがなく執り行われていた。
周囲よりも一段高い上座には、金屏風を背に夫婦となる者が並んで座っている。夫となる魚は人型となり、今日も白絹の衣をまとい、腰まである白髪をたらしている。一方、嫁となるトワは柏原家から贈られた漆黒の打掛をまとい、頭頂部に一つに結わえた髪にはひときわ大きなアオツバキの花を飾っている。部屋のいたるところに活けられているどのアオツバキよりも大きく美しい一輪を。
ややうつむきがちなトワは、魚に手を引かれてこの部屋にいざなわれてきてから一度も口をひらいていない。そんなトワのことを、魚は赤い目を細め、飽きることなく見つめている。まるで本気でトワを愛しているかのように。
夫婦に一番近い席には村長であるヨウガとトワの母であるトヨが座っている。浮わついた様子のトヨはどこか落ち着かなさげだ。だが人ならざる者と娘が夫婦となろうとしていることに異論を述べることもなく、時折目の前に置かれた蜜のかかった揚げ団子をおいしそうに食べている。そんなトヨの隣で、ヨウガは険しい表情で黙している。
ヨウガとトヨの真向かい、これまた夫婦にもっとも近い席には、この島を領地とする柏原家の次男、高槻が座っている。上座の夫婦を眺める高槻の頬はやや赤らんでいる。それがただひとり長い袖や長い丈の着物を着ているからでも、すでに多くの酒を吞んでいるからでもないことを、高槻の隣に座るコウヤは察していた。この祝言が終われば高槻はずっと焦がれていたものを魚から与えてもらえる。美しい場所での死を目前にして高槻の心は踊っていた。
下座では五名の島人の手によって五線琴と竹笛が絶え間なく奏でられている。この島で祝い事があるときには必ず演奏される曲を、二つの楽器がことさら賑やかに繰り返しなぞっている。なぞる、という表現が適切な音色は、どの奏者もこの祝言を心から喜ばしく思っていないことのあらわれである。
奏者の心理はヨウガにもコウヤにもわかっている。だが特にたしなめるようなことはしていない。奏者を叱っても音の質が変わるとは思えないからだ。ただ、同じく下座に控えるお婆だけは不満そうである。そのお婆の後ろにはやや落ち着きのないカイジとチョウヒが控えている。この二人の長きにわたる務めは今日を限りで終わる。
「美しいな」
魚の賛辞にトワはわずかにうなずいてみせた。普段はしない化粧を施されているせいか、トワの表情はどこか硬い。
「愛しい娘。今日からお前はわたしのものだ。未来永劫、ともにいようぞ」
トワがもう一度うなずいた。
今日も暑い。だが棚戸を全開にした広い部屋にいるというのに、室内には言葉にできない冷ややかな空気が流れている。魚以外、誰も口をひらくことのない祝言は明らかに普通ではなかった。
と、魚がヨウガに唐突に声をかけた。
「ヨウガ。お前にはわたしとともに来てもらう」
「……は?」
酒を満たした杯を呑むでもなく握りしめ続けていたヨウガは、どこかこの祝言に上の空になっていた。
「それは……どういうことでしょうか」
「トワの世話をする者が必要だ。それにはトヨが適任だ。そしてわたしはお前の願いをかなえねばならない。だからヨウガ。お前にはトヨとともに来てもらう」
はく、とヨウガの口が動いた。だが言葉は出てこなかった。
「……へえ。そうきたか」
たまらずといった口調でつぶやいたのは高槻だった。
魚の言い分は強引だ。屁理屈めいてもいる。だが魚がそう決めたのであれば人間には拒めない。取引上のことであればなおさらだ。新妻がさみしくならないようにその母を連れていく。そのこと自体は大陸でも位の高い家でよく見かける光景だった。そしてこのやり方ならば、魚が多数の人間との間で交わしたすべての取引が矛盾なく成立する。
「では次の村長はコウヤ殿ですかね」
続く高槻の発言にヨウガが眉をひそめた。しかし何も言わなかった。言えなかったのである。トヨがヨウガの袖を握って離さないでいる。よわよわしい力ながらも、その手をヨウガは振り払うことができずにいた。
「兄者。心配するな。兄者の後は俺がきちんと務める」
淡々と発したコウヤの内面は誰にも読み取れない。だがその発言自体がヨウガにとって明らかな裏切りだった。
「お前という奴は……!」
ヨウガが手に持っていた盃を反射的にコウヤに投げつけた。盃はコウヤの肩に当たり、飛び散った酒がコウヤの一張羅をぬらした。
酒精の強い香りが、蜜のかかった揚げ団子やアオツバキの香りを上書きするように広がっていく。
「こんなことをしてただで済むと思っているのかっ……!」
「兄者。祝いの場でこのようなことをされては困る」
「この愚か者がっ……!」
怒りに震えるヨウガはすでに察している。コウヤが村長の座を魚に願ったことを。
「あららら」
高槻は扇子を取り出すと笑みが浮かびそうになっていた口元を隠した。かたやトヨは争う二人が見えないかのようにぼんやりとしている。ただ、ヨウガの袖を握る手は決して放そうとはしなかったが。そして上座の二人は静かなものだった。まるで傍観すると決めたように、魚もトワも口をつぐんでいる。
「俺がどうこうじゃない。兄者が村長失格なんだ」
顔にもかかった酒を袖でぬぐうコウヤの様子には落ち着きがある。
「何を……!」
「ヨンドに何を願えば何が起こり得るか、そんなこともわからずに兄者はトヨを望んだ。その時点で兄者には村長の資格はない」
先ほどから場の空気を読む気はないのだろう、高槻が無言でコウヤの杯に酒を継ぎ足した。それを憎々しく思いながらヨウガがコウヤを指さした。
「ならばコウヤ、お前はどうだ。お前は村長の座を望んだのだろう? その望みの終着点が地獄ではないという保証はないだろうが!」
「確かに保証はない」
高槻に目で礼を述べ、コウヤが満たされた盃を手に取った。
「だが今以上の苦しみはないと思っている。……ほら。見てみろ」
自分の手にある盃にコウヤが視線をやった。つられてヨウガと高槻もその盃を見た。盃の中身は小刻みに震えていた。ふいに強い揺れが起こるたびに酒がこぼれ、そのたびにぬめりのある酒がコウヤの手を濡らした。
「こうして我慢しているのがどれほど辛いか、兄者にはわかるまい」
「……なにを?」
何も知らないヨウガには話の先が見えていない。コウヤは震える方の手首をもう一方の手できつく握りしめた。
「俺は獣になりたくないんだ。父者や兄者のように」
その言葉にヨウガとお婆だけが強く反応した。
「……おぬし。まさか嫁にすべき女に出会っとったのかあ?」
お婆の小さな叫びにコウヤが困ったように笑った。それこそが答えだった。
「……そうだったのか。気づいてやれず済まなかった」
突然のことながらも、ヨウガは村長として、兄として言葉を続けた。
「だったら早々に子を成せ。その苦しみは子を成さないから生じているのだろう? なぜそこまでして耐える必要がある」
「それが島のためだからか? はっ。笑わせる」
「好かない女とは無理なのか。だがな」
「いいや。そういうことではない」
酒が半分ほど減ってしまった盃を、コウヤは手を震わせながらも勢いよくあおった。
「いいか、兄者。この島はおかしいんだよ。俺は知っている。他のどの島でもこんなおかしなことは起こっていないということを。大陸でもそうだ。他の国の話もずいぶん聞いた。だがどこにもこの島のようなことは起こっていない。そうだな、高槻?」
「ああ。この島だけだね。でもコウヤ。私はこの島は少し狂っていてもいいと思うよ。だから誰も近づこうとしないし、たとえ望んでも容易には近づけないのだから。この島が美しさを保っていられたのはそういうことだと思うんだ。……そうそう。ヨウガ殿」
ずっと口元を押さえていた扇子を下した高槻はひどく真面目な顔になっていた。
「この島の特殊性はヨウガ殿も知っているよね。毎年我が柏原家の城に来ているんだ。気づかないわけがない」
「……なんのことだか」
「たとえば島に咲く花の色はすべて青いよね。島に近い海に生息する魚も青いものばかりだ。私は今回この島に来て一つ驚いたことがある。ヤギや水牛、猫ですらここでは青毛なんだから」
「そ、それは」
「ちょっと待ってくれい」
突然、お婆が立ち上がった。下座から駆け寄るや、お婆が必死の形相で高槻に問いかけた。
「この島以外ではそういったものは青くないのかえ? そうなのかえ?」
「青いものもあるけど少数だね。花も生き物も、何もかも、それぞれが独自の色で彩られている。花は黄色や白、赤なんかが多いかな。猫は白や黒、茶色とか。うん、青だけではないのは確かだね」
「なぜじゃ。なぜ」
「どうしてだろう? ねえ、魚。どうしてなの?」
高槻が上座の魚を仰ぎ見た。すると魚が重々しく口をひらいた。
「ここにヨンドが集うためだ」
「へえ。それってどういう意味?」
続く問いかけにも魚が珍しく素直に答えた。
「ここがヨンドが人に願いをかなえさせるために作った島だからだ。青に満ちている方が海で暮らすヨンドにとっては具合がいいのでな」




