16. トワの想い
翌日もトワは朝から浜へと向かった。約束はしていなかったがアキトは先に来ていてトワのことを待っていた。それはまるで日常の再開のようだった。
以前はここで独り過ごす時間を大切にしていたトワだったが、今はアキトとの限りある時間がいとおしかった。二人の足元ではヨンドのヤドカリがのんびりとくつろいでいるし、洞窟にいるお爺にはこの光景は視えているだろうが、それでもトワもアキトも、二人きりの時間だと思って時を過ごした。
話すことは尽きなかった。生まれたときからずっと一緒にいたのだ、会話のネタはいくらでもあった。そして、こういうときだからこそ思い出話に花が咲いた。
たとえば――二人で岩場で追いかけっこをしていたら転んでしまい、額から盛大に血を流すトワになぜかアキトが大泣きしたのは五歳のときだった。
「あのときのアキト、すごく泣くからびっくりしちゃったんだよね」
「仕方ないだろ。あんなにたくさんの血を見たのは初めてだったんだから」
そして――樹齢千年といわれるガジュマルに登って二人して降りられなくなり、木の上で眠っているところを大人たちに発見されたのは七歳のときだった。
「こうして思い出してみると、俺たち、よく怒られてたな」
「あはは。ほんとだね」
馬鹿みたいで、泣きたくなるほど懐かしい過去の日々。
特筆すべきは十二歳のときのことだ。沈む太陽に触りに行こうと二人で延々と海を泳いだ夕暮れ。そして地獄のように辛かった夜の復路のことは決して忘れることはできないだろう。
「泳いでも泳いでも島にたどりつけなかったよね」
「あれはほんとやばかったよな。もうだめかと思ったところで運よくいい感じの板きれが流れてきて九死に一生を得たけどさ」
「でもあの日の星はきれいだったよねえ。あんなにきれいな星は今でも見たことがないもの」
いくら話しても話し足りない。馬鹿なことを真面目に一緒にやってくれる人なんて、きっともう二度と現れない。それは二人とも感じていたことだった。
「……トヨさんは今のところ健やかに暮らせているみたいだな」
ひとしきり過去を振り返ったところでアキトが確認するように言った。
「うん。コウヤが頑張ってくれてるの」
「そうらしいな。昨夜も叔父貴が父者のことをいさめていたらしいし」
「そっかあ。コウヤってほんとに頼れる人だよね」
「おいおい。まさか本当に叔父貴に惚れたわけじゃないよな」
とっさに反応してしまったアキトは、一瞬遅れてまずいという表情になった。以前ならば半分冗談になるが今は違った。二日後にはトワは魚と祝言をあげるのだから。
「……ごめん。変なことを言って」
少し気づまりな空気になった。ただ、トワにとってこの空気はずっと言いたかったことを言える雰囲気でもあった。
「あのね。アキトは、さ。なんにも気にしないで他の人と幸せになってね」
「え?」
言葉を失ったアキトから視線をずらし、トワは正面の海を見据えた。そこには遠い未来が広がっているように見えた。自分には決してたどりつけない未来が。
「それだけ言いたかったの」
「あ、おい」
「じゃあ行くね」
何か言いかけたアキトを残してトワはその場を去った。言いたいことを言えてトワは心から満足していた。さよならば言えなかったが、もうここには二度と来るつもりはトワにはなかった。
◇◇◇
浜から逃げ出し、島を見渡せる小高い丘にたどり着いたトワは、ここでもしばらく海を眺めていた。翼を広げたニジドリが海面すれすれを飛んでいく。トビウオが時折見事な跳躍を見せている。広大な海に散らばる漁船はどれもこの島の男が乗っているものだ。遠目には見知らぬ帆船も見える。それらの何気ない景色をトワはぼんやりと眺めていた。
「どうしてアキトにあんなことを言うんだよ」
「わっ。ヤドカリ様。びっくりした」
いつの間に登ってきたのだろう、トワの襟にはヤドカリがいた。
「アキトのそばにいなくていいんですか?」
「いいの! それよりも今はトワと話がしたいんだ!」
じゃきん、じゃきんと、せわしなくはさみを動かすヤドカリはかなり興奮している。
「で、どうしてアキトにあんなことを言ったんだよ。あれじゃあアキトがかわいそうだ」
アキトがかわいそう。同じ台詞をトワはつい最近浴びせられたばかりだった。
「……それは」
少しためらったものの、トワはヤドカリに今の素直な心境を吐露した。
「アキトもずっと独身ってわけにもいかないでしょう?」
「誰と結婚しようとしまいと、それはアキトの自由じゃないか」
「それはそうですけど……。でも、少なくともわたしのことなんて忘れて幸せになってほしくて」
これにヤドカリが悔しそうな声をあげた。
「……忘れれば幸せになれるだなんて、そんなことを言うトワは卑怯だ」
「卑怯、ですか?」
「卑怯だよ! あんなにもアキトはトワを大事にしてるのに!」
「わたしだってアキトのことは大切ですよ。でも結婚することとそれとは別ですよね。わたしはただ、純粋に、アキトに幸せになってほしいんです」
話しながら、トワはなぜか母のことをぼんやりと考えていった。周囲の話によると、父と母――サイラとトヨ――はそれは仲のいい夫婦だったらしい。だからサイラが亡くなるとトヨは後を追いかねないほど危険な精神状態になったという。ただ、トヨは当時すでにトワをみごもっていた。だから死を選ぶことはなかった。
とはいえ今もトヨの心は弱ったままだ。海を見たくないからと家に引きこもり、働くこともできず、かといって家事をする気力もわかず。幼いトワの世話すらも近所任せだったし、今、アキトとの関係にトワが悩んでいることにすら気づいていない。だがそれも仕方ない。最愛の夫を亡くしたのだから。少し前までのトワはそう思っていた。だが近頃は違った。トワはトヨの生き方をじれったく思うようになっていたのである。
もう戻ってこない父になぜ縛られたままでいるのか。愛し続けているのかも定かではないのに。そう、その想いは単なる固執ではないのか。いい加減、過去ではなく今や未来を見るべきではないのか。悲しみに浸っている方が楽だからそうしているだけではないのか。……目の前にいるわたしを見て。ねえ。わたしのことを見てよ。愛してよ。わたしは母さんにとってどんな存在なの?
まだ面と向かって母に言ったことのない鬱憤の数々。島の人間は誰も気づいていないし、悟られないようにしてきたつもりだが、トワの胸中ではうるさいくらいに自己主張していた。それはもう、トワ自身が嫌になるくらいに。
でも――今。
亡き父と自分を重ねてしまうと――。
「……わたしのこと、忘れてほしくないなあ」
ぽつりと、トワの口から本音が漏れた。
「せめて……たまにでもいいから思い出してくれたら嬉しい、かなあ」
だからアキトにさよならは言えなかった。
「あーあ。わたしって弱いなあ。……ははっ。母さんのこと悪く言えないや」




