第33話 全ての終わり、または始まりⅢ
荷物を置くために自室へと戻ると、同じ部屋でクリスも帰りを待ってくれていた。
深呼吸をして、シルビアから聞いた話を少しずつ。
重々しい空気に、ほんの一瞬だけ不安になったが、程なくして彼女は笑みを浮かべた。
「……ありがとう。ミシェルのおかげで、新しい情報が手に入った」
紙を一枚手に取り、机に置いてペンで書き記していく。
二つの丸は、今までに相対した呪術師、グレオとリューズ。その上に、三角を一つ付け加えた。
「首領が気がかりだな。シルビアの言っていることが正しいなら、そいつを倒さなければ意味がないということだろう?」
「黒いローブかあ……本当の正体は、明かしたくないのかも」
頬杖を突きながら首だけを向け、唸るクリスはこちらに視線を移した。
呪術教典を複製し、人間たちに配っているということ以外は何も分からない。
「ジョン・オウタム……はて、どこかで聞いたような」
シルビアも知らないのか、知っていて教えたくないのか。
「今までの戦いで姿を見せなかったということは、公に出たくないのは確かだと思う。接触する手がかりは、一応あるけど……」
身を乗り出し、シルビアから貰ったメモを手渡した。記された住所に顔を近付け、仰々しく考え込む。
「ゴオツと違ってボストレンは危険だ。敵地の中心であることを考えても、シルビアと同じような調査は厳しいな」
「というか……そもそもこれ、バーだしね」
「うーん、どうすればいいの?」
正体を隠して忍び込む……と浮かびかけた頭を必死に振り払う。
丸は、全部で何個あるのかも分からない。取り囲まれ、逃げ場を失えば、自分たちはボストレンの闇の中。
策がある、と言い出すこともできず、三人で悶々とする。
「学校側にこの事実を伝え、情報が広まれば、呪術師はすぐにアジトを変える。シルビアはそう言ったんだな?」
「うん。内密にって」
首を傾げるクリス。短く切られた髪が頬に散らばりながらも、遠目でも分かる渋い表情。
「なら、動かなければアジトはこのままのはずだ。悔しいが、流石にここは慎重になった方がいいかもしれん」
決断を早めていた彼女が、先送りにする迷いの大きさ。
肩の力を抜き、ふっと息を吐いた。視野を広げるために、敢えて一歩引いて今の状況を見つめる。
イリーナも、クリスの背中を支えるように手を挙げた。
「私も、いい作戦がないか考えてみるよ」
「助かる。せっかく掴んだ情報を、無駄にはできんからな」
戦いを終わらせる大きな壁。しかしその全貌は伺えず、状況は依然として好転しない。
そんな中でも先を見通すために、彼女はペンを強く握り締める。
「……何とか、あいつらの目を誤魔化す道具があれば」
その凛々しい瞳に、時折見せていた奇抜さと幼さは微塵も見られなかった。
消灯時間が迫り、多くの生徒たちが寝る支度を済ませた夜遅く。
ベッドに向かう寸前で、心残りがあったことに気付く。放っておくわけにはいかず、鍵を片手に部屋を後にする。
ノックをして、クリスの部屋を開けると、やはり机の方から灯りが見えた。
「ミシェルか?」
「……うん。何だか、眠れなくてさ」
「君こそ休むべきだろう。今日は何かと、動き回ってくれたのに」
先程の紙に目をやると、箇条書きで魔道具や作戦の名がいくつも記されていた。
文字を覆い隠す、太い横線たち。順風満帆とは思えす、ベッドの上に軽く腰かけ、穏やかな表情を浮かべる。
「ねえ、どう思った?」
「ん、何をだ?」
「シルビアのこと。今は協力できないって言われたから、クリスにとってはショックかもって」
「ああ。やはり、そうだろうなとは思ったが……」
少し、含みのある様子を見せた。大丈夫だから、と視線で語りかける。
「以前のボクなら、傷付いて、怒ったかもしれない。でも今は、現実を受け止めるつもりだ」
「それは、どうして?」
「彼女には、彼女なりの信念があって必死に戦っている。そりゃあ人の命を脅かすなら戦うが……頭ごなしに否定するのも、それも違うと思ったんだ」
感じていることは伝わった。そして、言葉を選び取った末での結論だということも。
図らずも、シルビアに告げられた言葉が頭をよぎった。
志を違え、切り離されて別の人生を送ることになっても……最後に残った根幹だけは、通じ合っている。
「短い間ではあったが、大切な友だったわけだしな」
「そっか。友達、だから」
「何も四六時中面倒を見て、常に付きっきりな間柄だけが、友ではないだろう?」
顔を上げた。少し、感情を鷲掴みにされたような心持ち。
比べるものではないと思っても、無意識に並べ立ててしまう。共にいても通じ合えなかった、こちら側の景色を。
今までの時間は、何のために積み上げてきたのだろう。
一瞬でも喉の奥から上がってきて、言葉にしかけた自分が、後れて恥ずかしくなってくる。
「信じたいんだ。ボクは、もう一度」
「う……うん。強いよね、クリスって」
信じられない。離れていても想いが通じ合えると、自分は胸を張って言えない。
「そういうのじゃない。ただ往生際が悪いだけさ」
そろそろ疲れたな、とクリスが杖を向け、魔法で灯りを消していく。
複雑に絡まった思考は、明日にかけて解いていかなければならない。クリスも、そして自分も。
終わりを促されたような気がして、顔を俯けたまま、静かにベッドから立ち上がった。
翌朝。皆が中心地へと歩みを進めるのとは、反対の方角に進む人物が一人。
突き刺してくる肌寒い空気を、上り始めた太陽が打ち消すワズランドの街。
初めての道に迷い、右往左往する彼は、魔法学校の制服を纏った少年だった。
「ほーん……こっちが西で、これが北だから、っと」
増え続ける人口を収めるための、集合住宅の密集地。
学校から渡された地図を上下左右に回転させ、今の場所を確認する。通行人からの奇異の目には、軽い愛想笑い。
やがてその一角で足を止め、近隣の目印を確かめる。
十分歩けば辿り着くはずの場所に、要した時間は三十分ちかくだった。
「おっ、ここだここ。ようやく着いたぜ」
一階の小さな部屋に目を付け、身を乗り出して何度かノックする。
返事はない。不在である可能性が頭をよぎり、悩みながら息を吸い込んだ。
「エルアせんせーいー!!」
眠りに就いていても、すぐに起きられる程の大声。
壁の向こうから、微かに物音が聞こえてきた。しかし扉は物言わず、咳払いの後にもう一度。
屋上に留まっていた小鳥たちが、息を合わせたかのように飛び立っていく。
「聞こえますか、エルアせんせーい!!」
「……聞こえてますから。少し抑えてください」
鍵の開く音で一歩下がる。ゆっくりと動く扉から、魔法学校の教師、エルア・ラーナが姿を現した。
記憶に残っている姿と比べ、やつれた頬と覇気を失った瞳。元気を失くしているのだと、顔を合わせて数秒で伺える。
まずは双方の緊張を和らげるために、満面の笑顔で挨拶。
「お久しぶりです! メルアチアさんからよく分からない物を預かったので、届けに来ました!」
右手に握っているのは、彼女から渡された紙袋だった。
連絡を受けたのは、昨日の放課後。学園長室に呼び出され、渡されたのは彼の住所と謎の物品。
詳しい説明はなく、ただ様子を見に行ってくれ、のみ。
渋い表情をしながら硬直していたエルアに、理解できているかも怪しい相槌を打たれた。
「貴方は確か……二年のジョリー君ですか?」
「はいっ!」
覚えていてくれたことが嬉しく、心が幾分か軽くなる。
抑えてくれと言われたことをうっかり忘れ、精一杯の声でお辞儀をしてしまった。
「魔法学校属性科二年、ジョリー・オンデっす!」
「……何かと思えば、お菓子だったのですね」
どうぞと招かれ、入った部屋の中は、想像していた以上に整っていて……無機質だった。
空き部屋に、机と椅子を加えただけの淡白さ。植物でも置きましょうよ、と言いかけた口を自分で塞ぐ。
座って待っていると、一杯の水とメルアチアから渡された菓子の袋が並べられた。
「確か、アリファ山の調査に向かっていたと聞きましたが」
「異常がなかったんで戻ってきたんです。最近呪術師の事件が増えたから、そっちのサポートに回ってくれって」
「ああ……そういうことですか」
メルアチアから事情を聞いた時に感じた。言葉には表せない喪失感を今でも覚えている。
久しぶりの学校だった。見知った原色に戻り、今まで通りの日々を過ごしていくことが、一番の望み。
しかしそんな自分と入れ替わるように、エルアはそこからいなくなっていた。
「やっぱり、エルア先生がいないとしんどいです」
「買い被りすぎですよ。私は戦士としての覚悟も……」
「覚悟とか、そういうのは関係ありません。先生がいなかったら、やっぱり寂しいんですよ」
「……えっ?」
グラスをぐっと近付け、一口で半分を。掠れかけていた喉が、僅かに潤いを取り戻した。
「そりゃあ俺は、自分のことだけで精一杯だったし、頭も悪いから、正しいことなんて何も分かりませんけど……」
感情を表には出さなくとも、魔法には真摯に向き合っていた。そんな、一歩先の憧れの人。
これで終わりなんて思いたくない。何度だって、皆の前に立ってほしい。
拒絶される恐れを振り払って、彼の手を強く握った。
「でも、エルア先生の授業、また受けたいです!」
「ジョリー君……」
「自分の都合ですよね、すんません」
開かれたエルアの口が、小さな楕円を描く。ありがとう、という言葉と共に握り返され、そして、離された。
「いえ、私も似たようなことをずっと考えていました。学校に行かず、生徒の顔を見なくなると、心に穴が開いてしまったような気になってしまいましてね」
閉ざされていたカーテンを、彼はほんの少しだけ開いた。
瞳を貫く程に、眩しい。その輝きに耐えられなかったのか、瞬きの後に再び閉めてしまう。
「戻りたいと、思っています。しかしこの扉を開けると、やはりあのことが頭をよぎってしまう」
子供には、口の出せない大きな壁。問い詰めることは到底できず、ただ顔を俯けた。
「そうか……そう、ですよね」
「すみません。すぐに復帰するというのは、今の私には難しいです」
せめて自分だけは彼を悲しませないように、定期的に顔を出した方がいいのかもしれない。
今回は無理だと悟り、静かに諦めかけたその時だった。
「ですから、あと一週間だけ待っていてください」
彼が付け加えた言葉を、最初は理解できなかった。
「一週間、ってことは……」
「来週には復帰します。穴の開いた分は、身を削ってでも埋めていきますので」
ほんの少しだけ、空洞に等しかった瞳に光が宿る。
簡単に出せた答えではない。考えて、悩んで、苦しんだ末に決めた、前に進むこと。
「このまま、ずっと何もしないわけにはいきません。教師としての責務を、私は果たしていきます」
生徒は教師の後を追い、教師はそんな生徒たちの姿を励みにして生きていく。
何があっても、最後の時まで彼の姿を追いかけ続けると、心の中でそう誓った。
そしてもう二度と、彼に大切な人を失わせてはいけない。
「ありがとうございます、エルア先生っ!」
彼が戻ってくるその日が、今からとても待ち遠しかった。
謎を解き明かしたい。そう思ってシルビアと会った以降の日々は、却って謎が増えてしまっていた。
授業の合間に何かを思い描いては、冷静になって白紙に戻す、その繰り返し。
一方クリスは部屋に籠り、多種多様かつ有用な道具を作り出した……
「ダメだぁ、いい道具が作れなーいっ!!」
作り出そうと試みたが、暗礁に乗り上げてしまっていた。
「ここれ、は」
「うーん、完全に迷走しちゃってるね」
連絡用の小型水晶に、ゼンマイで自走するネズミの人形。
やりたいことは伝わったが、実用性には繋がりにくいと思える。
日毎に焦りが増えていく彼女は、子供のように叫びながら机に突っ伏してしまう。
「相手の本拠地だもんね。やっぱり簡単にはいかないのかも」「どんな形であれ、ジョンの素性だけは明かしたい。能力も正体も分からないままでは、学校側も本刀打ちできんからな」
「ローブだったっけ、あれをどうにか、バサッと……」」
黒いロープ……そういえば、マルク魔道具店にも、声を変える機能が付いて売りに出されていた記憶がある。
イリーナがふざけて被り、異星人の振りをして遊んでいたのも通い昔のよう。
思考が協道に逸れてしまい、軌道を正そうとした寸前。
「……あっ!」
「どうした、ミシェル?」
その隣に置いてあった魔道具の存在を、自分たちはすっかり忘れてしまっていた。
「マルクさんのお店にあった、透明になれるマント。姿を隠して侵入するなら、それを使えるんじゃない?」
「そ……そうか、その手があったか!」
顔を上げたクリスが、こちらに無邪気な視線を送る。
教本にも載っていた。マントの効力は強く、魔力を探知できる道具を使わなければ、視認は不可能。
相手に見られないことを考慮に入れれば、作戦の幅は大きく広がっていく。
突き詰めていくにつれ、道具の優位性が露わになった。
「シルビアの口ぶりからして、呪術師の行動は全てジョンの指示によるものだ。その指示を、アジトで行っているとするなら……」
先回りできる。次の犠牲者が出る前に、自分たちが。
「奴の出現を待てば、必ず隙を見せるはすだ」
「じゃあ、マントで隅っこに限れて、様子を見るってこと?」
「いや、それもそれでバレた時に困る」
マントは物を消せないからね、と付け加えられた。
微量とはいえ、力を使い続けることとなる。とうに覚悟はしていたが、不安がないとは依然、言い切れない。
しかし被女の含みのある面持ちは、先程とは違い、何かを思いついたような余裕を有していた。
机上に置いてあった、小型の運絡用水晶。
無用の長物と思われていたそれを、クリスは誇らしげに指差す。
「要はボクらが現地にいなくても、確認できればいいのさ」
日が落ちると、確かに叩いていた小鳥のさえずりが消え、窓枠が怪獣のような雄叫びを立てる。
僅かな灯りだけが残り、しんと静まり返った廊下。
草木も眠る深い夜が近付く折、遠くから一人の足音が微かに開えてきた。
「イリーナ、来たよ」
「りょうかいっ!」
箒に乗って身を低くし、外側からゆっくりと窓を開けてイリーナに知らせる。
クリスの布団に入り込んだ彼女は、目を瞑って寝た振りをする。
程なくして、一人の生徒が部屋の前に忍び寄り、ドアが何度かノックされた。
「消灯時間……起きてたらしっぺ、だから」
ラルムの声。しかしクリスは今、この部屋にはいない。
「フガガガガ、フガガ……」
耳を澄ませば一瞬で分かるような演技に、思わず吹き出しそうになってしまう。
それでも構わない。クリスは既に寝ていると、相手にそう思わせれば。
「フガ、フガ」
「いびき。それに灯りも点いてない、と」
足音が遠ざかっていく。起き上がったイリーナを抱え、次は自分たちの部屋へ。
シーツを捲り上げてイリーナを入れる。箒を仕舞い込むと、程なくして自分の番がやってきた。
胸に手を当てる。息を整えて、ドアの方へと進む。
「消灯時間。そろそろ布団にレッツゴーだよ」
「はい。すみません、すぐにますね」
「ところでイリーナ、は?」
「あの子はもう、てますよ」
ベッドの方に視線を向ける。暗がりで表情は見えないが、寝転がっていることだけは自分も視認できた。
「フガガガ、フガガガガァ」
彼女は音を傾げ、横になるイリーナをじっと見つめた。
顔に汗が滲む。ドアを開け放ってしまうと、流石に二度同じ手は適用しないだろうか。
自然な言い訳を考えていると、こちらの耳元に顔を近付けられる。
「いびきってさ、麺眠が浅い証拠なんだって」
「えっ……へえ、そうなんですね」
「何か悩みがあるなら、サポート、してあげてね」
分かりました、と頭を下げる。以降は何も言われることなく、ラルムは背を向けて立ち去っていく。
静かに閉め、鍵をかけると、疲れがどっと願いかかってきた。
「ひぃっ、ハラハラしたよ……!」
「お疲れ様だね。イリーナ、ありがとう」
数分の出来事が、数時間に感じてしまう。目を閉じて、すぐにでも横になりたかった。
しかし自分たちにはまだ、やるべきことが残されている。
「……よし、後は頼んだよ、クリス」
第一の壁は突破できた。消灯の知らせが来た後、誰かが巡回することはない。
ここにいない、彼女のことを頭の中で思い浮かべる。
作戦が成功することを切に願い、美しい星空に向かってふっと息を吐いた。
消灯時間を過ぎ、箒での小旅行。罪悪感は数をこなすごとに薄れていき、代わりに湧き上がってくるのは、非日常の趣き。
しかし今回は、高揚感に身を任せている場合ではない。
日が沈んでもなお、灯りと人の声を感じる場所。その中心に、バー・ミルキーの姿はあった。
「想像よりも、賑やかな場所だな」
クリスは手短に箒を仕舞い、格子状の窓から中の光をじっと見つめる。
カウンターの奥に、男の姿が一人。忘れるはずもない、アセビ殺害の発端を作った呪術師、リューズ。
不意に雷魔法で撃ち抜きたい動に繋られ、深呼吸をしてぐっと抑え込む。
今の自分に必要なのは、責務を的確に成し遂げること。
「リューズ様、会いたかったですぅ!」
「よし、始めるとするか……」
透明マントを被り、外れないように留め具を探る。
この留め具に埋め込まれた、光の石。それが相手の視覚に作用し、まるで何もないかのように誤認させる役割がある。
ちょうど入ろうとしていた、常連らしき女性の後を追う。
店の床に足を踏み入れた。周りの視線を集め、リューズから挨拶を交わされるのは、彼女だけ。
「いらっしゃい。待っていたよ、マリンちゃん」
「聞いてくださいよ! 会う約束をしてた男の人が、時間になっても来てくれなくて……」
「それは辛かったね、さあ、こっちにおいで」
戸棚の横に身を置き、まずは最初の課題を突破できたことに安堵の息を漏らす。
客を誘う、甘ったるい言葉たち。酒を使い、相手の心を巧みに撮るというのが常套手段なのだろうか。
やはり大人のやることには、まるで理解が及ばない。
「リューズさん、ジンの果実割りを一つ!」
「はーい。ちょっと持っててね」
程なくして、別の団体客からの注文、水を入れたグラスに、棚から出した瓶で透明の液体を注いでいく。
仕掛けるなら、今この期間が好機なのかもしれない。
杖の先端を向ける。リューズの視線は一点、声を上げた客の方に向けられていた。
「客に罪はなさそうだが、あの店主には一矢報いねばな」
息を止め、集中力を高めた、人が視認できない程の、微細な電撃を打ち出していく。
狙いに寸分の狂いなく、彼の手首に痺れが走った。
「ぬわっ!?」
一瞬だけ力が抜けたのが視認できた、傍から見れば、静電気にかかったような様子。
手からグラスがすり抜け、横を向いたまま硬い床へ。
目をしかめてしまいそうな粉砕音と共に、先程まで入っていた液体は、足元にばら撒らかれた。
「あー、私のジンっ!」
「ちょっとリューズさぁん、寝不足ですか?」
「ご、ごめんよ。怪我はない?」
すぐに破片が集められていく。液体は白い布で拭かれる中、リューズは平謝りを続けた。
想像の通り、周りの客たちも現場の方へ顔を向けている。
今が好機。鞄から取り出したのは、手の平に収まる大きさの小型水晶。
埃の付いた、戸棚の上へ。細かく切り取ったマントを被せると、これも持ち主以外からの視線を遮断する。
「……イリーナ、ミシェル。聞こえるか?」
手だけを出し、小さな声で水品の向こうに語りかけた。
程なくして、イリーナが笑顔で手を振ってくる。つまり、道具は問題なく機能している証。
「すぐに代わりを持ってくるから。待っててね」
「しまった、時間をかけすぎたか……!」
しかし扉に向き直った瞬間、片付け終えたリューズがカウンターに走っていく姿が見えた。
マントで隠せるのは身体だけ。開ける瞬間を目撃されては、何の言い駅も通らない。
奥の手を使わなければ。すかさず取り出したのは、ネズミを模した少し大型の玩具。
「頼んだぞ、チューちゃんっ!」
身体を届めてゼンマイを巻くと、それは程なくして動き始めた。
玩具と言えど毛皮は本物を再現し、可能な限り有機的な動きに近付けている。
凄まじい速度で駆け抜けていけば、疑う者は誰もいない。
「ギャァァァ、ネズミィ!?」
「いやぁぁっ、来ないでぇ!!」
連鎖反応的に拡大していく悲鳴。目にした客たちは慌てて立ち上がり、回避しようと身をよじる。
それでも、経横無尽に駆け回るネズミがそれを阻んでしまう。
恐怖はみるみるうちに拡大し、やがて店から逃げ出す者まで現れ始めた。
「そ、そんなバカな……おわあっ!?」
すぐに捕えようと、リューズがカウンターを飛び超える。
俊敏な身体を追い回そうと、両足に力を込めた。しかし足元を掬われてしまい、背中から床に転んでしまう。
先程とは似ても似つかめ滑稽さに、ため息が出てきた。
人の波は止まらない。混乱に乗じて、自分も店の外へと足を踏み出していく、
「人の運命を弄んだ罰だ、ザマーミロ」
最後に今一度、その間抜けな姿に向けて舌をペロリと出した。
「戻ったぞ、二人とも」
魔法学校の建物が見え、姿勢を低くしながらの飛行。
いつもの癖で自室に入ろうとした寸前で留まり、隣室の窓を静かに開けた。
「おかえりなさい。大丈夫だった?」
「何とかな。それより、消灯はどうにか誤魔化せたか?」
「バッチリだよ、私の名演技でね!」
「そうか。それならひとます、安心だな」
水晶は机上に置いてあった。中を覗き込むと、呆れ返った表情でネズミを探るリューズの姿。
閑古鳥の鳴く店内。願わくば、常連たちが別の店に乗り換えてくれることを祈るばかり。
その一方で、グレオやジョンらしき人影もまた、どこにも見当たらなかった。
「ミルキーの客は事情を知らない様子だった。呪術師が来るとするなら、みんなが出払った後だろうな」
「まあ、クリスのおかげでみんな出払ってるけどね……」
イリーナとミシェルも、身を乗り出して顔を近付ける。不用意に動けばぶつかりそうで、落ち着かない。
しかし友達がいなかったあの時のことを思い起こせば、不思議と幸せな感情も湧いてくる。
「でも、この水晶ってどうやって動いてるの?」
「最初の起動時に力を中に溜め込んでいる。半日は稼働するが、小型化した副作用で、魔力が無くなれば消滅するだろう」
「うーん……ちょっと勿体ないね」
せっかくの発明品なのに、とイリーナが寂しそうな表情を浮かべる。
「少し、狡い手段だからな実用化すれば何かと危険だから、ここで使い切っておくのは却って正解だ」
発明は失敗の連続。必要な時に、また作り出せばいい。
彼女の頭を優しく撫でた。向こうが小さく微笑むと、自分の方が羞恥心を覚えてしまった。
少し気が緩んでいたその時、もう片方にいたミシェルが声を上げる。
「……あっ、誰か来たみたいだよ?」
肩を叩かれる。慌てて水晶を見つめると、想像していた通りの変化が起きていた。
疫病神。この状況を例えるなら、その一言に尽きた。
半分は脇目もふらず逃げ、もう半分は興覚めしての退店。
金も置かずに行ってしまった者を追いかける気力も持ち合わせておらず、放置されたグラスが虚しく光る。
すっかり静まり返った店内で、リューズは姿を消したネズミの行方を追いかけようと試みる。
「オーイ、何してる?」
頭を抱えていると、視界の外から聞き覚えのある声。
待ち合わせより一時間も早く、暇を持て余した少年、グレオが店の戸を叩いていた。
「大きなネズミが出たから、駆除してやろうと探してるのさ。まったく、人騒がせなものだ……」
「ウーヒッヒ、不潔だなァ?」
「そんなわけあるか。掃除はこまめにしているのに」
歩み寄る前に、手近な席を陣取られた。ため息をつきながらも、何もしないわけにはいかずに水を置く。
物音はとうに消えている。もう外に出たと諦め、今回は大人しく下がるべきだろうか。
腕を組んで唇を引き結ぶと、間を置かずに次の来客。
「動物一匹でこの有様とはね。あっ、これ頂いてもいいかしら?」
「好きにしてくれ。それを頼んだ客はもう戻ってこない」
先程の代わりにと作っていたジンに目を付け、カウンターに座ったのは呪術師・メラト。
荒れたままの店を、彼女に晒すのは良い心地がしない。
両手に飲みかけのグラスたちを抱え、蛇口を捻る。すると、グレオが反り返ってこちらを向いた。
「そういえばリューズ、シルビアが魔法使い側に傾きだしたぞォ」
「えっ……ああ、そうか。面倒なことになったな」
「面倒ごときで済めばいいけどな。あいつ結構強いから、下手すりや全滅だぜ?」
目を細める。苛立ちが募ると、グラスを擦る手の力が強くなってしまう。
「加勢したいのは山々だが、生憎謹慎中だからなあ……」
「あーっ、逃げようとしてるー」
「謹慎が何だ。やられる時は一蓮托生だろォ?」
「ジョン様の命令だ。仕方あるまい」
棚のガラスに映った、自分の姿。仕方ないと片付けた者とは思えない、渋い表情をしていた。
戦いたい。しかしジョンと自分たちの求める夢に、語が生じたわけでもない。
だから声を上げるわけにいかず、ずっと宙に浮いている。
「しかし戦いに出られないと、得られる情報も少なくて困るな……」
「お困りのようなのですね、リューズ・ファスタ」
どうにかならないものか、と不意にしかけた刹那。
気付けば店に入っていたもう一つの人影に、自分の声が被せられてしまう。
黒いローブに覆われ、素顔を隠した自分たちの主。
いつからか気配を消して歩み寄ってきたのは、当のジョンだった。
「っ、ジョン・オウタム様……!」
慌ててカウンターから飛び出し、勢いよく頭を下げる。
図らずも、本人の前で不満を口にしてしまった。顔を向けた床に、汗とも涙とも分からない一滴が探れる。
しかし自分の想いに反して、相手の物腰は柔らかかった。
「リューズの謹慎は解除するのです。今後の動きを定め、三人で力を合わせて戦うのです」
「ありがとうございます……これからも精進してまいります」
ようやく、自分も戦える。喜びを噛みしめながら、静かに後ろへと下がっていく。
「今後の動きっていうと、やっぱシルビアの殺害かァ?」
「それは後回しなのです。喫緊の課題としては、出所が判明している魔神器の奪還でしょうか」
「ああ、アッチの対処ですね」
魔神器。今行方が分かっているのは、そのうちの一つ。
十分な力を溜め込むために、今まで様子を見ていた、と聞く。これらグラスに注がれた飲み物が、一杯になるのを待つように。
その時は、刻一刻と近付いている。ジョンにそう告げられると、自分は決して疑えない。
「最走をさせ、我を失っている間に事を起こすのです。最悪、魔法使いの殺害とはなりますが、今回に限り認可しましょう」
「でも……暴走とは具体的にどうなさいますか?」
「簡単なのです。彼女に精神的な負荷を与えれば、今までに蓄積されていた力が暴発することは確実なのです」
目を閉じて、ふと考えてみる。死なない程度の傷を与えるのは、後のことを鑑みても壁が高い。
まず狙うべきなのは、仲間や家族たちの命だろうか。
「よって、まずは……ん?」
思案していた最中、言葉を続けようとしたジョンが、突然その動きを止めた。
「どしたんスカ、ジョンの兄貴?」
「なるほど。こんな罠を張るとは、向こう側も成長したのですね」
何かあったのですか、と問いかけようとした自分たちを、ジョンは静かに手で制した。
状況がまるで掴めないまま、向けられた視線の先は誰もいないはずの戸棚。
彩を添える、花瓶や小物。しかしそれ以外には何もない、はずなのに……
戸棚に向けて手をかざし、静かに力を込めるジョン。
その瞬間、水晶の欠片が粉々に砕け、床に幾重にも重なった破片と、透明な布が零れ落ちた。
「……は?」
「な、何だァこりゃ!?」
「罠なのです。私たちの内情を探るために、ずっと様子を監視していたのでしょう」
気付いたジョンが手を打つまで、水晶がそこにあることすら見えていなかった。
失策。魔法使いが来た形跡なんて、無かったはずなのに。
「バカな……あっ!!」
どこで自分は見逃したのだろう。頭を抱えている最中、一つの違和感に気付いた。
突然静電気が走り、グラスを落としてしまった。それに、前触れなく現れたネズミも。
もしあの時、密かに魔法使いが水晶を置いたとすれば。
彼女らと、そして罠を見つけ出せなかった自分に苛立ち、精一杯の力でテーブルを叩き鳴らした。
「あの時か。くそっ、おかしいと思ったんだ!」
「どうやら一杯食わされたようね、リューズ」
魔法使いに侵入されたということは、何者かが拠点の情報を教えたことにも直結する。
情報の漏れた道がどこなのか。思案していると、ジョンが一歩先に声を出した。
「シルビアに情報を与え過ぎたのです。これで恐らく、イリーナ・マーヴェリたちにも知られてしまったのでしょう……」
焦るには至らない。ただ僅かに、紡がれる言葉が早くなったような感覚を覚えた。
「少し、想定外なのです」
「どうしましょう? こうなってしまった以上、最善策は口封じだと思いますけど」
「ミシェル以外の魔法使いを狙い、残さず潰していけば、暴走も誘発できる、と思うのですが」
「待ちなさい。思う思うで事を進めるのは、先を見通せない愚か者のすることなのです」
立ちあがろうとするメラトと自分を、ジョンは視線だけで押え付けた。
何度か、呼吸音だけが生々しく耳に入る。今まで見てきた中で、一番かつ唯一にも思える、迷い。
ほんの一瞬だけ見えた殺気はすぐに覆い隠され、すぐに冷静な声色へと戻っていく。
「……少し荒療治にはなりますが、私が出るのです」
「おおっ、いよいよリーダーのお出ましかァ」
徐に立ち上がったジョンが、勢いよくローブを翻す。
「盤面を戻すために、まずは魔法学校の連中の目を引くのです」
有無を聞く前に同時に頷き、自分たちはそれぞれの方向に歩み出していく。
今まで戦えなかった分も、騙されたみも。全てを詰め込んで、ただ前へと突き進む。
待ち望んだ総力戦は、誰も思わぬ形でその始まりを告げようとしていた。
魔神器の奪還、シルビアとの敵対。有益な情報が手に入り、これなら大丈夫、と慢心が混じってしまった。
しかし、ジョンと名乗る黒いローブの男がこちらを見て、手の平を出した瞬間に、緊張が走る。
何かが砕ける音と共に、向こうとの交言は完全に途絶えてしまう。
「ど、どうして?」
「透明化した水晶が……探知された?」
「分からない。あの三人には、確かに気付かれていなかったはずなのだが……」
作戦の失敗。魔法使いの潜伏を見抜かれてしまい、イリーナたち二人は肩を落とす。
しかしその謎以上に、クリスは一つ、気にかかっていることがあった。
「ジョン・オウタム。どこかで聞いた名だと感じていたが、ようやく思い出した」
机の引き出しから一冊の本を取り出し、開いた。
古びた紙は茶色を帯びており、少し力を入れれば破れてしまいそうな脂さと、月日を経た威圧感を内包する。
彼女らにとっては初めて目にする文献に、一歩遅れて疑問符が飛び出してくる。
「この本は?」
「調べ物をしていたら、偶然見つけだしたものだ。著者は、ジョン・オウタムだ」
「何ですって……!?」
最後のページに記された、同姓同名。不意にミシェルが声を上げかけ、慌てて自らの口を塞いだ。
「二百年前、ベルドール・エーレンドは魔法研究の第一人者となった。そんな彼女を支えていたパートナーが、ジョンだったんだよ」
灯りに照らされたサインを、人差し指で軽く叩く。
「そう……だったの!?」
「つまり、ジョン・オウタムもまた、始まりの魔法使いだったってこと?」
「その通りだ。しかし今はベルドールのみが残り、ジョンの存在は歴史から抹消されているらしい」
不慮の事故を起こしたか、または何らかの理由でその立場から離れたのか。
乱れた前髪を掻き上げ、膨らんでしまう想像を半ばで断ち切る。
「魔法使いだったジョンが、呪術師の長になっている理由も分からないよね。本来は、逆の立場のはずなのに」
言っていることは分かるが、素直に頷けない、相反する感情。
本の最後には、確かに記されていた。人間と魔法使いが争ってはならない、と。
ベルドールを除いて同士はおらず、孤独に苛まれていたはずなのに、そんな中でもジョンは平和を望んだ。
そんな、一貫して優しい心を持つ彼を、今のジョンと同じ生物だとは思えない。
「しかし名乗っているだけで、本人という保証はどこにもない。高位の魔法使いだったとしても、寿命はとうに、っ……」
「あっ……クリス!?」
「大丈夫!?」
声が大きくなりかけたその時、目の前の視界がぐらりと歪んで、思わず机に片手をついてしまう。
立っていられない気怠さ。それに、一瞬だけ遠くなった二人の声。
これ以上無理をしてはいけないという、身体からのサインだった。
「……夜通し作業していたからな。口は動くのだが、頭がどうもついていけない」
思い起こせば、自分たちは消灯を過ぎて動き回っていた。
深呼吸の後に、椅子から立ち上がる。考えなければならないが、休まなければ備えることも叶わない。
「すまない。今日は一旦、休ませてくれないか?」
迷った末に出た言葉。しかしイリーナとミシェルは、すぐにその答えを出してくれた。
果ての見えない真っ暗な奈落に、一人で腕を広げて飛び込んでいるような感覚だった。
三種の魔神器を手中に収めている、謎の魔法使い。それに魔力を自力で探知したジョンとは、一体何者なのか。
あの本を書いてから、今に至るまで、本物のジョンの身に何があったのか。
足を踏み出した先に何があるか分からない。でも、自分たちは知らなければならないと思う。
全てが嘘だったとしても、最後に残った……友達のことだけは、命を張っても守りたいから。
その想いを胸に刻みながら、薄れゆく景色の中でゆっくりと目を閉じていく。
せめて、今夜だけは何事もなく無事でいられますように。
第一に大切な人たち。次に自分に祈ったクリスは、心に歪みを抱えたまま一旦の眠りに就いた。
青白い空に、僅かな日差しが差し込む光景を目の当たりにしながら、ゆっくりと目を開ける。
「うーん……」
起き上がるか、再び眠るか。そう思っていると、隣のベッドのシーツが擦れる音が聞こえてきた。
奇遇にも、互いに何かの拍子で目が覚めてしまったらしい。
伸びをし、渋い顔で起き上がったイリーナと、不意に視線が合ってしまった。
「早く、起き過ぎちゃった?」
「そうみたい、だね」
「どうしよう……目が冴えて寝れないや」
言葉にすると余計に増してしまう、不安。ジョンという存在が何者なのか、考えれば考える程分からなくなる。
身支度だけ、先に済ませておこう。平静を保とうとした最中、イリーナが何かを見つけて身を乗り出す。
「……ん、何だこれ?」
ベッド脇にある窓枠に一枚、何かの紙が挟まっている。
気付かなかった。外からの風にたなびき、しかし落ちることもない絶妙なバランス。
一度視界に収めると、何やら言いようのない恐怖に駆られてしまう。
「昨日は無かったよね、こんなの?」
「えっ……ああ、確かに」
「取れるかな? えいっ」
何か反応をする前に、両腕に力を込めたイリーナが思い切って引き抜いた。
ガタンと、窓の震える音と共に、紙は彼女の手元に。
「中には、何て書いてあるの?」
「ちょっと待ってね。今から読むので……」
身支度も忘れ、慌てて駆け寄る。紙には特段の装飾もなく、ただ文字が刻まれているのみ。
嫌な予感がした。しかし、見ないふりをして目を背けることもまた、今の自分たちにはできない。
迷った末、イリーナの開いた手紙を、ゆっくりと覗き込む。
日々悩み、成長に励む、愛おしき魔法使いの卵たちよ。
三日後の朝。バー・ミルキーの前で、貴方たち三人を待っているのです。
皆様の知りたいことを、全て教えて差し上げましょう。
ジョン・オウタム
手紙を持つイリーナの手が、小刻みに震えているのが見て取れた。
「こ、これは……」
「間違い……ないよね?」
きっと分からないだろうと油断していた、昨日の自分たちを今になって悔やむ。
寮に忍び寄り、窓に手紙を挟んだのは、いつでも手を打てるという余裕の証、だろうか。
まるで手に取るように、彼に全てを見抜かれていた。
「ジョン・オウタムからの、挑戦状っ!?」
続く




