第13話 消えた笑顔
その黒い腕を見た瞬間、私は全身が総毛立つのを感じた。
無数の小さな穴とか、大量の虫とか、そういった物を見た時と似たような感覚。
説明が難しいけど、とにかく気持ちが悪い。
その腕から、強引に逃げようと藻掻いてみるけど、逃げられる気がしない。
そうこうしていると、次から次に現れた同じ黒い腕が、私の腕や肩、そして腰にまで触れ始める。
ぞわぞわとした感触が、触れられた箇所に広がって、私は思わず身をよじった。
「やめて!! 放して!!」
そう叫んでみるけど、意味なんてなさそう。
全力で腕を引き下ろそうとしても、身体に触れる腕から逃げようとしても、背後に蹴りをいれてみても、何の意味もない。
そうやって失敗する度に、私はジワジワと焦りを覚え始めた。
それと同じだけ、恐怖も芽生え始める。
何かがおかしい。
初めの内は、そんな漠然とした感覚だった。
だけど、今の私はその感覚の答えに気づきつつある。
人じゃない。
この黒い腕は、人間のそれじゃない。
黒い見た目とか、気色の悪さとか、そういうコトじゃなくて、そもそも腕しかないんだ。
それに気が付いてしまった私は、身体が強張って行くのが分かった。
膝が震えて、今にも崩れ落ちてしまいそう。
だけど、黒い手が私の腕を持ち上げたまま固定してるから、倒れることは無い。
だけどそれだけ。
私は決して、この腕から逃げることはできないんだ。
出来るのはただ、恐怖に震えることくらい。
これからどうなるのかな?
花楓はどうなった?
こうなったのは山田のせい?
もしかして、このまま死んじゃうの?
考えたくないけど、そんな悪い想像ばっかりが、私の頭の中を埋め尽くしてく。
そうだ、花楓は?
花楓はどうなったの?
彼女なら、この状況を打開できる方法を知ってるんじゃ?
完全に諦めかけていた私は そんな微かな希望に気がついて咄嗟に背後を盗み見る。
その瞬間、私の視界を埋め尽くしたのは、笑顔の山田の顔だった。
「え?」
「……」
小さな声が漏れる。
私を見つめてくる山田の表情には、笑顔が貼りつけられたままだ。
眉一つ、頬をピクリとも動かさない彼は、ゆっくりと私の右肩に手を掛けると、強引に私の身体を回転させた。
胸と頬を扉に押さえつけられていた体勢から、背中を扉に預けるような体勢に向き直った形。
真正面から、私の顔を見つめて来る山田。
そんな彼を見つめ返しながら、唇をキュッと結んだ私に、彼が声を掛けてくる。
「遊ぼう」
「……ぇ?」
抑揚の全くない彼の言葉に、私は小さな声しか返せない。
下手に口を開けば、震える顎がカチカチと音を鳴らしてしまいそうで、私は歯を強く食いしばった。
そんな私に、山田が再び声を掛けてくる。
「遊ぼう」
真っ直ぐに私の目を覗き込んでくる彼の目。
そんな目から逃れるために少し下に視線を落とした私は、床に横たわっている部員たちの姿を見てしまう。
例の真っ黒な手が、部員たちの四肢や口元に掴みかかってる。
その様子はまるで、彼らの身体を強引に操っているように見えた。
『人を操りたいって願望』
花楓から聞いたそんな話を思い出した私が、思わず息を呑んだ瞬間。
私の耳を掠めるように、山田が腕を扉に突き立てた。
ダンッという鈍い音が部室中に響き渡る。
あまりに突然の出来事に、私が身を縮めていると、カチカチと歯を鳴らし始めた山田が、もう一度告げた。
「遊ぼう」
「……山田」
「遊ぼう」
「わ、分かった、分かったから」
「遊ぼう」
「何して遊ぶ? 付き合うから、さ、だから、放してくれる?」
「遊ぼう」
声の震えを必死に抑えながら、目の前の山田に声を掛けてみるけど、帰って来るのは同じ言葉。
話が通じてるとは、到底思えない。
恐怖よりも困惑が勝り始めた私は、何か抜け出す糸口が無いか視線を巡らせてみた。
だけど、見つけることができたのは絶望だけ。
私を拘束して、そして部員達を操っている黒い腕は、山田の背中から伸び出てきている。
そして、そんな黒い腕に掴まれた花楓が、山田の背後、部室の一番奥に磔にされてた。
「嘘……」
意識が無いのか、ぐったりと項垂れてる花楓の姿を見て、私は小さく呟く。
すると、私の視線に気が付いたらしい山田が、笑顔を浮かべたまま花楓の方を振り返る。
そして、私に確認するように告げた。
「あれで遊ぼう」
「え?」
一瞬、彼の言っている言葉の意味が分からなかった。
だけど、次の瞬間にはその意味を理解せざるを得なくなる。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
何の前触れもなく、磔にされていた花楓が、痛みに悶えるように大声を上げ始めたんだ。
それもそのはず、彼女の右腕を黒い腕がギリギリと捩じり始めてる。
「止めて!! 止めて!!」
あまりにも惨い光景をやめさせようと叫んだけど、山田は笑ったまま。
更に事態は悪化していく。
右腕だけじゃなく、両足と左腕も捩じられ始めた花楓は、更に絶叫した。
「へへへへへへへへッ」
「止めろ!! 止めろって言ってんの!! 花楓!! 花楓!!」
目の前で笑い声を漏らす山田に、私は煮えたぎるような怒りを覚える。
だけど、そんな私の怒りは一瞬で消え去ってしまった。
なぜなら、笑い声をあげていたはずの山田が、ゆっくりと私の方を振り返ったから。
その顔に、笑顔はない。
まるで、私が抱いていた怒りが、彼に吸い取られてしまったみたいだ。
「止めろ? 何を? 教えてくれ。俺は何をやめたらいい? 遊ぶなってことか? なぁ、どうなんだ? 遊んじゃいけないのか? ダメなのか!? なぁ!? どうしてダメなんだ!? なんで俺だけ遊んじゃダメなんだ!? 教えろよ!? なんで俺だけなんだよ!? ふざけんな!! ふざけんな!!」
私に対して明確に向けられた敵意。
まるで心臓を貫きそうな鋭さの視線に、私は思わず目を閉じた。
視界が暗闇に覆われても、山田の言葉は止まらない。
そうして、彼の声が耳元に迫り始めたその時。
急に、彼の声が途絶えた。
一瞬にして、部室の中に静寂が訪れる。
私の両腕の拘束も解け、その場に頽れた私は、震える身体を自身で抱きしめながら、ゆっくりと目を開ける。
直後、フワッとした甘い香りと栗色のショートボブが、私の感覚を埋め尽くした。
「スーミィ!! ごめん、ごめんね!! 大丈夫だから! 全部終わったから!!」
「……へ?」
そう言いながら私の後頭部を撫でる優しい手つきは、間違いなく花楓だ。
荒くなった呼吸と震える身体で、取り敢えず花楓を抱きしめた私は、部室の中の惨状を茫然と眺める。
床に横たわっている山田と3人の部員達。その奥で細かく折れてしまってる1本の箒。
それらが何を意味してるのか、今の私には分からない。
ただ分かるのは、腕の中に居る花楓が無事だっていうコト。
そんな事実に、少しだけホッとした私は、改めて彼女を強く抱きしめた。




