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トワの祝言  作者: アンリ
本編
26/37

26. 深夜、コウヤの乱心

 一人となったアキトが向かった先は魚とトワが眠る部屋だった。


「……さて。どうするかな」


 部屋の前にはカイジがいた。閉めた棚戸を背に腕を組み、あぐらをかいて座っている。先日、アキトとトワを襲った際に銛を投げてきたのはこのカイジだ。真正面からぶつかれば、カイジはアキトとの対戦をためらわないだろう。この島のためであり村長の命とあれば、人を殺せる。それをやり遂げる気概のある男なのだ。そしてアキトはそんなカイジのことを今でも好ましく思っていた。カイジでなくても、島の男ならば誰でも同じことをする。トワもきっとそう思っているはずだという確信もあった。


 アキトは懐から腰に結び付けている袋から火付け石を一つ取り出した。予備があるから一つくらいなら失っても問題ない。カイジから見て斜めの方向に静かに投げると、中庭の茂みに落ちた石は、かさかさっと音をたてながら落ちた。


「なんだ? 猫か?」


 カイジが膝を立てて立ち上がり、そちらの方に目をやった。無防備な背中をアキトに向けて。アキトは一気に距離をつめると、カイジの後頭部を銛の柄で思いきり殴った。


「ごめんな」


 気を失ったカイジを座っているように見えるように棚戸にもたれさせる。部屋の中は静かで、魚もトワもこの騒動で起きた気配はなかった。


「……よし」


 ここまでは問題ない。あとはおじいが来るのを待つだけだ。


 黒油を手に入れたお爺がやってきたら、この部屋に忍び込み、トワを連れ出す算段になっている。少なくともトワのことを魚からある程度引き離す。次に油のつまった樽を部屋に転がし、壊し、流れ出た油に火をつける。それであの魚もおしまいだ……。


 湧き上がってくる不安と興奮とを持て余しながら、アキトは腰に下げた火種の入った竹筒をそっとなでた。背負う矢筒に入った矢の半分ほどには矢じりに布を巻いてある。布には洞窟に保管してあった黒油をわずかにしみこませてあるから簡単に火はつくだろう。


 カイジが簡単には起きそうにないことをあらためて確認し、アキトは先ほどまでいた物陰へと戻ろうとした。だができなかった。全身にまとう何かがはじけるような感覚がしたと思ったら、目の前にコウヤが立っていたからだ。


「なんだ。叔父貴か」


 突然の登場にかなり驚いたものの、助かったとアキトは思った。この館で自分の味方をしてくれそうな人間は叔父のコウヤだけだからだ。トワの育ての父はこのコウヤだし、嫉妬する感情を抜きにすれば、コウヤほどに清廉さを好む人間をアキトは知らなかった。これまでは連絡をとる方法がなかったから助力を願えなかったが、ここで偶然会えたのは運がいい。しかし。


「どうしてここにきた」


 コウヤの発した声がやけに低く、アキトは違和感を覚えた。それに表情も硬い。硬いというか……剣呑だ。オオザメに立ち向かうときですらそんな表情になることはなかったというのに。


 コウヤはアキトの動揺を見逃さなかった。


 ためらうことなくコウヤの拳が動いた。


「どう……して……」


 疾風のごときすばやさでアキトは腹を強く殴られていた。腹部を硬くして身構える余裕も、銛を持ち上げる間もなかった。


「叔父……貴……」


 アキトはコウヤの太い腕にすがりながらも意識を失った。


 コウヤはアキトを無言で肩にかつき上げると、アキトの銛も回収してその場を後にした。それをお爺は大量の油樽を目の前にしながら『視て』いた。コウヤと遭遇する直前にアキトが感じた小さな衝撃、あれはヤドカリによる守護の力が消滅した瞬間だったのである。現実世界と不思議との間に生じたひずみは瞬く間にお爺に危機を感知させていた。


「おお。おお。コウヤの奴め。何を企んどるんじゃ」


 お爺はその場にあぐらをかくとあらためて目を閉じた。そうするとアキトがコウヤの部屋へと連れていかれる様子がくっきりと視えた。だが、棚戸が閉められた途端、部屋の中の様子を『視る』ことができなくなった。これにお爺がたまらずといった声をあげた。


「ほお! コウヤがこれほどまでに強い力を有していたとはのう……!」


 それでもお爺は粘り強く部屋の中を視ようとした。だが、どれほど探ろうとも部屋の様子を知ることはかなわなかった。長い時間がたち、疲労困憊したとうとうお爺はあきらめた。


「これは無理じゃて。さすがはわしの甥っ子じゃ」



 ◇◇◇



 今夜の夢はいつもと違った。


「ふうむ。少し外が騒がしいようだ」


 トワの体に巻き付いていた魚が何やら思う表情となったのだ。


「もう泳がないの?」


 たまらず声をかけたトワは心ゆくまで泳ぐことを楽しんでいる。子供のように無邪気にせがむトワに、魚がうっすらとほほ笑んだ。


「いいや。もっと泳ごう」



 ◇◇◇



「たたたた、大変だあ」


 突如慌てだしたヤドカリに、まだ話すヤドカリが身近にいることにも、子供の扱いにも慣れていないおばあが大きく反応した。


「おお! なんと耳元で騒がしいこった」


「アキトが! アキトがコウヤの部屋に監禁されちゃったんだよお!」


「ん? アキトがコウヤに?」


 お爺と別れてから、お婆は館の隅の方に位置するやしろへと戻りぼんやりとしていた。この社には今はお婆しか立ち入ることができない。社に面する小さな庭にはお婆が手自ら育てている花が敷き詰められるように咲いており、その濃厚かつ複雑な芳香が社の中にまで漂っていた。


「そうか。やはりアキトは生きておったのか。ふうむ。しかし、これはどういうことかのう」


 重い腰をあげたお婆は、聖物とされるオオクジラの腰骨の前に移動した。厚みのある座布団に座り、目を閉じ、首から下げたまじない骨を握りしめる。そして誰にも理解できない言葉をぶつぶつと唱え始めた。視る力が弱いお婆ではあるが、こうして聖なるものの力を借りればそれなりには視えるのである。


「……おお。コウヤの部屋が閉じられておる。これをコウヤがしたというのか」


 視えるべきものが何一つ視えない。それはつまり、コウヤの力を可視化したことと同じだった。これにお婆は身の内から震えるほどの恐れを感じた。それと同時に興奮を。


 不本意ながらもお婆が産んたコウガとの子こそ、コウヤだ。


 兄であるヨウガと母が異なることは島の人間には秘せられている。だが、身内――コウヤ本人を含む――には、出自とともに、コウヤがこの世に生を受けねばならなかった理由も明らかにされていた。そう、それはコウヤの父や母と同じ宿命であり、この世に生を受けた瞬間から、コウヤはその宿命とともに生きてきたのであった。いつか現れる適任者との間に聖者となる子を成す、ただそれだけのために――。


 ただ、コウヤは自らの宿命をあまり理解していないようだった。幼少期より聖なる力を使ってみせることもめったになく、あったとしてもひどく些細で粗末なものだった。また、コウヤの快活さには不思議な物事を知る人間特有の鬱屈とした様子が一切感じられなかった。だからコウヤは普通の人間に近い性質を有するものと思われていた。また、そのように生きたいのだろうと、限られた関係者の誰もが思っていたのである。


 ヨウガはそんな弟のことを昔から哀れんでいた。だからコウヤを大陸に住まわせたいと考えるようになった。コウヤが『適任者』をいまだに見つけられていないことも理由だ。見つけてしまえばさすがに村から出してやることはかなわなくなる。


 お婆もヨウガと同じ考えだった。同意なき性行為による辛さを身をもって理解していたし、黒油を使って館を焼き尽くすことを画策して憎しみを押さえつけているくらいには聖なる力に関する物事を嫌悪していたからだ。永遠でなくてもいい、この島から離れることで我が子が幸せを感じてくれる瞬間を得られるのであれば……そう願ってもいたのである。


 しかし、明るい好青年という表の顔からは想像もつかないほどの力をコウヤは有していたことが今回発覚した。しかもコウヤはそれを今まで誰にも悟られることがなかったのだ。


 と、いうことは――。


 お婆の体が再度大きく震えた。


「わしの子がこんなにも大きな力を宿していたとはのう……!」


 双子であるお爺との圧倒的な差を先ほども突きつけられたばかりだからこそ、コウヤの突然の様変わりはお婆にとっては衝撃的だった。


「……トカリ姉ちゃん。どうするの?」


 おそるおそる訊いてきたヤドカリに、お婆は意味深な笑みを浮かべてみせた。


「なんもせんわい」


「ええっ。どうして」


「コウヤのやりたいようにやらせてやるのよ。これでもわしも母親だからのう」


「そんなあ……」


 取りつくしまのないお婆にヤドカリが細い声をあげた。だがヤドカリは思い出した。お爺の言葉を。お婆に甘えて混乱させろと、そう言っていたではないか。


「だったらせめてトカリ姉ちゃんがコウヤのこと見張っててよね」


「ん? わしがか?」


 思いもよらなかったのだろう、お婆の表情から暗いものが抜け落ちた。それを見て取るや、ヤドカリは急いで言葉を重ねていった。


「そうだよ。コウヤの母ちゃんなんだからトカリ姉ちゃんがするんだよ。いーい? ちゃんと見張っててよ? もしコウヤが変なことをしたらトカリ姉ちゃんのせいにするんだからね?」


「……まあ、確かに。何かあったらわしの責任でもあるわなあ」


 お婆があっさりと考えをあらためた。


「アキトやシカリ兄ちゃんに何かあったら、トカリ姉ちゃんのこと嫌いになるんだから! ね!」


 とどめとばかりに叫んだヤドカリに、お婆がしぶしぶといった感じでまじない骨を握りしめ直した。


「子の後始末も親のすることだわな。どれ。しばらく視ておくとするか」


 そう言うやまたも意味不明な言葉をつぶやきだしたお婆に、ヤドカリは内心ほっとした。もしもコウヤにお婆が助力すると決めたら大変なことになっていたからだ。確かにお婆はお爺に比べて力が弱い。とはいえ不思議な力を使える数少ない人間なのである。だが今回、ヤドカリの言葉でお婆はコウヤに一線をひいた。立ち会う者、しかるべき時には諫める者という立場を選んだ。それはヤドカリにとっては大きな戦果だった。


 視ることに夢中になりつつつあるお婆の肩の上で、安堵したヤドカリは館の中をそろそろと視始めた。気になることは自分の目で確認した方が確かだし、なにより手っ取り早い。


 コウヤの部屋は相変わらず閉ざされている。そしていつの間にやら、魚とトワが眠る部屋も同じ力でもって閉ざされていた。二部屋を同時に強固に閉じてみせたコウヤは想像をはるかに超えた力の持ち主のようだ。魚と同等、いやそれ以上の強敵かもしれない。


 またも不安になったヤドカリは心のよりどころともいえるお爺を探した。お爺はというと、油樽のつまった部屋で仰向けになってのんきに仮眠を取り始めていた。動けなくなってしまったからこそ、いったん休みをとることを選んだのだとヤドカリにもわかった。ここで一人逃げ出さないのは、さすがお爺だ。そしてそんなお爺をヤドカリは誇らしく思った。


 次にヤドカリはヨウガを視た。ヨウガはなぜか今夜はトヨを腕に抱いて横たわっていた。ただ、トヨを抱きしめてはいるものの無体なことをした形跡はなかった。そして目をつむってはいるもののヨウガは眠ってはいなかった。何やら物思う表情をしている。


 ふと思い立って、ヤドカリは最後に高槻たかつきを視た。コウヤは二晩続けて高槻の部屋を訪れている。だからコウヤがしようとしていることに高槻は関係しているような気がしたからだ。しかし、高槻は静かに眠っていた。その寝顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。いい夢でも見ているのかもしれない。


 すべてを視終えて、いまだまじない骨を握りしめてつぶやき続けているお婆にヤドカリは声をかけた。


「トカリ姉ちゃん。もう寝ようよお。夜のうちは何も起こらなそうだしさあ」


「そうかえ?」


「うん。それにおいら、一緒に寝てくれる人がいないとダメなんだ。一緒に寝てくれるよね?」


「そうかえ。ならそうしようかのう」


 これがお爺なら「嘘をつけ」と殻を指ではじかれるところだが、お婆は違った。根が素直だとお爺から聞いていたヤドカリだが、こうして実際に長い時間接してみると、その言葉に嘘はなかった。


「朝まで一緒にいてよね。絶対にどこにも行かないでね」


 ヤドカリの甘えた声に、お婆は少し驚きながらもうなずいた。その表情はどこか嬉しそうで、ヤドカリの心がつきんと痛んだ。



 ◇◇◇



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