13. アキト、知る(2)
「取引?」
「そう。取引。ヨンドにはどうしても叶えたい願いがある。自分では叶えられない願いを抱えている。だから人の前に現れるんだ。人にヨンドの願いを叶えてもらうために。いくつも抱えている願いの中から、せめてもと一番強い願いを叶えてもらうために」
「一番強い願い……ですか」
「うん。一つの魂で複数の願いを抱いていることもあるし、ヨンドによってはそれこそたくさんの魂を抱えているからね。願いの数はある意味無限にあるんだ。でもヨンドは複数の願いの中からもっとも強い願いを自然と見出すんだよね。それさえ叶えばすべてが満たされ浄化されるってことをなぜか知っているんだ。でね。願いを叶えてもらう見返りにヨンドは人の願いを叶えてあげるの。これは取引さ。どちらか一方の願いを叶えた時点でもう一方の願いを叶えなくてはいけない。絶対に無理なことでない限り、必ず叶えてあげなくちゃいけないってわけ」
「……ということは、俺もトワもヤドカリ様に願いを叶えてもらったから、次はヤドカリ様の願いを叶えなくちゃいけないってことか」
話を整理しながらアキトの体に悪寒が走った。泳いで濡れてしまったことが理由ではなく。なんて危険な話だ、とアキトは思った。取引の前提を知らずして契約してしまったようなものだし、先に願いを告げた方が圧倒的に不利ではないか。
「うん。そうだよ」
にこっと、ヤドカリが笑った。
「願いを断るただ一つの方法、それは自分から願い事をしないことだから」
取引の発生、それは一方の願いを叶えることをもう一方が受け入れた瞬間だ。それまではどちらも話を断ることができる。取引、という優しい言葉を使っていたのはそういうことだ。その瞬間までは誰も無理強いはしていない。だが受け入れた瞬間、双方は厳密な約束ごとに縛られる。願いを受け入れてもらった方はもう一方の願いを必ず受け入れ、そして双方ともに叶えなくてはならなくなるというわけだ。
「ふふ。大丈夫だよ」
鈴を鳴らすかのようにヤドカリが柔らかな動きで殻を揺らした。
「二人はおいらをここから連れ出してくれたでしょ?」
途端にアキトの肩が下がった。心底ほっとしたら、また疑問を口にする気力がわいてきた。
「ええと。まだ訊いてもいいですか」
「いいよお」
「父者はお魚様にトヨさんが欲しいと言い、お魚様は父者にトワが欲しいと言った。それで合ってますか」
「逆だよ。逆。魚が先。ヨウガは願いの危険性を知っているから自分からは願ったりしないさ」
「ああ……そうか。じゃあ次の質問。ヨンドは複数の人と取引できるんですよね。俺とトワがヤドカリ様としたように」
「そうだよ。さっき言った通り、ヨンドにとっての最上の願いは一つしかないんだけど、他の願いだって叶えたいと思うのは人間と同じなんだ。願い事は双方で一つずつ、というのが正確かな」
「……ということは、お魚様も他の人とも取引できるんですよね」
「そうだよ」
「やっぱり! お魚様が誰とそういった取引をしたかわかりますか?」
「トカリ姉ちゃんとしてる」
「お婆と?」
「うん。願いを教えてほしいとトカリ姉ちゃんは魚に願ってる。そうやってヨンドに先に願いを言わせることがトカリ姉ちゃんの仕事だから。トカリ姉ちゃんはこの島からヨンドに立ち去ってほしいんだよ。ヨンドの中にはひどく悪い奴もいるし、島にとどまっているだけでおかしなことが起こったりもするからね」
話を聞く限りではお婆は自ら危険を飛び込む役割を担っているということで、これにアキトは少しばかりの憐憫を覚えた。とはいえアキトにとってのお婆とはあくまでヨンド側の人間で、全面的に同情する気分にはなれなかったが。
「ちなみに魚の方はトカリ姉ちゃんにヨウガを従わせて無事祝言を執り行ってほしいと願ったみたいだ。ヨウガはトカリ姉ちゃんの手前、面と向かって魚に逆らうことはできないしね。あの魚はそうやって複数人への願いを行使することでトワを確実に娶ろうとしているんだと思うよ」
これにお爺が感じ入ったように深くうなずいた。
「うむ。人間の不確実さを知っているがゆえの、といったところじゃなあ」
「うん。すごい執着だよね。……あーあ。アキトは村長でもないのにいろいろ知っちゃって大丈夫かなあ。ねえ。シカリ兄ちゃん。大丈夫だと思う?」
「どうだろうなあ。こういうことはめったにないからなあ」
突然、アキトはぴんときた。
「そうか。ヤドカリ様はお爺とお婆の弟なんだな」
「あ。わかった? そうなんだ」
「昔、話に聞いたことがある」
「そっか。そうなんだ。うん、おいら小さく産まれちゃってさ。もう助からないって、母ちゃんがおいらのことを海に還したんだあ」
この島では死した者や命が助かる見込みのない者の体を海に還す慣習がある。海に還ることで命が巡ると信じている。ヨンドもその一つで、魂が海水に溶けきることができなければ命の巡りの旅に出ることはかなわず、ヨンドの願いを叶えて幽世から解放してやることは鎮魂のためだと信じられていた。だがその伝説めいた話の大元まで知る者は島の中でもごくわずかだが。
「でもおいらはずっと島にいたかったんだ。海に落とされてすごくさみしかったの。そしたら若いヤドカリがおいらの魂を食べてくれてね。まだ誰の魂も食べたことのないヤドカリだったんだけど、今もおいらの願いだけで動いてくれてる優しいヤドカリなんだ。おいらの一番の願いはこの島でシカリ兄ちゃんとトカリ姉ちゃんとずっと一緒に暮らすこと。でもトカリ姉ちゃんは社から離れられないでしょ。それでおいらはシカリ兄ちゃんとこの洞窟で暮らすことにしたってわけ。それに、ここは海が目の前だから暮らしやすいしね。気に入ってる」
「これを訊いていいかはわからないんですけど」
「ああ。トカリ兄ちゃんがおいらに何を願ったかって? それはもちろん、海のことさ。つまり、海の守り人になってほしいってこと。トカリ兄ちゃんはこの島と海が好きだから。あ、もちろんおいらも好きだよ」
様々なことに合点がいったアキトをよそに、お爺が何とも言えない顔でヤドカリを見ている。照れくさいような、恥ずかしいような。ヤドカリにそのような任を務めてほしいとお爺が願った裏には、ヤドカリの存在を島に好意的に受け入れてもらうためでもあったりするのだが、ヤドカリ自身はそこまで気づいていなかった。
「……あのさ」
アキトは唐突にひらめいた疑問を口にした。
「あの魚はトワを自分の嫁にするための手助けを父者に願ったんだろう? ならどうしてトワを殺そうとしたんだ。俺のことはわかる。俺がいたら反対するに決まってるから」
アキトは何が何でもトワを嫁にするつもりでいる。それは今も同じだ。だがトワを殺して得られるものはなにもない。誰にも。
「もしかして父者がトヨさんを確実に娶りたくて暴走したのか? ああいや、違うか。お魚様に命じられてトヨさんを後妻に迎えることにしたって言えば、それで誰もが納得すると思うんだよな。トワだって最終的には納得するに決まってる。うん、やっぱりトワを殺す必要なんてないはずなんだ」
ヨウガの妻となれるような妙齢の独身女はこの島にはトヨしかいない。それに、だ。あの魚の嫁となる母を娶り面倒をみる男が必要だと今後判断されたら、村長であるヨウガがもっとも適任なのは明白だ。実の息子にだってそれくらいのことはわかる。
「ふむ。その答えはきっとあれだな」
お爺が指し示したのはアキトが懐にいれていた銭の袋だった。ヨウガに文とともに渡された銭だが、アキトはその存在を今この時までずっと忘れていた。
「ヨウガはお前さんへの文に何も書かなかった。それはお前さんに自分でこれからのことを決めてほしいと思っていたからじゃないのかね」
「それって……どういう」
「今日、もしもカイジとチョウヒから逃げおおせたら、お前さんたちはきっと船着き場から船で逃げることを考えたんじゃないかのう。先に船着き場に着いていても、白紙の文を見て、その後カイジとチョウヒに襲われそうになったらきっと船まで戻ろうとするじゃろうて。何かがおかしいと察知できたはずだからなあ。その銭は大陸で二人で暮らすためのものだったんじゃないかのう」
「……父者は俺たちが逃げてもいいと、逃がしてもいいと思っていたのか」
殺そうとしたのではなく。
「ヨウガも難しい立ち位置にいたってことさね。お魚様に願いを告げられ、とっさに自分の願いも口にしてしまったようだしなあ。ずっと欲しいと願っていたトヨのことを口に出さずにはいられなかったのだろうよ」
視えすぎるというのも考えものだと、お爺はつくづく思う。
「双方願いを伝えたということは取引が成立したということじゃ。ヨウガもずいぶん苦悩しておったよ。ずっとこらえていたというのに、もっともまずい相手に暴露してしまったんじゃからな。とはいえお魚様に面と向かって逆らうことはできん。だから一つの可能性に賭けたんだろうよ。お前さんたちの未来を守るために」
その賭けの代償の一つとして、ヨウガはトワとアキトの命を奪うことも受け入れたのである。それを高いと思うか安いと思うかは人それぞれだろうが、アキトは父の意図を完全に理解し、胸を熱くさせた。
「父者が……」
感極まったアキトが目をしばたいた。
「でも……もし俺とトワが島を出ていたらどうなっていたんだ?」
「もちろんヨウガは死んでいたわい。トワが殺されていても同じじゃ。取引を不当にぶち壊せば魂ごと壊されてしまうからのう。そして壊れた魂は二度と救われん。それだけではないぞ。あのお魚様はかなり力が強い。おそらく相当な数の魂を食っておる。自分の願いが叶わないことを知れば島を海に沈めていただろうよ」
「沈める……だって?」
「そうじゃ。心せえよ。ヨンドの怒りは怖いということをな。姉者はきっとどうにかしようとあがくが、姉者でもあれにはかなわんよ。わしにもヤドカリ様にも何もできん」
様々な情報に想いを巡らせ、恐怖を覚えながらも咀嚼し、それからアキトは訊きたかった問いへと戻った。
「なぜお魚様はトワを嫁にしたいんだろう?」
「さあなあ。そればっかりはわしにもわからん。もともと、ヨンドはたまにこちらに現れる稀有な存在じゃからのう。ああ、わしも暇を見つけてこれまで視たトワの過去を思い出そうとしているんじゃが、これといった覚えもなくてなあ。いや、あまり気にしておらんかったというのが正しいか。それにあの娘、行動範囲も交流範囲も狭いじゃろう?」
「まあそうだな。家と浜と飯屋、トワはこの三か所のどこかにいたから」
そしてトワの交流範囲はそれに付随する人間に限られていた。トヨ、アキト、近所の人間。飯屋の人間。飯屋に訪れる客。たまに用件があれば他の人間とも。アキトがつい気にしてしまうコウヤとだって、その実、大して会っていないのだ。
「まあ、もう少し探ってみるかのう」
「なら俺は何をしたらいい?」
血気盛んなアキトはここに戻ってきてからずっと興奮状態にある。そんなアキトにお爺は端的に言った。休めと。
「もう夜も遅い。今すぐどうこうなる話でもなかろうて。その濡れた着物を脱げ。体を拭け。そして朝まで寝てしまえ」
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