第30話 絶望からの再起、すると転機Ⅴ
耳元に衝撃と、何かが破裂するような音が聞こえてくる。
「あ、れ……」
ミシェルはゆっくりと目を開け、顔だけを空へと向けた。
身体に力が入らず、起き上がれない。ストーリアの術を受け、自分は眠っていたらしい。
ちょうど、隣ではクリスが同じように意識を失っていた。
「ストー、リアは……?」
視線を回す。自分も彼女も、命に係わる傷は負っていないように見える。
助けを求めることは叶わないが、ほっと胸を撫で下ろす。
しかし衝撃音の主を探ろうとした刹那、眼前に信じ難い光景が広がっていた。
「あんたをぶっ潰す!」
「私たちは勝つ!」
イリーナが戦っている。そして、彼女の隣に立っているのは、もう一人の魔法使い。
魔法使いにも呪術師にも与しない、得体の知れない戦士、シルビアがその場に佇んでいた。
「どうして……イリーナと、シルビアが!?」
今朝まで、イリーナは部屋から出ることさえ厳しかった。
それなのに、瞳には輝きが戻っている。敵の猛攻を凌ぎ、前のめりで戦いに挑んでいる。
自分の力を借りずに、あまつさえシルビアと共に。
「シルビア、グレオをお願いできる?」
「言われなくても分かってるわよ!」
「ありがとう!」
手を伸ばす。近いように見えて、決して届かない。
彼女が悩み、想い苦しんでいた時と同じだった。何をしても、何を言っても届かないと分かる、閉塞感。
抜群の連携で相手を追い詰めていけばいく程、こちらの心も逃げ場を失っていくように思えた。
「待っ、て、イリーナ……!」
そこに立って、一緒に戦うべきなのは、自分なのに。
両足を炎の蹄に変えたグレオは、視認できない速さで走り出し、攪乱を図る。
しかし僅かに残る気配を捉えたシルビアは、接近した隙を狙ってその襟首を掴んだ。
「ぐはッ!」
反撃されるより先に、腹部への蹴り。彼が地面を転がるのを見届けると、首を傾けて鼻で笑う。
「小手先の技で、私に勝てるとでも?」
「畜生、コケにしやがって……!」
それでも、彼は負けじと立ち上がった。呪術教典を開き、黒い靄が彼の身体を覆う。
強力な術が来る。ならば、真っ向から立ち向かうのみ。
「超級魔法の力、思い知らせてやるわ」
弓矢を杖に戻し、虚空に円を描いて魔法陣を創り出す。
穏やかな草原で吹くような、美しくも心地良いそよ風。
しかし回転を増していくにつれ、風は大きくなっていく、建物の窓が揺れ、石畳が持ち上がり、竜巻へと。
「インヘリット・クロウ」
「ウインド・ラファ・エル・ムルバ!!」
黒い羽根を纏った風と、荒々しい音を立てた竜巻が正面からぶつかり合う。
拮抗。周りの瓦礫が浮かび上がり、双方共に規模を増す。
しかし竜巻は黒い風を巻き込み、一体となってグレオの方へと襲いかかった。
「ぬわァァァッ!?」
叫び声。増大する勢いに抗うことができず、彼の身体が持ち上げられるのが見える。
地面が抉れる程の爆発。辺りが淀んだ塵に塗れ、ほんの一瞬だけ目を瞑った。
「バカ、なっ……」
顔を上げた。深手を負ったグレオが、仰向けに倒れている。
ゆっくりと近付き、距離を詰めたその時、彼の腕が、微かに薄れて見えた。
「……ん?」
「うァッ……!?」
慌てふためいた表情をしたグレオが、手を覆い隠して鋭い視線を向ける。
初めて見る現象だった。人体の限界に到達し、死を迎えた呪術師は、消滅してその魂を終える。
遺体はおろか灰さえ残らない。しかし、振り返ってみれば自業自得。
「どうやら、もうすぐ限界が近いみたいね」
立ち上がり、術を出す気配があるとは思えない。
捕虜にできないのは心残りだったが、まだ機会は残されている。
勝利を確言し、口角を上げる。しかし、彼の肩が小刻みに震えた。
「ふざけんな……俺は、俺はまだやれるんだッ」
獣のように低い声。肌に痺れる程の殺気を感じ、立ち止まって身構える。
足に力が入らず、四つん這いになりながらも、体勢を整えようとする執念。向かい風が、グレオの前髪を僅かに巻き上げた。
矢を向ける。込めた力に応じるように、弦が軋んだ音を立てる。
「俺を倒すなんざ、一億年早えんだよォ!!」
「うぁ……!?」
呪術教典から、黒い霧が一気に広がる。逃げられる、とすぐに悟った。
視界が覆われる前に一撃を放つ。グレオの身体が隠れるよりも先に、頭を撃ち抜いて即死させれば。
だが期待も虚しく、風を切る音しか聞こえてこなかった。
「ちっ、一歩遅かった!」
両手で霧を搔き分け、進む。案の定、先程まで倒れ込んでいたはずの姿はどこにも無い。
またしても、掴めなかった。もう少しで、呪術師の戦力を削ぐことができたのに。
息を吸い込む。しかし叫ぶことはできず、片足を地面で踏み鳴らした。
前に進むと、小さな氷が足に当たり、砕ける音が聞こえた。
元が人間だったと分かる残骸は、探っても出てこない。足元に目を移したイリーナは、唇を引き結んだ。
「……ん?」
もう、無理なのだろうか。そう思った刹那、視界に木箱が映って足を止めた。
つい最近、見覚えがあった。震える手で掴み、凝視すると、それがオルゴールだと分かる。
「これ……リッシュ、さんの」
ストーリアの襲撃を受け、屋敷から逃げ出した時、リッシュが懐に入れて持ち去ったのだろうと悟る。
残っていた。彼女が確かに、この時まで生きていた証。
目立った傷は付いていない。ただ、以前のような音を奏でられるかは、定かでは無かった。
頭をよぎる不安。けれど、一度試してみなければという思いに駆られてしまう。
ゆっくりと、あの時のようにゼンマイを回し始めた。
屋敷の花畑が脳裏に浮かんでくるような、綺麗な音色。
でも、それ以上に、彼女は母を思い出していたのかもしれない。言葉を交わさずに去ってしまった人が、娘に遺した大切な形見。
持ち主を失い、冷たくなっていたオルゴールが、ふと暖かくなったような気がした。
「リッシュさん。貴方の想いは、ちゃんと背負っていくから」
自らの力で呪いを抜け出したリッシュ。幾ばくも無い命となってしまった彼女から、伝えられた言葉が頭をよぎる。
「ワタシノ、デキナカッタコトヲ、アナタガ……」
託された。一生を賭けて叶えようとした、何よりも大きい夢を。
できるか、できないかという疑念は、とうに彼方へと飛び去っている。きっと、これが今の自分に与えられた使命なのだから。
空に向かって微笑みかけた時、音色は静かに途切れて、終わりを告げた。
「私、創ってみせるよ。魔法使いと一般人が手を取り合える、平和な世界を」
さよならとは言わなかった。彼女は今も、自分の中で確かに生き続けている。
しばらくその場に釘付けになっていると、視界の外から、戦いを終えたシルビアが歩み寄ってきた。
「……情は捨てなさい。強くなるために、それは邪魔よ」
厳しく、しかし何かを押し留めようとする想いの混じった声だった。
オルゴールを、ぎゅっと握りしめる。確かに想いを捨てれば、戦いの度に苦しむことは無くなるかもしれない。
一つの到達点。それでも、自分が目指している場所では無かった。
「情があったから、ここまで戦ってこれた。もし弱さだとしても、私は捨てずに持って行くよ」
苦しめられたことと同じ、もしくはそれ以上の数、自分は優しさに救われている。
加える言葉も、返される言葉も無いしばらくの沈黙。やがてシルビアはため息をつき、目を逸らした。
「馬鹿な奴」
「そうだね。でも、これがありのままの私だから」
魔法を放った余波だろうか。自分の頬に、冷たい雪の結晶が降ってくる。
地面に落ちれば、すぐに溶けてしまう程に脂く小さい。しかし幾重にも重なると、瓦礫を少しずつ白くしていく。
雪が触れて濡れてしまわないように、オルゴールを両手で包み込んだ。
ミシェル・クリスの危機にイリーナが駆け付け、敵対関係にあったシルビアと肩を並べる。
そして、ストーリアの死とグレオの撤退。ワズランドは再び、平穏な日々を取り戻す。
その光景を見届けたアウダーは、カーテンを閉めた。
「落とし所としては、丸く収まったかな……はむっ」
柔らかいソファに腰かけながら、乾いたパンを一ロ。
真横で怪物が暴れているのを目にした部屋の住人は、鍵もかけずに逃げ出したようだった。
偵察できる場所を探していた身としては、極めて好都合。
抱えていた風呂敷を開き、マルクが与えてくれた連絡用の水晶を卓上へと置く。
「マルクさん? どうもどうも、アウダーです」
「待っていたよ。それで、戦闘はどうなった?」
「手を出す必要は無かったね。イリーナとシルビアが共闘して、ストーリアは無事討伐された」
「おお、それなら安心だな」
遮る音の無い、よく通る声。水晶越しでも、マルクの安堵の表情が明確に伝わってきた。
胸を撫で下ろし、天井を見つめる。普段の住処よりも格段に綺麗で、叶うならずっと住んでいたい。
気の抜けたように息を吐きながら、勝手に拝借したコーヒーを啜る。
「マルクさんがそれとなーく釘を刺してくれたお陰だよ。想定通りかい?」
「概ねは、な。魔法学校を辞した彼女なら、呪術師が想定外の動きをしても抑止力となるだろう」
首を傾げ、ふと考えてみる。四人では無く、別々の方向を向いた三人と、一人。
終着点の分からない興味深さ。彼の浮かべた小さな微笑みが、頭に残った。
「詳しい話は後で聞こう。ひとまず戻りなさい」
「あー、ちょっと休憩したいのだが……」
「気持ちはわかるが、店の掃除を手伝ってくれ」
腰を逸らせ、両目を瞑った。身体が岩のように固まり、仕事に向かう足が遠い。
そんな中でも、彼の表情は微動だにしない。唸った末に観念して頷き、右手で水晶を掴む。
「仕方無いな。行きますよ、っと」
重い腰を上げ、邪魔になった前髪をふっと掻き上げた。
息を吐き、ジョンは騎士の胸部に蹴りの一撃を加える。
「ハァッ!」
「ぐ……がぁぁっ!?」
鎧に亀裂が入り、倒れ込んだ相手は小刻みに震える。痛みに耐え切れなかったのか、やがて意識を失ってしまう。
数にして、十を超える騎士たち。その全てが、気絶して山のように積み上がっていた。
「少し戯れるつもりが、随分と時間を取ってしまったのです」
向こうでは、戦いの音が既に止んでしまっていた。ストーリアやグレオの気配も、ここからでは感じられない。
もう、ここにいる理由は無かった。立ち去ろうと背を向けると、何者かに足を掴まれる。
「では……」
「……待て。貴、様」
辛うじて意識を保っていた騎士が一人。足に傷を負っているのか、鎧のひび割れた部分から血が流れていた。
掠れながらも、どうにかして縋り付こうとする低い声。
掴まれた足を軽く振り払う。膝を曲げ、兜の内側を覗き込みながら耳を傾ける。
「貴様の、ような、呪術師は、記録に無かった……一体、何者だ?」
気怠さを交えた息を吐く。目の前に人差し指を突き出し、数回舌を鳴らした。
「勘違いも甚だしいのです。私はあのような、低俗な連中とは生物としての質が違うのです」
周辺で誰も聞き耳を立てていないことを確かめ、声を低くして言い放つ。
流石に意表を突かれたのか、騎士は顔を逸らして狼狽えた。
「何だ、と……?」
「失礼。感情が昂ってしまったのです」
沈黙の後にふと、我に返った。何を話そうが、どの道無かったことになる。
この場を後にし、逃げたグレオとすぐに合流しなければ。
「私のことは忘れ、元の生活に戻るのです。その方が貴方にとって、都合が良いのですから」
兜を右手で覆い隠した。騎士は剣を振り抜こうとしたが、深手を負った身体では抵抗できない。
そのままゆっくりと力を込め、記憶を封じる術をかける。
「殺すべき相手を、見誤ってはいけないのですよ」
掌が虹色の光を放つ。至近距離で浴びたその騎士は、ゆっくりと眠りについた。
いつも自分の隣にいてくれた、かけがえのない大切な友達。
手に届く場所にいたはずなのに、離れていく。自分の心では、止めることも受け入れることもできない。
「ん、んっ……」
混濁する意識。やがて目元に眩しい光が差し、ミシェルはゆっくりと目を開けた。
「……あれ?」
「目が覚めましたか、ミシェルさん?」
「あっ……キャロル、先生」
眠ってしまっていた。見覚えのある天井、学校の医務室。
声のした方に頭を向ける。ベッドの傍に座っていたのは、神妙な面持ちをしたキャロルだった。
「無茶ですよ、一人で立ち向かうなんて。クリスさんやイリーナさんがいなければ、今頃どうなっていたか」
「ご、ごめんなさい……」
掛け布団を掴み、手繰り寄せる。自分が助かったのは、彼女らが助けてくれたから……だけでは無い。
シルビアが戦いに加わり、イリーナを助けてくれたから。
友の成長を何よりも望んでいたはずなのに、そこに自分がいないことが、悔しくて寂しい。
「軽症で済んだのが幸いでしたね。治癒魔法で止血したので、日常生活にも支障は無いでしょう」
手をぐっと握り、再び離す。先程は動かせなかったが、治療によって身体が軽くなっている。
今度は、首を横に回していく。隣のベッドでは、包帯を巻いたクリスが寝息を立てていた。
「クリスは、まだ……」
「彼女は絶対安静です。前回の傷が治らないまま戦ってしまったので、またベッドに逆戻りですね」
「そう、なんですね」
幾分、穏やかな顔になっているように見えた。治癒魔法の力で、窮地は脱したのだろうと胸を撫で下ろす。
「私が……ちゃんと戦っていれば」
「すうっ……」
返事の代わりに、零れ出る寝息。意識が戻れば、改めてお礼を言いに行かなければ。
「幸い後遺症はありません。大人しく、していれば、そのうち元気になるでしょうね」
自身に言い聞かせるように深く頷く。しかし、先程から何かが足りない気がして、首を左右に回した。
外から聞こえる、風の吹く音。そんな中、探していた友の姿はここにいなかった。
「そういえば、イリーナは?」
「今回の一件を、学園長に報告しに向かいました。ひょっとすると、既に寮に戻っているかもしれませんが」
腰を曲げたキャロルに、優しく肩を掴まれる。笑顔と共に、小さな声で耳打ちをされた。
「私はもう大丈夫だから、心配しないで……と、言っていましたよ」
狐につままれたような感覚。額に生温い汗が滲み、辛うじて正気を保とうとする。
嘘だったとしても、今の自分には何もできない。もし彼女にとっての心の支えが、別の人になっていたら。
「イリー、ナ……」
このまま、彼女は人知れず変わり果ててしまうのだろうか。
知らない人と関わって、知らないうちに成長して。そして自分のことを忘れて、別人のようになっていく。
或いはやがて、シルビアのように魔法学校から離れて……
「寮に戻っても、構いませんか?」
「え……ええ。しかし体調が優れないなら、まだ医務室に留まった方が」
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
「はぁ、もう一歩も動けないよ……」
寮に戻り、自室の戸を閉めると、今まで溜まっていた疲労が一気に襲いかかってくる。
珍しく大きな音を立てて、イリーナは椅子に座り込んだ。
「結局、何も言ってくれなかったな」
騒ぎを聞き付けたキャロルが現場に到着した時、シルビアは忽然と姿を消していた。
何のために魔法学校を辞め、クリスと決別したのか。
争いを止める兆しだと思っていたのに、残されたのは答えの無い大きな壁。
考えを深めれば深める程、大きな沼に沈んでいくよう。
「……そうだ、後でミシェルの所にも行かなくちゃ」
窓から、校舎の方を見つめる。彼女たちには、色々と振り回して迷惑をかけてしまった。
目が覚めれば、必ず自分の口で伝えなければならない。ごめんなさいと、ありがとうを。
力の抜けた足に、もう一度喝を入れた。自分自身を奮い立たせ、一息で立ち上がる。
「……イリーナ」
しかし、そのまま部屋を後にするには至らなかった。
ドアノブが回される音。慌てて一歩後退ると、見覚えのある姿が視界に入ってくる。
怪我を負って、医務室に運ばれたはずのミシェルだった。
「ミシェル……け、怪我は大丈夫なの?」
「……ん、っ」
治癒魔法で止血したのか、肌の色は倒れていた先程よりも良くなっているように見えた。
しかし、どうにも様子がおかしい。こちらに歩み寄る足取りは覚束なく、受け答えも判然としない。
意識が朦朧としているようで、思わず首を傾げてしまう。
「大丈夫……どこか、悪いの?」
嫌な予感がした。身体の傷は癒えても、呪術師に妙な術をかけられては対処できない。
自分のせいで、ミシェルの命に危険が及んでしまったら。
いてもたってもいられず。引き寄せられるように彼女の方へ近付いた。
「ミシェル、医務室に戻った方が……っ!」
「イリー、ナ……!」
だが直後、両手を広げたミシェルに強く抱き締められた。
思わず目を見開く。暖かい体温に反し、その指は驚く程に冷え切っている。
肌に直で触れると、明確な震えがこちらに伝わってきた。
「……ん、んっ」
背中に手を回される。こちらの身体を包み込む、輪の形。
自分は、どうすれば良いのだろう。今だすべき答えが見つからず、時が経つにつれて焦りが増す。
「ん、くうっ……」
服が擦れる音。彼女の方が少し背が高く、力が加わると自分の両足が浮き上がってしまう。
人の出せる目一杯の力を込められ、全身が圧迫される。徐々に、呼吸が荒くなってきた。
「どうしたの……苦しいよ、ミシェル?」
拒みたくないのに、意識せずに出てしまった言葉。
はっと、動揺するような声が聞こえてきた。頭にうっすらと制止が浮かんでも、もう取返しが付かない。
「また、そんなこと言うの……?」
「私はイリーナを守りたいだけなのに、苦しいだなんて言わないでよぉっ!!」
「きゃぁっ!」
不意に離される。そして、ベッドへと突き飛ばされた。
向けられた力に抵抗することができず、身体が何度も跳ねていく。その上にミシェルが覆い被さり、周りの部屋に響く程の音を立てる。
そして一転、部屋の中は時が止まったように静かになった。
「え、っ……?」
「私、ね。イリーナと一緒にいられるなら、どんな辛いことだって耐えられた」
彼女の赤く綺麗な髪が、こちらの肩と額に軽く触れる。
くすぐったい感触に、甘い匂い。しかしそれらの感覚は全て、滲み出る涙によって吹き飛ばされた。
鼻のすぐ上に、湿ったそれが降り注ぐ。あと一寸でも逸れれば、こちらの目に入ってしまう程の。
「でも、いなくなるのは耐えられない。別々の人生を過ごすなんて、無理だよ、そんなの」
掴まれた手首、絡まった両足。少しでも動かそうとすれば、その倍以上の力で押さえつけられる圧迫感。
何よりもその悲痛な表情が、自分をこの場所に留める。
「私なら、ずっとイリーナの傍にいれるよ。何があっても、貴方のことだけは守ってみせるから」
ミシェルの瞳の中には、呆気に取られた自分の顔。
でも、彼女には何が見えているのだろう。いつも一緒にいたはずなのに、目の前の景色が分からない。
怖くて……そう思ってしまった自分が、情けなかった。
「もう、どこにも行かないで……イリーナっ!」
額と額が、互いに擦れ合う程の距離にまで近付く。
「ミシェル……どう、して?」
軋んだ音を出して手首を握る彼女の指が、仄かに紅く染まり始めた。
寂しい時や、幸せな時。繋いでくれた暖かな手が、今度は自分を縛り付ける。
「私には、分かん、ない。何があったのか、ちゃんと、話してよっ……」
「……あ、っ」
誰よりも苦しそうな顔で縋り付いている、ミシェルの表情に綻びが生まれた。
力が、徐々に抜けていく。彼女の額がゆっくりと離れ、上下左右に揺れ動く瞳。
周りの景色と、両手と、こちらの顔。視線が目まぐるしく動いていき、唇が震える。
「ご、ごめんなさっ……私、そういう、つもりじゃ」
辛うじて、言葉と分かる程に崩れた声。先程の鋭く悲痛な声色は鳴りを潜め、代わりに罪悪感が表面化する。
口を半ばだけ開いた。彼女自身でさえも、一時的な感情に我を忘れてしまっているはず。
答えの無い沈黙は、相手にとっては否定の表情に映ってしまう。
「私、イリーナに、そんな顔……」
「ちょ……ちょっと、ミシェル?」
首を左右に振り、シーツに涙を零すミシェル。崩れてしまった顔を両手で覆い隠し、指の隙間から嗚咽を漏らす。
ここまで取り乱した彼女を、自分が目にするのは数える程しか無かった。
脳裏に浮かぶのは、幼い頃。周りの言いつけを守らなかった自分が、目を盗んで………
「そんなつもりじゃ無かったの、ごめんなさいっ!」
耳元を超えて、頭にそのままの形で刻み込まれる、泣き叫ぶ声。
慌ててベッドから飛び上がったミシェルは、壁を掴みながら部屋から走り去ろうとする。
「待って、落ち着いて!」
止めなければ。すぐに起き上がろうとするが、体勢を崩して転んでしまう。
力を加えられた腕が痺れて、思うように動かせない。四苦八苦しているうちに、彼女の姿は扉の奥へと潤えていく。
夕日に照らされた大きな影も、次第に見えなくなっていき……
「ミシェルっ!!」
手を伸ばす。赤髪の毛先の一本でさえも、指先に触れることができない。
自分だって、拒絶するつもりは無かった。ただ、話を聞きたいだけなのに。
どうすれば良いのか、答えが出てこない。誰よりも近くにいて、傍で見守っていた友達の気持ちも、受け止められないなんて。
引き留めることもできないまま、扉は勢い良く閉じられてしまった。
続く