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ウィッチ・オブ・アクア  作者: 夢前 美蕾
第1章 魔法学校1年生編
17/30

第17話 見えない心、ゆえに乖離Ⅰ

 国民のおよそ五割が魔法の力に覚醒し、魔道具と杖によって新たな文明が誕生した国、ディロアマ。

 魔法学校に通う魔女見習いのイリーナとミシェルは。志を同じくした同級生と学びを深めていく傍ら、魔法文化の根絶を目論む呪術師と日々戦っていた。

 そして入学から数ヶ月経ち、最初は不慣れだった魔法も徐々に使いこなせるようになった彼女らは、繁華街ボストレンで発生した行方不明事件の調査を行うこととなる。

「なるほど、こいつは中々面白いことになりそうだな……」

 しかし呪術師の罠にはめられ、窮地に追い込まれたイリーナを庇い、魔法使いのアセビ・マルティが死亡してしまう。

 絶望の淵に叩き込まれた彼女が耳にしたのは、呪術師が生み出した怪物……ストーリアの正体が人間であるという衝撃的な事実だった。

「無知とは時に罪なものだね、イリーナ・マーヴェリ」

「そ、んな……」

 戦場に突如として乱入した魔女狩りの魔女、シルビア・エンゲルスによって窮地を脱したイリーナ。しかし、呪術師リューズに告げられた事実はいつまでも彼女の心に残り続けるのだった。

「この戦いは魔法使いと呪術師によるものじゃない。哀れな魔法使いと、復讐に燃える人間の殺し合いなのさ」


ボストレンでの戦いから数日後。まるで何事も無かったかのように、魔法学校の一日は始まっていく。

「……イリーナ、ねえイリーナ、起きてよ」

 こちらを呼ぶ声が聞こえる。初めてボストレンの地に降り立った時も、ミシェルに起こして貰っただろうか。

「ちょっとイリーナ、早く起きないと!」

「……ふぇ?」

 靄のようにぼやけていた視界が、次第に明確な形を作る。

 慌てた顔でこちらを揺り動かすミシェルが目に入り、イリーナはようやく目を覚ますことができた。

「あれ……ちょっと待って、授業は!?」

 昨夜いつ寝てしまったかも覚えていない。ここ最近は気を付けていたのに、また寝坊をしてしまった。

「クリスも先に行ってるし、もう始まっちゃうよ!」

「えっ、どうして早く起こしてくれなかったのさ!?」

「もう何回も呼んだってばー!」

 ベッドから飛び上がったイリーナは、慌てて制服に着替えながら鞄の中身を整理する。

 本当に、どうして自分は寝坊してしまったのだろう。いつもなら彼女が部屋に来てくれて、それで……

「アセビさんはどうしたの、いつもなら来てくれるのに?」

 うっかり、何も考えずにその名前を口にしてしまった。

 教本を持っていた手が止まる。やってしまったと思い、イリーナはゆっくりとミシェルの方を振り返る。

 一度出してしまった言葉は、後悔しても取返しが付かない。

「あっ……」

「イリーナ、アセビさんはもう……」

 あの時の光景が思い起こされる。思い出してはいけない、少しでも口に出してはいけない、はずなのに。

 イリーナは俯き……そして、自分自身に嘘をついた。

「そう……だったね。ごめんなさい、変なこと言っちゃって」

 ミシェルもすぐには口を開けなかった。山彦の如く頷いた後、付け足すように優しい口調で語りかける。

「ううん。私だってまだ、あまり実感が湧かないから」

 アセビがいないまま時間が進んでいく。手が届かなかった悲しみさえ、いつか遠い過去の出来事になってしまう。

 穏やかな青空に、ほんの小さな沁みが付いたように見えた。

「……行こっか。今から急げば、何とか間に合うかも」


 何かが明確に抜け落ちた、周りよりも遅れている感覚。一度それに襲われてしまうと、心の中にずっしりとした重みが残ってしまう。

「今日は箒を使った実技の授業を行っていきます。既に使った経験のある方もいるでしょうが、使い方を知らない方はこれから覚えていきましょう」

 大勢の生徒を校舎の外に集め、前に立って魔法の箒を抱える先生は……キャロル・リビヤ。

 諸事情により、この数日学校に顔を見せないエルアの代わりに、彼女が教鞭をとっていた。

「箒を飛ばす行為は風魔法の応用です。しかし、普通なら属性魔法の使えない生徒や、風以外の魔法を使う生徒には扱えません。では、風魔法の使えない生徒が箒を操作するためにはどのようにすれば良いのでしょうか?」

 キャロルは生徒たちに視線を向ける。分かっている顔もあれば、渋い表情をしながら首を傾げる者もいる。

「では……イリーナさん」

「……は、あっ、え?」

 そして彼女は、上の空の表情で佇んていたイリーナヴェリに視線を回して指名した。

 しばらくの間、辺り一帯が静まり返る。案の定、返答はしばらく頭の中から出てこない。

「ごめんなさい……分からないです」

最も驚いていたのはイリーナ自身だった。いつもは元気に動くはずの口も、太陽を思わせる朗らかな声も、凍り付いたようにまともな動きができなくなっている。

「そうですか……ミシェルさん、代わりにお願いできる?」

「はい、分かりました」

 代わりにミシェルが前に出る。深呼吸の後、ほんの一瞬だけこちらに視線を向けて笑顔を見せた。

「箒には風の魔石が内蔵されています。使用者が風魔法の使い手でなくても、正確な魔力を込めればそれが動力源になるような工夫が為されています」

 僅かな間。ミシェルが軽く頷いて説明を終えると、優しく微笑むキャロルが快く手を叩いた。

「流石ですね……その通りです。箒をはじめとした魔道具の多くは魔石が埋め込まれているので、高度な属性魔法を、全ての魔法使いが扱えるような仕組みとなっています」

 周囲に風が吹き荒れる。生徒たちの持つ箒がなびく中、彼女の声は透き通るようによく響いている。

 それでは、と話を切り替えたキャロルは、広がる青空と輝く太陽に視線を移した。

「実践をしてみましょう。私と共に、この校舎をゆっくり一周するように飛んで下さい……セット・ウォ―ド!」

 頭上に向けて星に似た明かりが舞う。光が広がると、やがて校舎全体が薄い膜に覆われた。

 生徒たちにどよめきが走ると、膜は一瞬のうちに消滅する。

「これは……!?」

「結界ですよ。盾よりは微弱ですが、もし皆さんが箒の操作を誤った場合、逸脱を防ぐことができます」

 視界に映っていなくとも、上空には結界が残っている。

 準備は整ったと言わんばかりに、箒に跨ったキャロルは僅かに浮上を始めた。

「最初はこのように、弱い魔力でいきましょう。経験のある方はゆっくり飛び、必ずみんなをサポートするように」

 生徒たちが互いに顔を見合わせる。はぐれないように隣り合わせで飛んだり、友人同士で手を繋ぎながら飛んだりと、各々のやり方は分かれていた。

「授業では初めての箒だね。油断せずに行こう、イリーナ」

「……う、うん、そうだね」

 箒を構えるミシェルが声をかける。扱いは慣れているはずなのに、イリーナの受け答えははっきりしていなかった。

 見上げる空が何故か遠い。自分はいったいどうやって、この広い世界を飛び回っていたのだろう?

「……それでは皆さん、魔力を込めて!」

「ウインド・レ・ムルバっ!」

 確かな踏み出しができないまま、意味も持たずに浮遊する。


 先生であるキャロルが先陣を切り、彼女が描いた軌跡に沿って一同が空を飛ぶ。

「魔力が乱れていると感じたら迷わず休憩して下さい。それと、あまり高い所は飛ばないで!」

 冷たい風が直に当たる。前列の方からは、初めての感覚にはしゃぐような声も聞こえてきた。

 ただ、イリーナの強張った表情はそれでも緩まなかった。

「みんな意外と上手だね。私たちもちょっとだけ、速度上げちゃおうか?」

 ミシェルの声も届かない。耳に入っても、それを噛み砕いて答えを返せるような余裕が無い。

「……イリーナ?」

「ご、ごめん。何だかちょっと、箒の調子が悪い、のかも」

 初めて使った時に全身で感じた、大空を駆け上がる鳥のような雄大で輝きに満ちたイメージ。

 でも今は全く湧いてこない。自分がどんな魔法を使って、何をしたいのかさえ全く分からない。

 景色が崩れていく。速度が落ち、体勢も不安定になる。

「立て直さなくちゃ……立て直さなくちゃ。みんなに置いて行かれる。また私だけ取り残される。どうして速度が出ないの、どうして思うように動かないの……どうして?」

 焦れば焦る程頭の中のイメージが壊れてしまう。イメージが壊れると、魔法がさらに不安定になる。

「ちょっと大丈夫? 一旦下に降りて、休憩したら?」

 このままではまずい。異変に気付いたミシェルは、前列にいるキャロルを呼ぼうと息を吸い込む。

 だが、先生が来るよりも彼女が折れる方が一歩早かった。

「……あっ」

 全身の強張っていた力が不意に抜け、弱まりつつも残っていた浮力が完全に消失する。

靄のかかっていた視界が暗転し、叫び声を上げる前に思考が凍り付くように止まっていく。

 意識を失ったイリーナは、強引にも虚空に投げ出された。


「イリーナっ!」

 周りがどよめく、キャロルが駆け寄る、イリーナが地面に落ちる、その全てよりも前に。

 ミシェルは両手を伸ばし、彼女の身体を受け止めた。

「イリーナ……大丈夫、イリーナ!?」

 揺さぶっても返事は無い。呼吸はある、それでも明確に力の抜けた重みが感じられる。

「大丈夫ですか、怪我は!?」

「私は大丈夫です……でも、イリーナが!」

 どうしよう、と声に出す前にキャロルがその場に加わる。

 イリーナの額と、そして首に触れ、魔力を込めることで身体の異常を素早く確かめる。

「身体的な異常は見当たりません。しかし、医務室で診てもらった方が良いかもしれませんね」

 表情には困惑があった。目立った外傷も異常も無いのに、目を瞑った彼女は現状起きる気配が無い。

 自分が動かなければ。意を決したミシェルが立ち上がった。

「……私が連れて行きます。この子にはずっと、無理ばかりさせちゃったから」

「いえ。非常時ですし、何もミシェルさんにそこまで……」

 イリーナはずっと悲鳴を上げていた。目には見えなくて、聞こえなくても、ずっと周りに訴えかけて。

 同じ部屋にいて、いつも一緒にいたのに気付けなかった。

 彼女を背負ったミシェルは、後悔と自責の念を込めてキャロルの方を振り返る。

「私がやります。これは私が、やるべきことだから」

 苦しみはしない、足も止めない。ただその寂しい背中は、触れることさえ躊躇するような悲しみがあった。


 深く薄暗い水の中から、じんわりと呼び戻される感覚。

「あっ……う」

 数秒しか経っていない気もするし、数時間たった気もする。

 知らない匂い、知らない感覚に包まれながら、イリーナは真っ白なベッドで目を覚ました。

「あれ、わたし……?」

「医務室だよ。すぐ動いたら危ないから、じっとして」

 空は黄金色に染まっていた。授業は既に終わり、生徒たちも寮や他の場所に引き上げている頃だろう。

 人の目から切り離され、心配そうにこちらを見つめているミシェルと、二人だけの静かな空間。

「私、確か向こうの授業で箒を……」

「操作してる時に、魔力切れの症状が出て倒れちゃったの。あの時は本当にビックリしたんだから」

「えっ、魔力切れ?」

 他の大きな魔法なんて、ここ最近はほぼ使っていなかった。

 戦いが無かったから。それにもし使えば、あの時の恐怖が胸の底から込み上げてきそうになるから……

「……正確には、イリーナの身体が魔力を使うことを拒んだみたい。魔法は使う人のイメージが大事だから、想像することを放棄すれば、途端にその力を失ってしまうの」

 心の声を先読みするように、ミシェルが険しさと悲しみの入り混じった表情で告げる。

「そうなんだ……やっぱり、魔法は嘘をつかないんだね」

「良い意味でも、悪い意味でもね。今まで凄い魔法を使えた人でも、何かの拍子にいきなり使えなくなることも……あるみたいだし」

 その言葉には少し含みがあった。どこまで言えば良くて、どこまで言えば相手を傷付けないか。その境界線を叩いて渡っているような。

「……私も見たことがあるんだ。そういう人、以前にね」

 そこでふと会話が止まり、イリーナは弱々しく掲げられた自分の手に視線を移した。

 悲しむ姿を見せられない、いつもの自分に戻らないと。

 そう信じて自身を奮い立たせていたのに、却って自身の逃げ道を塞いで追い込んでしまった。

「……ねえミシェル。私の本当の気持ち、伝えても良い?」

「もちろん……寧ろ、私に教えてくれないかな?」

 こんなことを言えば、嫌な顔をされるのは分かっている。どうして、と怪訝な顔をされるのも分かっている。

 それでも伝えたかった。ただの自己満足だとしても、私は。

「やっぱり私、アセビさんに会いたい」

 答えはすぐには返ってこない。咎められるのが怖くて、イリーナは僅かに視線を下に逸らした。

 だが、ミシェルはあくまでも穏やかな声で念を押す。

「会おうとしたら、イリーナが辛くなるかもしれないよ?」

 そうかもしれない、と答えかけた。だが深く息を吸い込んで、彼女はまた別の言葉を押し出す。

「それでも大丈夫だよ。大事なことを忘れたまま、進んでいく方が辛いから」

 イリーナは頷き、深く被っていた布団を捲り始める。

 まだ身体が本調子で無くても、覚悟ができていなくても、今この瞬間しか有り得ないような気がした。

「……分かった」


 学校の門を出て、細い道を真っ直ぐ歩いた後に、辺りの空気が明確に変わる空間があった。

「……おっと」

「大丈夫? ゆっくりで良いからね、ほら」

 ミシェルに肩を半分預け、イリーナが足を運んだのは魔法学校の管理する墓地だった。

 最後の瞬間まで天寿を全うした先代の教師、不慮の事故で亡くなった生徒。そして、呪術師との戦いで命を落とした生徒もまた、この墓で眠っている。

「……あった。ここが、アセビさんのだよ」

 整然と並ぶ墓石の中で、一際新しいものに視線を向ける。

 刻まれた名は、アセビ・マルティ。先に訪れた者がいたのか、そこには綺麗な花束が添えられている。

「不思議だね。ほんの少し目を瞑れば、あの人の声が聞こえてきそうな気がして」

「私も。まだ信じられないし、信じたくない……」

 二人は姿勢を下げ、イリーナが花を供える。額に数滴の汗が滲む中、掠れた声で目の前にいるアセビに語りかける。

「……アセビさんが、私を守ってくれた時のこと。今でもはっきりと覚えています。ちゃんと戦えなくてごめんなさい。自分の弱さから逃げて、ごめんなさい」

 彼女はイリーナを強いと言った。その理由は、イリーナ自身にも未だに分からない。

 クリスに助けられ、エルア先生に引っ張られ、アセビに救われた自分は、誰よりも弱い存在なのだと思っていた。

 だから見つけていきたい。こんな自分でも、胸を張って強くなれる方法が残っているのなら。

「私、もっともっと強くなります。どうすれば良いかは分からないけど……自分の弱さにも、向き合えるように」

 彼女はふとミシェルの方を振り返った。自分一人の道じゃない。ミシェルもいて、クリスもいて、そしてアセビがいるからこそ、今の自分があるのだから。

「そしていつか、みんなにも笑顔を届けられるように……」

 目を瞑り、俯くと、辺り一帯に静寂の波が轟いた。


「……よし、じゃあ学校に戻ろうか」

 しばらく墓石と視線を交わすと、不思議と重くなっていた腰が幾分軽くなったような気がする。

 以前のような魔法は使えなくても、その一歩は踏み出せた。

「大丈夫、イリーナ?」

「どうだろうね……ごめん、まだ分かんないや」

 大丈夫、と無邪気な笑顔で告げることはできない。それでもミシェルの肩から手を離し、彼女は自力で立ち上がる。

「でも、もう一人で歩けそ……」

 だが歩みを進めようとしたその瞬間、ふと誰かの気配を感じ取ったイリーナは顔を上げた。

 隣にいる彼女のものじゃない。もっと別の、異様な何かが。

「……えっ?」

 黒いフードの人物。背丈はイリーナたちと同じか、向こうが少し低く感じるぐらいだろうか。誰かを連れている様子も無く、何も身に付けずに一人でゆらゆらと歩いていく。

「……」

「な、何?」

 二人は道の途中ですれ違う。互いの視線は最後まで全く合わず、謎の存在はアセビの墓がある方に……

「どうしたの?」

「あっ……いや、あっちの方に」

 ミシェルの声で再び現実に戻された。慌てて振り返っても、謎の存在は跡形も無く消え失せている。

「誰か、いた気がしたんだけどなあ」

「えっ……もしかして、幽霊でも見たの?」

「そう、かもしれないし、そうじゃないかもしれない」

 言葉にすると、イリーナ自身が一番怖くなってしまった。

 背筋にふと寒気が走る。でも一瞬だったから、本当にあれは見間違いだったのかもしれない。

「……ううん、私の気のせいだよ、きっと」

 嘘か本当かは断言できない。だが彼女の墓と、そして周囲を見比べているうちに、ノイズのような黒いフードはは徐々にその姿を消していった。

「気のせい、だよね……?」


 数日前に起きた事件により、以前よりも一際人通りが少なくなったボストレンの中心地。

そんな中、騒動の主となったリューズは、鼻歌交じりに自身の経営するバーで開店の準備を行っていた。

「おっと、ここにも埃が溜まっているな……」

 棚の隅まで汚れを拭きとり、抜け目無く看板を磨くのにはとある理由があった。

 今日は週に一度、グレオたち呪術師で会合を行う特別な日。

「綺麗にしておかなければ、あの方の気を損ねてしまう」

 新たなストーリアの顕現、そして魔法使い一人の殺害。

 目的であったイリーナたちを倒すことは叶わなかったものの、この戦いは魔法使いと呪術師との戦局に決して小さくない変化をもたらしたはず。

「楽しみだな……ご報告が」

 掃除を終え、散らかった店内を黙々と片付ける。すると来客の影がドアを叩く音が聞こえてきた。

「……」

「はい、今向かいますので」

 クローズドの看板が見えなかったのか。首を傾げながらも、リューズは作業を切り上げて駆け足で向かった。

「すみませんね、只今準備中でして……」

 しかし軽く流そうとした彼の表情は、ドアを開けると空気が変わったように強張ってしまう。

「私は客ではないのです……少々、お時間よろしいですか?」

 黒いフードを被った、リューズよりも低い背丈の人物。

 青年のような朗らかさと淡々とした雰囲気が両立した声は、彼の頭を下げさせるのに十分な威圧感を孕んでいた。

「じ、ジョン様……!?」

 ドアの前に立っていたのはリューズの上司……呪術師の首領を務めているジョン・オウタムその人だった。


「私は酒類が飲めない身なので、水で結構なのです」

 ボストレンは繁華街という側面からか、日が昇っている時間帯は人通りもまばらで風の音しか聞こえてこない。

 周りの目から切り離された世界で、表情すら伺えない者とテーブルを囲むのにはそれなりの抵抗があった。

「いつもより少々、お早い到着ですね」

「……先日生み出したストーリアの件について、貴方にお聞きしたいことがあって来たのです」

 茶葉を入れた紅茶のポッドが湯気を放つ、仄かに暖かい香りに当てられ、リューズの額に一筋の汗が零れ落ちた。

「申し訳ありません。魔女たちを取り逃がしてしまい」

「そこではありません……私が憂いているのは、アセビなる魔法使いを殺害したことなのです」

 憂いている。それは魔法使いの死について、ジョンが喜んでいるのではなく苛立っている証拠だった。

「観察せよと再三忠告したはずなのです。それなのに、命令に無いことを実行した理由は何なのですか?」

 またか、とリューズは頭を抱える。今の今まで心を躍らせていたのに。天と地が反転したような気分だった。

 息をすっと吸い込んで、迫る威圧に負けんと声を張る。

「確かに、少し行き過ぎた行為だったのかもしれません。しかし長期的な目で見れば、強大な魔法使いとなりうる人物を始末したことは後々の戦局に響くのではありませんか?」

 言葉は返ってこない。見えない相手の瞳を強く意識しながら、リューズはさらに力弁を続ける。

「イリーナ・マーヴェリはこの戦いで大きな心の傷を負いました。彼女らが戦線から離脱すれば、僕たち呪術師の計画もより円滑に……」

 だが次の瞬間、リューズの表情が大きく凍り付いた。


 立ち上がったジョンが、半ば彼を押し倒すような形で壁に張り手を放ったからだった。

「リューズ・ファスタ。貴方のふざけた御伽噺は、耳を傾けるに値しないのです」

「なあっ……!?」

 細い腕、力が込められているようにも見えない。術を使った気配すら無いのに、壁に穴が開いてめり込んでいた。

 リューズが遅れて飛び退くと、彼はゆっくりと手を離す。

「貴方が勝手にしたこと一つで、呪術の運命が大きく揺らいでしまう……私に言われてもいないことを、実行に移すのはやめるのです」

 紅茶の水面がぐらり、ぐらりと揺れた。はっきりと映っていたはずのリューズの姿が、少しずつぼやけ始める。

「もっとも、件の罪で捕縛されたいのであれば話は別ですが」

「は……はい、申し訳ありません」

 我に返ったのか、それとも半分演技だったのか、ジョンが壁を優しく撫でる。穴は想像よりもずっと深く、もう一度殴れば店が崩れてしまうようにも思えた。

「呪術師としての活動はメラトたちに任せるのです。貴方は行ったことを反省して、頭を冷やすことを勧めるのです」

 ほんの少し啜っただけのカップをテーブルに置き、ジョンは徐に席を立った。

 まだ恐怖が残りながらも、リューズは掠れ声で呼び止める。

「お待ち下さい、メラトよりも私の方が貴方様のお役に……」

「役に立たなかったから、このような事態が起きたのでは?」

 彼は足を止めて振り返った。顔は見えないはずなのに、その視線がくどいと告げているような気がした。

「置かれた立場を自覚するのです。貴方は自信過剰が過ぎる」

 ドアがゆっくりと閉まる。リューズにはもう、ジョンの足取りを止めることは叶わなかった。

 残ったのは、壁にぽっかり穴が開いた荒らされた店のみ。

「ジョン、様……」

 悔しさと弱さに打ちひしがれ、リューズは握り締めた指に力を込めた。


 バーのドアを開けると、まるで待ち構えていたかのように、一人の女性がジョンの前に姿を現した。

「おや、わざわざこちらから出向く手間が省けたのです」

 グレオとリューズ、そしてもう一人によって構成される、呪術師のうち最後のメンバー。

 黒い本を抱えた女性が、細い目でこちらを見つめていた。

「……メラト」

「そろそろお呼びがかかると思っていたわ、ジョンさん」

 メラトと呼ばれた女性は、僅かに好奇心の混じった視線でジョンに頭を下げた。

「あの男、リューズは失敗したの?」

「任務はこなしましたが、ルール違反を犯したのです」

「へえ……ルール違反ね」

 伺うような声色と表情。彼女のそれに気付いているからこそ、ジョンは敢えて優しい口調で黒い本を指差す。

 分かっているとは思いますが、と頷きながら念を押した。

「私たちの目的は、その本に載っている全てのストーリアをこの世に誕生させることなのです。そうすればその本は完成し、この世界は呪術の楽園となる……」

 本には数十体の怪物が描かれている。一度召喚したストーリアは、そのエネルギーが本に蓄積されている。

 しかし、理想を叶えるには依然程遠いことを指し示すように、本の完成には半数以上の怪物が残されていた。

「そして、三種の魔神器の収集も併せて達成すれば、不確定要素の排除にも繋がるのです」

「……分かっているわよ。つまり、現状それ以外のイレギュラーは必要無いってことでしょ?」

 互いに一歩も退かない言葉の交換。先程出たバーの方を眺めながら、ジョンはわざと彼に聞こえるように告げる。

「ええ……リューズも理解していました、口だけはね」

 貴方は口だけか、それとも真の意味で理解しているのか。

 メラトの本を握る力が僅かに強くなった。この世界の均衡、力関係を崩す革命の重み。彼女だけの仕事では無いものの、その一端は確実に担っている。

「じゃあ、私は実行してみせるわ。まあ待っていなさい」

 責任感を覆い隠すように、彼女は意識して表情を緩める。

「……ジョンさんの考えを汲めば、好きにして良いの?」

「貴方の手法に逐一指示は出さないのです。ですが、確実に」

 ジョンもそのように言い残して踵を返し、互いに間反対の方向へと足を進めていった。


 続く

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