27. コウヤの抱えてきたもの
「うう……ん……」
アキトが目を覚ました気配に、壁に背をもたれて座るコウヤが闇の中で薄く笑った。
「ようやく気づいたか」
アキトは反射的に動こうとした。だができなかった。縄で胴体を縛られていたからだ。それでも、横たわった状態のままでもコウヤをきつく睨む気概はあった。
「叔父貴。どうしてこんなことをするんだ」
「わからないか?」
「わからない」
「トワの祝言を邪魔されたくないからだ」
「親父かお婆に命令されたのか?」
「いいや。これは俺の一存で行ったことだ」
「ははっ。村長の弟としての義務ってわけか」
あざけるように笑ったアキトに、コウヤは首を横に振った。
「そんなものじゃない。逆だ」
「どういう意味だ」
「わからないか?」
「わからない」
重ねての即答に、コウヤが右手を気だるげに伸ばした。
「ならこれでどうだ」
そしてひらいた手のひらの上、唐突に目の覚めるような青い炎が生じた。
「……なっ?」
燭台の灯り一つしかなかった室内に炎が揺らめき、薄闇の中でコウヤの無表情な顔が青白く浮かび上がる。だが、コウヤが手のひらを握りしめ、再度ひらくと、そこにはもう何もなかった。
「……なんで叔父貴がそんな力を」
「俺の母はトカリだ。まだ若いお前は知らなかっただろうが」
「その力でいったい何をするつもりなんだ……!」
畳の上で暴れ出したアキトを、コウヤはやや冷めた目で見下ろしている。
「本当は何もしたくないんだ」
これにアキトの動きが止まった。
「……どういう意味だ?」
「言葉どおりさ。だがこの島が俺に望むんだ。トワと子を成せと」
「トワとっ?」
いきり立ったアキトが体を大きく動かした。縄で拘束されたままで強引に起き上がるや、アキトは真正面からコウヤに対峙した。
「やっぱり叔父貴もトワを狙っていたのかっ?」
アキトは昔からコウヤがトワに向ける視線が気になっていた。普段は年の離れた兄のように、または年の近い父のようにトワに接するコウヤだが、まれに男としての欲のようなものが見える気がしていたのだ。トワや近しい友にはつい不安を口にすることもあったが、真に受けてもらえたことはなく、常に一蹴されてきた。だがコウヤがいつまでも独身でいることもアキトの不安に拍車をかけていた。
だからアキトはトワにしつこく言うようになったのだ。俺の嫁になれと。
「叔父貴にトワはやらない。もちろん魚にだってやるものか」
ぎりぎりと睨みつけてくるアキトに、コウヤがふっと笑った。
「だから言っただろう。トワと子を成すことを望むのはこの島だと。俺じゃない。俺はそんなこと望んじゃいない」
そう言うや、コウヤの全身を薄い布のような青白い光が包んだ。
◆
アキトを腹に宿したアキヲが産み月を迎えると、乳母を務めるためにトヨが館に移り住んできた。その腕に生後二か月のトワを抱いて。まだサイラを亡くしたことに心を痛めていたトヨだったが、この館にしばらく世話になれることには非常に感謝していたから、この日の表情はいつになく穏やかだった。
コウヤはヨウガとアキヲとともにこの母子のことを出迎えた。庭に狂い咲くアオザクラを眺められる一室で。
その日、その瞬間のことをコウヤは覚えている。今まで何とも思わなかったトヨがひどく神々しく見えたことが始まりだった。その瞬間、わかってしまった。その神々しさこそ兆しであると。そして兆しの源はトヨの腕に抱かれていた赤子だった。
『この子の名はトワです。あの……抱いてみますか?』
コウヤの探るような視線に気づいたトヨが、気をきかせたつもりでコウヤに赤子を手渡そうとしてきた。
『どうぞ』
『ああ……いや』
『遠慮しなくても』
再三の勧めにもコウヤはためらった。一度腕に抱けば自分が変わってしまう恐れを感じたからだ。せっかく今まで自らの力を開示せずに穏やかに過ごせてきたのに。自分を哀れむ兄が「俺が村長になったからには早いうちに島から出してやる」と言ってくれているのに。だが赤子を抱きたいという欲求にコウヤは逆らえなかった。
『……では』
コウヤはおそるおそる手を伸ばした。
受け取った赤子は小さく、軽かった。そして美しかった。その容貌が、ではない。美しいと評判のトヨの血をひいている容貌はコウヤにとっては価値はなかった。コウヤが惹かれた美しさとは魂のことだった。
『これは……なんと……』
いっさいの濁りがない、透きとおった魂。海の中に差し込む日の光をほうふつとさせる、純なまばゆさ。この島のどの人間とも異なる魂の質にはめまいを覚えるほどで――。
この赤子が自分と子を成さねばならぬ女なのだと、まだ齢十四のコウヤにもはっきりとわかった。
『コウヤ。どうした』
不審に思ったヨウガに問いただされ、コウヤは我を取り戻した。
『いや。なんでもない。生まれるのが姪だったらこんな感じなのかとつい感動してしまったんだ』
『そうか。だが生まれるのは甥だ』
『もうわかっているのか?』
『聖者がそう言っている。名はアキトと決めた』
『そうか』
『慣習に従い、トワはアキトの嫁とする』
『そうだな』
軽くけん制されたことを自覚し、コウヤは赤子をトヨへと戻した。
しかし、まだ赤子だというのにコウヤはこの娘がほしくてたまらなくなっていた。そして今ここで赤子と自分の関係を告げれば赤子を手に入れられることもわかっていた。ヨウガにも、誰にも不服を唱えることはできない。なんといっても次代の聖者誕生にかかわることだからだ。
だがコウヤは望みを口にしなかった。それでは赤子がかわいそうだと思ったのだ。まだ生まれて間もないのに、こんなにも年の離れた男の嫁にされるなんてひどい話だと。コウヤは産みの母がその身に今も宿す憎悪を理解していた。父も母も、兄も何も言わないが、己が力の強大さゆえにわかってしまうのだ――。
◆
「……はっ。今見せられたものは……なんだ……」
「俺の過去の一部だよ」
アキトが夢のような幻を見終えるとともに、コウヤの体にまとわりついていたアオザクラの残滓のごとき青白い光が消え失せた。
「これでわかっただろう。なぜ俺がトワを求めるのか、その理由が」
「ぐっ……」
うめき声をあげたアキトが胸を抱えるように身を縮めた。コウヤに成り代わったかのような疑似体験は、突然かつ異常すぎて容易についていけるものではなかったのである。当時のコウヤが赤子を求める渇望は、性的な衝動でも、恋焦がれる熱情でもなかった。例えるなら水や空気に飢えた状態に近かった。つまり、それなしでは命を失う類のものであった。
「ぐうう……ううう……」
幻の中での苦痛は一瞬のことであったにもかかわらず、アキトの感覚を長い間狂わせ続けた。
「うう、う……」
苦しみに悶えるアキトを黙って眺めていたコウヤだったが、やがて絞り出すように語りだした。
「……そうさ。俺がトワを求めてしまうのは俺が獣だからだ。ああ、俺は獣なんだよ。島に従順になるようにしつけられた、自分の意思などもてない獣なんだ」
コウヤは胡坐をかいた膝の上で両手を組んできつく握り合わせた。そしてその両手の上に額を強くすりつけた。何度も、何度も。
「……嫌なんだよ。こんな自分が。ふと気を抜いたらトワを襲いそうになってしまう醜い自分が。一度亡き父者に言われたことがある。気をゆるすなと。あれはこういうことだったんだ。この平和な島では何も起こったりしない。俺が警戒すべきだったのはこういうことだったんだよ」
顔をあげたコウヤの頬の陰りに、苦痛にさいなまれていたアキトが息を飲んだ。顔を合わせなくなって数日しかたっていないのにこのやつれようはどうだ。ただの心労でここまで変わるわけがない。
アキトの物思う視線にコウヤが泣きそうな表情になった。
「今すぐにでもトワを襲いたいという欲望が俺の中で渦巻いている。嵐のように暴れている。早く子を成せと、そればかりを命じてくるんだ」
それはアキトがいまだ見たことのない叔父の姿だった。
「まだトワが子供だった時分は理性でもって抑えられてきた。だがもうトワは子を成そうと思えば成せる。だから俺も我慢しきれなくなってきている。限界なんだよ」
重いため息の後、絞り出すように言葉が続いた。
「……だがそれももうすぐ終わりだ。トワは魚の嫁になる。魚なら俺を止められる。そうすれば俺はこの醜い欲望から解放される。そして俺は村長になる。この島にはびこる不思議と悪習のすべてを俺が消し去る。消し去ってみせる。それですべてに終止符を打てる」
熱く語るコウヤがふいに申し訳なさそうな表情になった。
「アキト。すまん。だがこうするしかないんだ。この島は生まれ変わらなくてはいけないんだ」
「……叔父貴の考える未来にはトワはいないってことか?」
「トワがいたら俺はトワを襲わずにはいられない。ならば魚とともにこの島を去った方がトワにとっても幸せだ。アキトにはすまないが」
「俺のことはどうでもいい。だけどトワはどうだ?」
未曽有の苦しみを味わいながらも姿勢を正したアキトの目には、強い怒りが浮かんでいた。
「トワはこの島のことが好きなんだ。そのトワを島から追い出すだなんてひどいじゃないか。それに魚に連れていかれたらトワはどうなってしまうんだ? ヨンドの世界に人間が入り込んでただで済むわけがない」
「ならこの俺を島から追い出すか? それとも殺すか? だがお前にはどちらも無理な話だ。俺は強い」
ただ、そう言ったコウヤの表情は暗かった。強さを誇示したものの、強者である自分に悲しみを覚えているかのようだった。
「そして俺は生きているかぎりトワを求めてしまう。どこにいようと、俺が生きているかぎりトワに平穏が訪れることはない。それに運のいいことに魚がトワを求めてくれている。そう、俺と魚、この二つに勝てる者はどこにもいない。現世にも幽世にも」
話は終わりだ、とコウヤが立ち上がった。
「もう昼時だ。祝言も始まる。すべてが終わるまでお前はここにいろ」
小気味いい音をたてて棚戸がひらくや、コウヤは部屋から出ていった。コウヤが出るやまたも棚戸は竹を割るような音をたてて瞬時に閉まった。その間、誰も棚戸に触れてはいなかった。一連の動きは目にもとまらぬ速さで行われ、アキトが動く間もなく、部屋は目もくらむようなまぶしさに当てられたのち、燭台の灯り一つしかない暗闇に再度飲み込まれたのだった。
◇◇◇




