10. 衝撃
ヨウガが懐から取り出した手巾でトワの口を押さえると、しばらく抵抗していたトワだったが、やがてくったりと脱力した。相手の意識を奪う薬物は、トヨに使う可能性を考えて持参したものだろう。
アキトは立ち上がろうとした。だができなかった。指先すら動かないし、声も出ない。先ほどからアキトはずっとこの状態だった。
「まだダメだよ」
アキトの襟にしがみつくヤドカリの体は周囲を飛び交うホタルを彷彿とさせる淡い光に包まれている。
「トワがアキトを危険にさらしたくないと願ったんだ。願い事は一人一回。使う時を選んでねって言っておいたのにさっそく使ったんだから、今はおとなくしていて」
居間ではトワを抱えたヨウガがトヨに何やら告げている。これにトヨはためらいながらも立ち上がり、ヨウガに続いて家を出ていった。
「まったく。娘の無事と引き換えに想いを添い遂げようとするなんて最低な奴だな。……っとごめん。アキトの父ちゃんなのに」
人の気配がなくなり、ようやくアキトの体は元通りに動くようになった。
「早くしないと連れていかれてしまう……!」
さっそく追いかけようとするアキトをヤドカリがはさみで頬を軽く刺して制した。
「待ちなって。もう間に合わないよ。それにあの館には今ヨンドがいる。おいらなんかよりもよっぽど強いヨンドがね」
「ヤドカリ様! じゃあいったいどうしたらいいって言うんです……!」
「いったん洞窟へ戻ろう。それがいい」
◇◇◇
今夜、館ではいつになく多くの村人が大庭に集められていた。それを不思議に思う者もいるにはいたが、多くの者は深く考えることもなく集い、宴を楽しんでいた。夜空の下で各々が得意な楽器を鳴らし、好きな歌を歌い、好きな相手と踊った。しこたま酒を呑み、たらふくご馳走を食べた。
「こんなに楽しくて腹いっぱいになる夜を過ごせるのなら、お魚様にはずっとこの島にいてもらいたいくらいだよなあ」
「ああ。ヨンド様のおかげだな」
「毎年来てほしいくらいだ」
「毎年と言わず、毎日でもいいや」
「ははっ。違いない」
正月を上回る規模の宴は心から楽しく、かがり火に照らされる島人の表情はどれも朗らかなものだった。
「ねえ。母さん。トワはまだ来ないのかな」
「そうだねえ。もしかしてトヨさんのことを気にして家に帰っているのかねえ。そういえばアキトも見かけないけど。ああ、タイラ。あんた、アキトを知らないかい?」
「おお。実は俺も朝から探してるんだけど見当たらないんだ」
トワの隣人であるキナ、そして孫である赤子を抱いたサナはトワのことを気にしていたし、アキトとよく行動をともにするタイラもやや落ち着かない様子だったが、それでも常ならぬ華やかな宴の雰囲気には十分に酔いしれていた。
「意外と二人で仲良くやってるかもしれないぞ」
「あ。それはあるかもね。明日、いろいろ話聞いちゃおっと」
トワが聞けば立腹するようなことを互いに口にして。
やがて、宴も終盤になった頃合い。場の空気にふいにひずみが生じた。どこからともなくお婆が現れたのだ。
「お魚様はこう仰せじゃ。トワを嫁にしたいと。そのために現れたのだと」
前置きもなく発せられたお婆の台詞にこの場の空気が反転した。浮かれていた皆の表情が固まり、一切の音の類が消えうせた。
「祝言は内々でこの館で執り行うことになったからな。皆の衆、心せえよ」
「……はあ?」
「トワがヨンドの嫁になるだって?」
「んな馬鹿なことがあってたまるか」
「なぜ。どうしてだ」
「トワは? お魚様と結婚したらトワはどうなるの? ひっ……」
どこからともなくあがったいくつもの不満の声、疑問の声。どの声にも根本にはトワを心配する気持ちがにじみ出ていた。だがお婆は声の主の一人一人をきつく睨んで黙らせた。
「いいか皆の衆。これは決定じゃ。不服の一切を唱えることはゆるさんぞえ。それはこの島の滅びにつながる恐れがあるでな」
「島が……?」
「そんなことってあるのか」
「ヨンドってそういうヤバい存在なのか」
お婆を気にしながらも皆がざわつき始めた。ヨンドに関する逸話を実際に経験している年配者がここにはいないこと、逸話について語ることは家族の間でも禁忌とされていることが理由だった。
ほとんどの島人はヨンドのことを物の怪の類と誤解している。これには歴代の村長が誤解を否定しなかったことも影響している。ヨンドは個体によってその性質が異なると言われているため、過度に恐れているくらいの方が島人の安全を守れると判断されてきたのだ。
ただ、この中では年配のカイランという男が思い出したようにつぶやいた声は誰の耳にもしっかりと届いた。
「……そういえば親父が言っていた。ヨンドの怒りを買ったせいでこの島の西の方が削られたのを見たと」
これにお婆が重々しくうなずいた。
「んだ。ヨンドを怒らせるということはそういうことなんだわ」
もはや誰も何も言うことはできなくなっている。
だがまだ納得できない者がいた。タイラだ。
「村長はどこにいる? 村長から話を聞きたい。それにアキトはどこだ」
タイラこそ、トワを嫁にしたいというアキトの想いを一番よく知っている人間だった。
「アキトが納得するとは到底思えない。それは俺だけじゃない。他のみんなだって同じだ。なあ?」
大多数の者は同意を示す勇気すらもはや持ち合わせていない。だが、戸惑いながらも数人は小さくうなずいた。そのほとんどがアキトの漁の仲間だった。
「兄者はお魚様の件で今は手が離せない」
お婆が口をひらく前にコウヤが答えた。皆の視線が一気にコウヤに集中した。
「それとアキトのことだが……実はアキトは行方不明だ」
これにカイジの視線が不自然に動いた。だがそんな些細なことに気づく者はこの場に一人もいなかった。それはタイラも同じだった。
「アキトが? なぜです?」
「それは俺にもわからない」
端的な返答はコウヤらしからぬものだった。そして、わからないと言った際のコウヤは常になく悲痛な表情をしていた。この件に直接関係する者たち、そして目の前にいる者たちへの申し訳なさで。だからタイラは不服ながらも口を閉ざした。そしてタイラの発言にこれ以上続こうとする者は現れなかった。
この一連の出来事は島の存亡、ひいては村人全員の命を懸けた決定なのだと、言葉に出さずとも理解させられた瞬間だった。
「そんな……」
それでも我慢しきれなかったのだろう、とうとうキナが泣き出した。
「かわいそうだよ……。トワも。アキトも」
口元に手を押さえ嗚咽交じりに泣く娘を、赤子を抱いていない方の手でサナが抱きしめた。そのサナの目尻にも涙が光っていた。やがて女たちが手放しで泣き出した。男たちも泣くのを懸命にこらえていたが、中には耐えきれずに涙を流す者もいた。
「トワと、それからトヨも祝言までこの館で身を預かることになっている。みんな。島のためだ。飲み込んでくれ。よろしく頼む」
コウヤの台詞でこの場は締めくくられた。そしてこの瞬間、魚とトワの祝言は村人の総意として受け入れられたのだった。
◇◇◇
タイトル回収




