第27話 絶望からの再起、すると転機Ⅱ
「……あれ?」
誰かに名前を呼ばれたような気がして、イリーナは真っ白なベッドの上で目を覚ました。
「ミシェル……?」
辺りを見回しても、部屋には誰もいない。昇り切った太陽から、授業が既に始まっていたことに気付く。
また、自分は外に出られず、何もできずに日を跨いでしまった。
悔しさに押し潰されて、何もできずに涙が零れ落ちる。こんなことをしている間にも、みんなは魔法の修行をしているはずなのに。
今更合わせる顔が無い。ますます自分自身が嫌になって、外へ出るための足が遠のいていく。
「何、してるんだろ」
額に付いた涙を拭い、ベッドから抜け出る。重力が一気に身体にのしかかり、その場に倒れそうになってしまう。
一歩、また一歩と体勢を保ちながら、机と鞄の間を潜り抜けていく。動かせる程の力はあるのに、これからのことを考えると、心が鉛のように重くなっていく。
ミシェルから告げられた言葉を頭の中で反する。音の消えた自室の中で、それだけが前へと進む原動力。
壁を掴みながら歩き、洗面台に駆け込んだ。硬い蛇口をゆっくりと捻ると、透明な水が溢れ出手の中に器を作り、顔に軽くそれをぶつける。
自分への情けなさはそれでも消えないが、突き刺さるような冷たさで目が覚めた。
せめて、今日は何かを残せるようにしなければ。洗面台に背を向け、机に置かれた教本を読もうとした瞬間。
「……ねえ」
声がして振り返る。洗面台に取り付けられた鏡の前に、魔法学校の制服を着た一人の女子生徒の姿があった。
「久しぶりだね、イリーナちゃん」
「……っ、アセビさん!?」
アセビ・マルティ。かつて自分たちと一緒にボストレンの任務に向かい、ストーリアに殺害されたはずの少女。
頭を左右に振った。優しい声も綺麗な顔も、山吹色の髪もその佇まいも、自分の知っている彼女で相違無い。
自分は夢を見ているのだろうか。しかし、鏡に映し出された険しい表情が、伝えようとした言葉を不意に遮った。
「呑気だね。私はあんな酷い目にあったのに、メソメソ泣いて引き籠るだなんて」
「え、えっと、それは……」
「違わないでしょ? 何の力も無いくせに一人で騒いで、みんなに迷惑をかけた」
怒りを滲ませていた。今まで決して表情を崩さず、いつも優しく接してくれていた、憧れの先輩が。
その場に釘付けになって、目を逸らせない。告げられた言葉は、そのままの形で一つ残らず心に突き刺さる。
「イリーナちゃんがいなかったら、ボストレンの任務も成功してたかもね。そうしたら、私も死なずに済んだのに」
はっと顔を上げた。ミシェルやクリス、そしてアセビ。あの場にいたのは、一人でも戦い抜く力と芯を持ち合わせた、立派な魔法使いたち。
自分だけが落ちこぼれだった。自分だけが、一人ぼっちでは生きていけない弱さを抱えていた。
表向きは前向きに振舞って、人として強くなれたような気になっている。隠し切れない声の震えは、決して誤魔化せない痩せ我慢。
「でも、わたし……みんなの、ためにっ」
「そんなの関係無いんだよ! 一人で無茶して、一人でしくじって一人で死にかけた。それが結果なんだからさ」
「それ……は」
それでも掠れた声を絞り出そうとした瞬間、アセビの姿が靄と共に移り変わっていった。
血の付いた制服、決して消えない生々しい傷跡。あの時窮地に陥った自分を庇った、彼女の姿そのもの。
そうだ。任務に失敗したあの時から、自分は何も変わってなんていない。
「イリーナちゃんのせいで、先生になる夢も叶わなくなっちゃった……私の未来、返してよ」
いてもたってもいられなくなり、思わず両耳を塞ぐ。塞いだとしても、彼女の声は決して消えずに残り続ける。
「私の代わりに、あんたが死ねば……」
「やめてぇぇぇっ!!」
アセビを救えなかったこと、ガルドを殺めてしまったこと。頭の中を駆け巡り、眩暈がする。耳鳴りがして、立てなくなって、その場に蹲ってしまう。
息が苦しい、胸が締め付けられる。喉から何かが上がってきて、思わず口を押さえて堪えようとする。
「う、ぷっ……ぅぇぇぇぇっ!!」
しかし途中で止めることも叶わず、呻き声と共に床に零してしまった。
「はぁ、はぁっ……」
徐々に、耳鳴りが収まってきた。恐る恐る、ゆっくりと振り向くと、アセビの姿はもうそこにはいない。
部屋の中はまだ暖かいはずなのに、背筋に悪寒が走る。
ミシェルが帰ってきたら、どのように説明すれば良いのだろう。自分は何もできていないのに、一人で勝手に騒いで、苦しんで。
洗面台へは、戻れない。机を掴んで立ち上がると、そこに積まれた自身の教本が視界に入ってくる。
震える手で、一ページずつ捲る。居眠りをした授業の分は、ミシェルがペンで書き込んでくれていた。
「っ、ミシェ、ル……!」
メモの脇に、頑張ってねの文字。自分よりも整った字を頭の中で反し、涙が零れ落ちる。
いつも助けてくれるあの子に、ありがとうの一言ではとても釣り合わない。
教本を閉じ、机に突っ伏す。零れ出てしまった嗚咽は、畳まれた両手の中に収める。
ゴオツの任務だって、ミシェルは学園長の意向に反対していた。
今度こそ失敗しないと言じていた自分とは違って、イリーナ・マーヴェリでは戦えないと、彼女は気付いていたから。
そして、その通りに。彼女は果敢に戦い、自分は半ばで折れた。
「……っ?」
静かな世界。しかし微かに何かが聞こえ、窓に視線を向ける。
小鳥が飛んでいた。ピィ、ピィと鳴き、何かを求めて一心不乱に駆け回る。
少し、ほんの少しだけ、あの世界に行きたいと思えてしまった。
両手に力を込めて、窓を開く。涼しい風が頬に当たり、寸分も動かなかったカーテンがゆらゅらと揺らぐ。
心地良い。悲しさも情けなさも、全てを受け止めてくれるような。
窓の枠に足をかける。立ちはだかる壁が取り払われていくにつれ、頭が真っ白になっていく。
「ミシェル……クリス」
地上の景色を見下ろす。生垣と広葉櫢の横に、石畳。
深手を負うか、もう帰れないか。迷惑をかけたくないのに、身体が勝手にこの場から逃げようと動いてしまう。
引き金を構えたら、途中で下げることは叶わない。
「みんな、ごめんなさい」
震える足に力を込め、窓を蹴って部屋から地上へと飛び降りた。
クリスの頼もしい表情、母の優しい表情。遠い所から、夢を見るだけだった軽最後に、ミシェルの見せた笑顔が頭をよぎって……
「えっ……!?」
目を瞑る。しかし、自分に向かって吹いていた風が、止まった。
空中で手を掴まれ、落下を阻まれた。驚いて辺りを見回すと、それは自分の頭上にいた。
自分と同じ制服を身に纏った、箒に跨る魔法使い。
「情けないわ。死ねば、その苦しみが消えるとでも?」
「どう、して?」
「さあね。ほんの少し、気が向いただけよ」
元魔法学校一年、シルビア・エンゲルス。一つにまとめた髪を風で揺らしながら、こちらに鋭い視線を向けている。
右手一本に、全身が支えられる。呆気に取られた顔で、何も分からずその場で凍り付くことしかできなかった。
「……重いわね。人目に付くのも鬱陶しいし、ちょっと邪魔するわ」
魔石が連動し、箒がゆっくりと上がる。先程飛び降りた自室の窓まで運ばれ、彼女もその後に続く。
一体何のために、決別したはずの魔法学校に。
しかしシルビアのまっすぐな瞳に阻まれ、改まって聞くことはできなかった。
「では、今日は魔道具についての授業です」
雲一つ無い青空の中、キャロルは生徒たちの前に立つ。
杖を取り出し、魔力を込めると、異空間から箒が浮遊し、その手元に移動してきた。
「いつも皆さんが使われているのは、一人用の箒です。魔道具としてはこれが最も速いのですが、複数人で移動する場合は、絨毯を使うという選択肢もあります」
残った片方の手で、絨毯を取り出す。一見すると、部屋の片隅に置かれている何の変哲も無い織物。
続けて、杖で浮遊させながら、それを十枚積み上げる。
「操作方法は実際に覚えていきましょう。それでは、二人一組になって下さい」
互いに顔を見合わせる生徒たち。およそ十秒の間を開け、仲の良い集団が動き始めた。
屋外に響き渡る足音。早い者勝ちだと言わんばかりに、大勢がキャロルのもとへ殺到する。
「よーし、ペア組もうぜ!」
「ああ。よろしくな!」
「俺らは……この青いやつで!」
文明の利器に触れたような、好奇心に溢れた明るい表情。
絨毯の柄は細部が異なっていた。色彩豊かな華やかな物や、情熱を持った明るい物も。
顔を見上げる。一歩遅れて、ミシェルも前に進み始めた。
「私たちも行こっか、イリ―……」
隣を向き、首を傾げる。いつもの癖で飛び出た言葉ながら、いつも傍にいるはずの彼女はいない。
そうだ。自分と違って、あの子は未だ外に出られない。
溜息をつき、静かに俯く。面食らっていると、背後から聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「ねえ、ミシェルさん。良かったら、私とペア組まない?」
ゆっくりと振り向く。明るい声をした、普通科の女子生徒。
どこで会っただろうか、とその顔を覗き込むと、少し申し訳無い記憶が頭をよぎってしまう。
「えっと……ラミィさん?」
「うん。友達がみんな組んじゃって、ちょっと困ってたの」
「そうだったんだ。私で良ければ、一緒にやろっか」
食堂でイリーナに話しかけてきた生徒の一人。彼女に近付きたいから、外堀を埋める算段だろうか。
「……あっ、う、うん」
いずれにしても、頷いて誘いに応じるしか道は無かった。
ラミィの一歩後ろを歩き、最後に残った絨毯を手に取る。
幾何学模様、というものだろうか。地面に敷き、その上に座って杖を取り出すと、準備は整った。
「これ……箒と原理は同じなのかな?」
「多分ね。ほら、ここに魔石が入ってるよ」
端部には、緑に輝く魔石。魔力を込めると、それは淡い輝きを辺りに放ち始める。
「ウインド・レ・ムルバ!」
固唾を呑んで見守っていると、絨毯は静かに浮き上がった。
箒と違い、風に乗って速度を上げる軽やかさは見られない。
自然の赴くままに、穏やかに時間を過ごす感覚。慣れてくると、右腕に体重をかけて姿勢を崩した。
景色を見つめていると、不意にラミィと視線が合う。
「……ふふっ、気持ち良いね」
「そうかな? 私は、箒の方が好きかも」
暖かい景色に優しい同級生、平穏な授業。それら全てが整然と並べられ、何の不満も無かった。
ただ一つ。大切な親友がいないことだけが、胸に残る。
世界がモノクロに見えてしまう。かけられた言葉も頭に届かず、あの子は大丈夫なのだろうかと、それだけが。
「そういえば、イリーナさんと同室だよね?」
「えっ……ああ、そうだけど」
「何かあったの? 最近見かけないから、ちょっと心配で」
表面上の肌寒さとは裏腹に、額から緊張の汗が滲み出た。
「ちょっと、か……」
彼女にとっては、イリーナは少し、気になる程度の存在。
分かっていたし、当たり前なのに、心に小さな靄が生まれた。聞こえない程の声で、小さく呟いた。
軽く見られている……だなんて、きっと考え過ぎなのに。
「体調があまり良くなくてね。任務で頑張り過ぎて、体を壊しちゃったみたい」
「そう、だったんだ」
「いつもそうなの。一人で、抱え込んじゃうから」
絨毯が下にうねる。体勢を崩しかけ、慌てて杖を持ち直す。
慣れないからか、安定しない浮遊。ふと隣を見ると、生徒たちが談笑しながら乗っている。
まるで、自分の心をそのまま映し出しているようだった。
「私は……イリーナさんのこと、よく知らないけど、大切な友達がいなくなると、やっぱり寂しいよね」
「……」
深呼吸。一瞬だけ目を合わせ、気まずくなって逸らす。
「何かできることがあれば、助けてあげたいな」
できることなんて無いよ。自分だって、できないのに。
出しかけた言葉を、ぐっと飲み込んだ。卑屈な考えばかり、頭の中に浮かんでしまう。
自分の答えは決まっている。そのはずなのに、平行線から抜け出すことができなかった。
前触れのようなそよ風が、向こうから吹いてくる。
妙な涼しさに首を傾げた瞬間、眼前の街並みから大きな爆発が巻き起こった。
「えっ……?」
「何っ!?」
遅れて襲いかかる衝撃波。耳を澄ませると、悲鳴も聞こえてきた。
現場が近い。爆発を目にした生徒たちは一時気に取られ、直後に叫び声を上げて逃げ出そうとする。
しかし宙に浮いている中で、即座に動くことは叶わない。
「きゃあぁっ!!」
「落ち着いて下さい! 地上に下りたら、絨毯は置いて校舎に逃げて!」
「……は、はいっ!」
考えるよりも先に、足が動いてしまう。隣とぶつかり、よろけて転んでしまう生徒たち。
阿鼻叫喚の場。見かねたキャロルが飛び出し、先頭に立って右手を上げた。
「出入口はここです。慌てないで、順番に進んでください!」
体勢を整え、深呼吸をして現場の様子を見つめる。
轟音は一度だけ。しかし小規模な爆発は断続的に続き、悲鳴は尚も止まない。
事故とは到底思えない。人為的に起きた爆発と破壊……ストーリア。
「……まさか、呪術師!?」
弾かれるように顔を上げた。隣で蹲っていたうミィが、驚きで目を丸くする。
放っておけば、魔法学校にも被害が及ぶかもしれない。
ストーリアが入り込めば、外に出られないイリーナは、真っ先に。
「どうしたの、ミシェルさん?」
「グレオ……これ以上、好きにはさせない!」
絨毯を下りてその場を飛び出し、杖を頭上に掲げる。リボンの付いた箒が、自身の手元に現れた。
すかさず跨る。ラミィたちが逃げるのとは、反対の方角。
迷っている暇は無い。キャロルが駆け寄るよりも先に、魔力を込めて浮き上がらせた。
「ミシェルさん!? 待って下さい、今街に行っては……」
「それでも、呪術師は待ちませんよ。誰もやらないなら、私がやります!」
「危険です、たった一人では!」
振り向きたくなる衝動、しかし、躊躇ってはいけないと自身を奮い立たせる。
今度こそ守らなければ。この身が滅んでも、大切な人を。
心の中で、駆け出す合図。爆発が起きた場所に目標を定め、弾丸のように箒で飛び上がった。
「ミシェルさんっ!!」
一目散に逃げようとする住人たちに、壊れた瓦礫の雨が降り注ぐ。
「ドウシテ……ドウシテッ!」
奇怪な声を出しながら、空を飛ぶのは巨大な蜂の姿をしたストーリア。
四方八方に飛び上がり、尾に付いた鋭い針を射出する。
建物が壊れ、逃げ切れなかった人間が巻き込まれていく。
「いやぁぁぁっ!!」
「良いぜエ、大漁だ、どんどんやっちまえ!」
「ウ、アアア!」
グレオの指示に応じ、ストーリアが羽を開いて身震いし、力を溜め込む。
黄緑色をした、毒液の射出。孤を描いて地面に衝突すると、煙を出しながら溶解していく。
悲鳴を上げながら逃げ惑う。しかし、何発かは群衆の中心を捉えた。
「あ、あああっ……!」
男性が悶え苦しみながら、その場に倒れ込む。抵抗する間も無く、その身は骨さえ残らずに腐り果てた。
「ドウシテ、ガル、ド」
「アイツはもう死んだってのに、滑稽なこったな」
うわ言のような、ストーリアの鳴き声。自我が吹き飛んだ彼女は、ただ生前に強く念じた言葉を、意味も無く発するのみ。
街を壊しても、人を殺しても、一度死んだ命は戻ってこないというのに。
ただ、魔法使いを倒すために利用するのなら、これ以上に都合の良い駒は無かった。
「ワタ、シハ……」
羽をゆら、ゆらと震わせる。音も無く、黄金色の鱗粉がばら撒かれた。
その場から逃げようとする人々の足取りに追い付き、その場一帯を包み込む。瞬く間に、咳き込む声が聞こえてきた。
鱗粉はそのまま意識を削り、抵抗する間も与えずに一帯を眠らせる。
「悲しみが力を増幅させてンのか。ありがたいこった」
白い布を口元に巻き、倒れ伏した人間たちの肩を乱暴に叩いていく。
起きる気配は無い。静かな寝息を立てながら、まるで死んだような深い眠りを曝け出していた。
右の口角だけを上げながら、仄かに黄色く染まった空を見上げる。
「そのまま、楽に死なせてやるよ」
「ァ、ァ……」
何よりも狙いやすくなった大きな的に、ストーリアの巨体が忍び寄る。
耳を塞ぎたくなるような羽音が響く。無数の毒液を分泌すべく、再度力を溜め込み始めた。
「待つのです。グレオ・ソルディネ」
しかし、頭上から飛び込んできた声に攻撃を阻まれる。
「あん……?」
辺りを見回す。東の方角、建物の上に、見覚えのある黒い影が蠢いていた。
呪術師の長にして、ローブで身を隠す得体の知れない存在、ジョン・オウタム。
人を十人並べたくらいの高さはあるその屋上から、軽やかに地上へと降り立った。
「兄貴ィ、良いトコなのに邪魔すんなよ」
「殺し過ぎなのです。騒ぎになれば、騎士団が討伐に来てしまうのです」
「んなことにいちいちビビッて、呪術師が務まるかっての」
眠る人々の前に立ち塞がる。口元は相変わらず、薄暗く見えない。
いずれ到来する決戦の時まで、魔法使いとの戦いは最小限に留める。その掟を守らなかったリューズは、謹慎を言い渡された。
しかし、それは自分の目指す道と全く同じとは言い難い。
「オレにはオレの殺しがある。シナリオだか何だか知らねェが、深入りされんのは癪に障るんだよ」
「私の指示には従えないと、そう言うのですか?」
静寂な世界に、漂う緊張。手元にある呪術教典を、無意識に握りしめる。
一言の軽口は、償い切れない制裁に。唾を飲み込みながら、首を左右に軽く振った。
「……最後の筋書きは合わせてやるよ。まあ見てな」
無用な衝突は望まない。利用できるものは、最後まで使い潰す。
何度か小さく頷くと、ジョンは何歩か後ろに下がり、こちらに道を譲った。
ほんの少し気が緩み、足を踏み出そうとしたその瞬間、不意に何かの気配を感じて飛び退いた。
「おわっ……!」
先程まで自分が立っていた場所を光弾が掠め、そのままの勢いで壁を抉る。
威嚇射撃。弾かれるように振り向くと、暗がりから複数の人影が迫っていた。
「何だとッ!?」
「チッ、噂をすれば……」
石畳の道に、足音と金属が擦れる音が混じり合い、響く。
人数は優に二十名を超える。堅牢な鎧を身に纏い、寸分違わぬ動きを見せる騎士団の戦士たち。
鋭い魔剣の切っ先が、一斉にこちらに向けられた。
「ディロアマ騎士団だ! 魔法使いに害を為す呪術師は、一体残らず捕縛する!」
一歩でも動けば、両手で数え切れない程の術が襲いかかってくる。
片手を上げる素振りを見せ、もう片方の手で呪術教典を開いた。
分かっていたこと。今更、引き下がるわけにはいかない。
「やれるモンなら……やってみやがれ!」
後方で待ち構えていたストーリアが前衛に躍り出て、尾から針を射出させる。
攻撃の合図。それと同時に術を始動させ、黒い竜巻を一団の中心に向けて解き放つ。
「防御陣形!」
「セット・ウォード!」
しかし衝突の寸前、騎士団の前衛が防魔法を放った。
陣営を覆い隠す、薄い膜。それは何重にも積み重なり、攻撃から身を守る結界へと姿を変えていく。
襲い来る針を正面から折り、競り合いの末に竜巻を搔き消してしまった。
「トライ・レ・ムルバ!」
魔石が砕け、宙を舞う。込められた魔力は、魔剣に移し替えられて光を放つ。
間を開けず、剣から土・氷・炎の合体魔法が放たれた。
「インヘリット・クロウ……!」
カラスの翼で身体を覆い、身構えた。しかし受け流すことは叶わず、後方へと弾き飛ばされる。
衝撃。壁に勢い良く叩き付けられ、僅かに亀裂が入った。
「ぐわァァッ!」
鈍い痛みが襲いかかる。受け身を取ることができず、硬い地表に倒れ伏した。
力を得たはずなのに、また、魔法使いに後れを取ってしまうなんて。
拳を握り締め、身体を震わせながら立ち上がった。しかし、前に進もうとすると、眩がして体勢を崩す。
「幾度と無く繰り返す蛮行……見過ごすわけにはいかんぞ!」
張り上げられた声と共に、騎士団が前へと進み始める。
比べ物にならない物量と、徐々に迫る威圧感。
早くストーリアを呼び寄せなければ。手を上げかけた、その時。
一歩前を進んでいた騎士の腕をジョンが掴み、その足取りを止めた。
「本当に……手間のかかる駒なのです」
視覚上は軽く、掴んでいるだけ。しかし、その腕が小刻みに震える。
騎士は顔を上げ、彼と視線を合わせる。直後、その額に裏拳が入った。
「ん、いぁぁっ!?」
生身での一撃。しかし鎧は粉砕され、血を吐いた騎士が吹き飛ばされて倒れる。
意識を失い、脱力。生死は、こちらからでは伺えない。
「っ……!?」
驚いた仲間たちが視線を向ける。しかし、その一瞬でジョンは懐へ飛び込んだ。
「はあっ!」
左右の足で交互に標的を蹴り飛ばす。胸部、腹部に命中し、二人が同時に吹き飛ぶ。
そして、正面の相手に狙いを定め、持っていた剣を叩き落とした。
「なっ……!」
上段、下段、両肩、胸部。弾丸のような速さで殴打し、攻撃を受けた鎧が生物のように脈打つ。
回し蹴りで相手を横転させ、最後にかかと落とし。
粉砕音。地面に亀裂が入り、堅牢な鎧は原形を留めずに大破した。
「き、貴様っ……?」
ほんの一瞬、その場にいた全員の表情と思考が凍り付く。
人ならざる、異物と対峙するような視線。反撃に転ずる隙も無く、二十は下らない騎士たちは統率を捨てて散らばり、距離を取った。
「な……何じゃこりゃァ」
痛みで動けなくなっていたことも、加勢することも忘れ、その場に立ち尽くす。
「あまり争いは好まないのですが、致し方無いのです」
ジョンは凹んだ鎧から足を離した。後退る一団を追いかけるように、一歩、また一歩と歩み寄る。
武器も何も有していない。気配のみでその場を圧倒し、一瞥。
「ここからは、私が相手になるのです」
準備運動は済ませたとばかりに、ジョンは軽く身構える。
不動だった主が、蹂躙のために動き出す。それは初めて、目の当たりにする光景だった。
続く




