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トワの祝言  作者: アンリ
本編
2/37

2. アキトの嫁になること、幸せについて

 船着き場のそばにあるこの飯屋は漁に出る男しか利用しない。朝早い漁を終えて帰着する五ツ半(朝九時)から、やや遠方まで出た船が戻る昼八ツ(午後二時)くらいまで営業している。とはいえそこは小さな島だ、その日漁に出ている者のことは店主が把握しており、すべての船が戻りこの飯屋で食事を済ませたら、その日は終業となるといった具合だった。だから、すべての客が出払い、汚れた食器を洗い、机や椅子を整え直せば、トワの仕事も終了となるのである。


「ほい。今日もお疲れ様」


「ありがとう。お疲れ様」


 店を出たトワの手には店主からもらった温かな握り飯の包みがある。早く食べたいと、腰に結わえた竹製の水筒をぶらぶらと揺らしながら、トワは少し小走りにいつもの浜へと向かった。


 今日もよく晴れている。海の方、水平面から沸き立つように巨大な入道雲が乱立している。草履の裏側で土と砕けた軽石がじゃりじゃりと摩擦を起こす感覚の中、砂に足をとられる際の重みが増してくると、もう目的地は近い。その感触はいつだってトワを高揚させていく。そして赤茶けた道が段々と白く染まっていき、やがて麦粉を撒いたかのように真っ白になれば、もう浜はすぐそこだ。


 浜には誰もいないはずだった。もともとここはめったに人が近寄らないような穴場である。しかもこの時間帯、子供や同世代は大人のそばで手伝いなりをして過ごすものだし、それよりも年が上の者もよほど体調が悪くないかぎりしかるべき場所で働いているものなのである。だが今日は――いや、今日も――そこに先客がいた。


「お。来たな」


 青い海を背にして、アキトがトワに片手をあげた。


 トワを待ち伏せするため、時間帯を問わずここに突如現れる習慣がアキトにはあった。あの魚を発見した朝もそうだ。ただ、わかってはいてもトワの口からは自然とため息が出た。今日はゆっくり休むことはできないな、と。


 それでも知り合って十六年、長い時を共にしている間柄であるし、アキトのことを嫌いなわけではないから、トワはなんとか笑ってみせながらアキトに近づいていった。


「どうしたの? 何か用?」


 これから続く台詞を想像できるくせに第一声がそうなってしまう自分にまたため息が出そうになって、トワは意識して口をきゅっと結んだ。ただ、結びながらも口角をあげてみせ、笑顔を維持する努力は怠らなかったが。


 アキトは予想通り、初めは花咲くような純真な笑顔を見せ、その次に太い眉を寄せてむっとした顔になった。二人きりのときのアキトからは、普段大勢の前で振る舞ってみせる大人びた雰囲気は消え失せる。素直で無邪気な十六歳へと立ち戻るかのように。そういう顔をするアキトはトワにとって好ましかった。だがその好印象とて、たいていはアキト自身の発言によって泡沫の幻へと変貌してしまうのだが。


「あんまりみんなの前で俺と夫婦になりたくないって言わないでくれ」


「はいはい」


 やはり昼間のトワの発言がお気に召さなかったらしい。だがそれをトワはあっさりと流し、大きな一枚岩の端に腰掛けた。日に焼けた岩は薄い着物越しでは尻を焼くように熱いがかまわない。しばらくすれば慣れる。トワは持っていた包みを膝の上に置くと、布を解いて二つの握り飯を取り出した。


「あー、おいしそう。もうおなかぺっこぺこ」


 一人で遅い昼食をとり始めたトワの正面、浜の砂の上に直接アキトがあぐらをかいて座った。


「だからさ」


「あ、食事の邪魔はしないでね」


「邪魔なんかしていない。俺の話を聞いてくれ」


「聞いてもいいよ。でもアキトと夫婦になるっていう話以外ならね」


 アキトが一層顔をしかめた。崩れた表情はまるで赤ん坊を笑わせようとするかのようで、トワはつい吹き出してしまった。


「ふふっ。変な顔」


「あ。トワが笑った」


 嬉しそうにアキトが笑う。


「別に」


 トワはつんとすまして握り飯を口にした。気をゆるすとまたやっかいな話をしなくてはいけなくなる。


 トワが無言で一つを食べ終え、もう一つを半分ほど胃袋に収めた頃、アキトが懲りずに話しかけてきた。


「なあ。トワ」


「なによ」


「なんでトワは俺と夫婦になりたくないんだ」


「それ、もう何百回、ううん、何千回と訊かれてる」


「なあ。なんでだよ。他に好きな男でもいるのか? たとえば、さ。トワは叔父貴みたいな大人がいいのか?」


「ああもう。うるさいなあ」


 最後の一口をトワは豪快に口に放り込んだ。数回咀嚼したところでまだるっこしくなり、トワはごくりと飲み込んだ。


「コウヤはわたしにとって父さんみたいなものだっていつも言ってるでしょ。それに誰がどうって話じゃないのよ。アキトは夫って感じがしないの。わたしたちは姉弟で友達、それ以上でもそれ以下でもないじゃない。アキトだって本心ではそうでしょ?」


「そんなことはない。それに俺達が夫婦になるのは村の決まりごとだ」


 こういう時、アキトはいつもお決まりの台詞を続けてくる。「村のしきたりだ」「そういうものだ」「トワだって村長の嫁になりたいだろう?」


 最後のとどめはこうだ。


「俺と夫婦になればトワもトヨさんも楽になるじゃないか」


 トヨ――トワの母親――はトワを身ごもっているときに夫を亡くした。船から荒れる海に転落してしまったのである。次の日、遺体は粉砕した船とともに浜に打ち上げられていた。場所はここ、トワとアキトが今いるこの浜だ。むごい姿を一番に発見したのはトヨである。


 それ以来トヨはこの浜へは来ない。家から近い場所だというのに決して近寄らないし、トワが浜へ行くのも快く思っていない。それどころか海そのものを視界に入れようとしない。海を嫌悪していると言ってもよかった。頑ななほどに。


 だがこの小島で海を見ることなく過ごすことは不可能に近い。だからトヨは村長にアキトの乳母となるよう求められると即座に了承した。それから三年、トヨは村長の住まう館に一室を与えられ、まったく外に出ることなく日々を過ごした。海を見なくてすむというだけで、乳母という仕事はトヨにとっての天職だったのである。


 だが日に当たることなく過ごし続けた結果、トヨはその三年であっという間に虚弱になってしまった。


 村長は今もトヨとトワのことを気にかけてくれている。乳母を勤め上げ自宅に戻った二人に過分な施しを与え続けている。それにはもちろん、将来の息子の嫁、トワを守る思惑もあるが、根本には哀れな女達への施し、慈愛の念からくるものだと島の誰もが思っていた。


 幼い頃はトワも事情をよくわかっていなかった。だが十歳の時にすべてを理解した。一つ一つの欠けらがある日ぴたりと合わさったのだ。なぜ自分の母は日がな寝込んでいるのか。なぜ我が家では誰も働かなくても食べていけるのか。なぜ自分は『必ず』アキトの嫁にならなくてはいけないのか。


 ぱちんぱちんとあらゆることが隙間なくはまっていき、最後の一欠けらがあるべきところに収まった瞬間、トワは悟った。ああ、自分の一生は定められているんだな、と。


 だがアキトは自分の発言がトワを傷つけていることに気づいていなかった。それどころか、慈しみ深い自分の親に感謝するべきだと思っている節があった。


「……ねえ。アキト」


「なんだ?」


「わたしたち、夫婦になったら幸せになれるかな」


 想定外の質問にアキトはきょとんとした顔になった。


「ははっ。なに言ってるんだ。当たり前だろ」


 アキトが快活な笑い声をあげた。


「じゃあアキトにとっての幸せってなに?」


「なんだか難しいこと訊くな。今日のトワは」


「いいから答えてよ。アキトにとっての幸せってなんなの?」


「そりゃあ五体満足で毎日飯が食えて、家族や仲間、それにトワと毎日一緒に過ごせていれば、もうそれだけで俺は幸せだな」


 目を細めて柔らかくほほ笑むアキトはまさに幸福を味わう者の顔つきになっている。


「だったら」


 トワは急いたように問いを重ねた。


「だったらそのうちのどれか一つでもなくなったら、アキトは幸せじゃなくなるの? それともその中のどれが一番大切だとか、順番が決まってたりするの?」


「そういうことを言って俺から逃げようとするな。トワはすぐに俺のことを軽く扱う。トワのほうこそどうなんだよ」


 トワは答えられなかった。答えを有していないから、だからアキトに訊ねたのだ。口を閉ざしたトワを見限るように、アキトが勢いをつけて立ち上がった。


「俺、もう行く。またな」


「う、うん。あの……」


 ごめんね。そう続けようとしたが、アキトはためらうことなく去っていった。


 一人取り残されたトワは、膝の上の布をぎゅっと握りしめ、目の前に広がる海をしばらく眺めていた。鏡面のように輝く波のたゆたう様にはいつものことながら心を穏やかにする作用があった。それでも、今日、トワの中に芽生えたやるせない思いはなかなか凪いではくれなかった。


「父さんがいたら……きっとわたしも母さんももっと幸せだったと思うの……」


 たまらずトワはつぶやいていた。


「そう思うってことは今は幸せじゃないように思うんだけど……違うのかな……」


 涙が出てきそうになり、トワは頭を振ると細帯を解いた。そしてこの島特有の袖と丈の短い着物を勢いよく脱いでいった。胴衣と短裙だけとなるや、トワは砂を蹴って海に飛び込んだ。変に熱い頭も、ほてった肌も、海に入ればすぐに冷やせる。涙も海に混じって消える。いつからだろう、そうやって心が落ち着くまで思う存分海で過ごすのがトワにとっての日常のやり過ごし方となっていた。



 ◇◇◇


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