表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
トワの祝言  作者: アンリ
本編
1/37

1. 魚との出会い

 まだ誰も出歩かないような早朝に、トワは浜の浅瀬で、非常に体躯の長い美しい魚と出会った。


 砂浜と海の境、そんな浅い場所にいるはずのない巨体の魚は、これまで見たこともない種類の魚だった。


 太刀魚をもっと長く大きくしたような魚は、乳がかった透明な体躯をしており、青みのある透明な海水の中でゆらゆらと浮いていた。透けて見える骨はやわらかそうで、海水にすら溶けてしまうのではないかとトワには思えた。だが脳や臓物のあるあたりだけはやわらかな緋色に染まっていて、それが不思議と美しく思えた。赤い目は宝玉のようで、小さいながらもひどく尊いものを拝んでいるような気持ちにすらなった。


 その魚の巨大さと異様さに、見つけた瞬間、トワはびくりと震えた。こわかったかどうか、その時の心境はもはや定かではない。美しさに見入る暇もなかった。きちんと思考が動き出す前に、その魚は通りかかった同い年の少年、アキトに捕えられてしまったからだ。


 ここらの男は若くても老いていても当たり前のようにもりを手にして歩く。その銛を条件反射のように繰り出したアキトは、見事仕留めた獲物を高々と掲げ、トワに向かって笑ってみせたのだった。


「どうだ。すごいだろう」


 その笑顔も、むき出しの二の腕も、両の足も。日に焼けたアキトの肌は朝特有の清らかな光景とは対照的だった。もちろん、魚の透き通る体躯とも。


 三本の太い金属に刺された魚は空中で頼りなくひらひらとうごめいた。


 だが薄水色の空を透かして揺らめく様は美しかった。



 ◇◇◇



 アキトが捕えた魚は生きたまま飯屋の壁に杭を打たれて飾られた。蛇が首をもたげるように、頭部だけが前に突き出るように飾ったのは誰か。


 その頃にはトワはその魚がこわくて仕方がなかった。飾られると恐怖は真正のものとなってトワに襲い掛かった。この飯屋ではたらくトワにとって、魚とともに過ごす時間の長さは拷問に等しかった。だが他の者たちは変わった魚がいるものだと喜んで、潮の香りをまとう魚の下で変わらぬ食欲を見せ、大盛りの麦飯やソバをかき込んでみせた。


 魚はしばらくの間はうごめいていた。水中から長く離れていても、時折ぴしりと長い尾で壁を叩いてみせた。だが時間がたつにつれ、尾は跳ねなくなり、ひれですら震えなくなり、やがて動かなくなった。赤く小さな目はどことも知れない一点を食い入るように見つめていた。


 一日たち、二日が過ぎ。


 夏場だというのに魚は腐ることなく少しずつ乾いていった。水に浸ることのゆるされない体は縮み、七日もたてばもはや干物に近いほどに干からびた。あれほど澄んだ色をしていた体躯も山羊の乳のような白に変色し、美しかった宝玉のような目も、気づけばそこら辺に転がる石のように鈍く無価値なものに成り下がっていた。このまま水分が完全に抜けきれば、村長の一人息子であるアキトのたぐいまれなる釣果として、名もなき魚は半永久的にここに飾られるのだろう。誰もがそう思った。




 ◇◇◇




 ある日、いつものように若い衆が飯屋に集まり昼の食事をとっていると、その魚の頭部が動いたような気がした。そう、まるで蛇の首がぐいっと前に突き出されるかのように。


 その瞬間、トワは持っていたお盆を取り落としそうになった。


「ねえ。今あの魚、動いた?」


 これに若い衆の誰もが笑った。


「トワはびびりだなあ」


「女だからしょうがないのさ」


 かばうように発言したアキトも笑みを浮かべている。


 トワは抗議するべく、お盆を胸に抱いて男たちが囲む机に近づいた。


「本当にさっき動いたのよ」


「そんなわけがないだろう。ほら」


 よくアキトとともに行動しているタイラが箸を持ったまま立ち上がると魚に近づいた。そして軽く握った拳で魚の体をこづいてみせた。コン、コン、とその都度乾いた音が鳴った。


「まるで木彫りのなにかみたいじゃないか。そんなびびりじゃアキトの嫁にはなれないぞ」


 これにアキト以外の若者が一斉に同調した。


「そうだそうだ」


「村長となるアキトには度胸の据わった嫁が必要なんだ」


「そんなんじゃ嫁にもらってもらえないぞ」


「わたしはアキトの嫁にはならないって言ってるでしょ」


 トワが顔を真っ赤にさせて反論するのを、タイラが面白そうに見やった。


「なあに言ってんだ。もう決定事項だろ。おんなじ女の乳を飲んで育った男女は夫婦になる、それが決まり事だろうに」


 そう言われてしまうとトワは口を閉ざすしかなくなるのだった。


 トワの母はアキトの乳母だった。ちょうどアキトの出生の三か月前にトワを産んでいて、体質からか大量の乳が出ていることが決め手となったそうだ。だがその実、トワが健康な赤子であったこと、美しいことで有名な母親によく似ていることが乳母選定の最大の理由だったという。トワの母を乳母にすれば、次期村長となるアキトは文句なしの嫁を確保できるというわけだ。


 運が悪いとトワは常々思っていた。アキトよりも少しばかり早く生まれたばかりに、と。だが村の女は皆トワのことを羨ましがっていた。村長の息子と夫婦になれるなんてずるいと、年の近い女に冗談めいて言われることもしばしばあった。


 だがトワにとってのアキトとは弟であり友達でしかなかった。それはアキトという存在をトワが認識して以来ずっと変わらない本心だった。その人をどういう存在だと捉えるか、概念を根本から変えるのは容易ではない。実際、トワは周囲の者がどれだけ口を酸っぱくして言い聞かせても、十六歳になっても、未だにアキトを夫となる男と見ることができないでいた。


 そんなアキトだが、同い年のトワよりも頭一つ分ほど大きく、父親ゆずりの頑丈な体躯も熟しつつあり、若い衆の中でもひときわ目立つ存在となっていた。同世代の男を束ねる才覚もあるし、漁では誰よりも勇ましく活躍している。きっと、いや確実に、アキトは立派な村長となるだろう。


 だがそれを想像するだけで、まるで逃げ道を塞がれているかのように、トワの胸中にたとえようもない重しが積まれていくのだった。



 ◇◇◇


この第一話のみ、第三回だーれだ企画参加作品の改稿版です。

また、各話、きりのいいところまで掲載する都合上、一話あたりの文字数には変動があります。

2000文字から5000文字くらいの範囲になる予定です。

ご了承ください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ