11. 魚との会話
まだ意識がもうろうとする中、トワはどこからか漂う甘い香りに鼻をひくつかせた。これは海の香りだろうか。いや、揚げ団子と蜜と。それからアオツバキと……。
身じろぎしたトワの体に軽く圧がかかった。太い帯で体を絞めつけられたかのように。いや、違う。少しひんやりとした感触。硬さ。それにぬめり。わずかに、潮の香り。トワは生き物の気配を全身で感じた。
目覚めるや起き上がろうとしたのは本能だ。だができなかった。トワはあのおそろしく長い魚に巻き取られ身動きできない状態だった。今朝のぞいてしまった魚の部屋にトワはいた。
「愛しい娘よ」
トワの耳元で魚がささやいた。
初めて聞く魚の声にはどこか懐かしい響きがあった。
「お前はわたしのものになるのだ。祝言をあげよう。わたしと、お前とで」
「いや……です」
「わたしが望むことは誰にも拒めない」
「わたしには将来を約束した人がいます」
こんなときだというのにトワの脳裏にはアキトの顔が浮かんだ。
「ヨウガは理解している」
「理解?」
「人にわたしの願いを拒めないことを」
「……離して」
トワが硬い声音で発した。
「離して。今すぐ」
「だめだ」
「離して。こんな状態では話ができないもの」
「話?」
「あなたとちゃんと話がしたいし訊きたいこともある」
しばらく考えたのち、魚がしゅるしゅると拘束を解いた。トワは乱れた着衣を整えると魚の前に礼儀正しく座った。すると魚も何を思ったのか人の姿へと変貌した。優美な白絹の着物に身を包んだ男の容貌は今朝遠目で見かけた姿そのもの、人ではあるが、人を超越した尊い存在に見えた。
「さて。何を語りたい」
人型となった魚がトワのそばにあぐらをかいた。さらりと、魚の肩の上を腰まである白髪がすべり落ちていく。
棚戸で閉め切られているのにここはなぜか暑くも暗くもない。お婆がこの場にいないこともトワには不思議だった。誰かの気配どころか物音も一切聞こえない。蜜と花の香りに満たされているのに、ここはまるで海の中のようだった。
「わたしの母さんは無事ですか」
「無事の定義は人それぞれだろう」
トワの無礼な物言いも唐突な問いかけも、魚は気にも留めていないようだった。
「……村長にひどいことはされていない、ですか」
「ひどいこと、とは」
トワの頬がかっとほてった。
「あなたがさっきわたしにしていたようなこと、とか」
「どうだろう。わたしはヨンドだが、トカリやシカリのようにすべてを視る力を有してはいない」
トカリと、シカリ。トワの疑問点を読み取ったのだろう、この島の聖なる双子のことだと魚が付け加えた。つまりお婆とお爺のことだ。
「……あなたは誰、ですか」
「わたしは誰でもない」
「……ヨンドって何ですか」
「ヨンドとはこの世にあるべきではないもの」
トワの次の問いかけにも魚は鷹揚に答えていく。
「ヨンドとは人の魂、執念。海にたゆたっていた、残された想い。死ぬに死ねぬ想い。そういうものから生まれたものだ」
「……それは。つまり」
「海に溶けきれずにいた死人の魂。それがヨンドだ」
室内にわずかばかり漂っていた潮の香りが急に強く感じられた。その源は目の前の魚だ。
「あなたも?」
「そうだ。魂を食らったそのときからわたしもヨンドだ」
魚との会話が始まってからはずっと無表情を貫いていたトワだったが、とうとう驚きが表に出た。
「あなた、人の魂を食べたの?」
「食したとも。鎮魂のためにな」
魚が赤い目をそっと伏せた。
「海で死んだ者は海に還る。海に溶け、あの世へと渡る。次の命となるために。だが溶けきれずにいる魂もいるのだ。この世への執着があると溶けきれず、すると海をたゆたう他なくなるのだ。永遠に、癒されることのない想いを抱えてな。わたしはこれまでそのような魂をいくつも食してきた。わたしが食べることで死人の魂はヨンドの一部となり、ヨンドとなれば死人の願いをかなえてやれるから」
「願い……」
ヨンドは人間の願いを一つだけかなえられる。そうヤドカリが言っていたことをトワは思い出した。それも考慮するならば、ヨンドが願いを叶える人間について、その生死は問わないということになる。
「ヨンドは願いをかなえられるって言ってましたよね。それは具体的にはどういう意味ですか?」
「聞きたいか?」
「はい」
「願いを行使するか?」
「……え?」
行使、という大げさな言葉にトワは続く言葉を飲み込んだ。
「ああ。愛しい娘よ。これまでのお前の要望は『願い』として扱わなかった。どれも大したものではなかったからな。だがその問いへの返答は違う。その問いへの返答には『願い』を行使してもらわなくてはならない。どうする?」
赤い双眸に見つめられ、トワの体がぶるっと震えた。
トワには魚に訊ねたいことが他にもあった。母のこと。ヨウガのこと。アキトのこと。それに――なぜ魚はわたしと夫婦になりたいのか。殺そうとしたくせに夫婦になりたいとは矛盾していないか。
魚のことを見殺しにしたトワは、魚に憎まれこそすれ好かれる理由はないものと思っている。あの日、あの朝。浜の浅瀬で初めて見る魚だと思ったら、あっという間にアキトに銛でつかれた魚のことをトワはいまだ理解できていなかった。
「さあ。どうする」
長い沈黙ののち、トワが口をひらいた。
「行使……しません」
「それがいい」
魚の唇が弧を描いた。
「願えるのは一つだけだからな。わたしも。お前も」
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