第1話 きっかけ
私が黒光花楓と話すようになったきっかけは何なのか。
そう問いかけられたら、迷うことなくあの日のことを語ると思う。
それはもう、饒舌に。
高校1年生の夏休みが終わって、鬱屈とした気分を洗い流すために向かったトイレから、すっきりして戻って来た時のこと。
私は、教室の扉の前に座り込んでいる一人の女子生徒を目にしたんだ。
見事なウェーブの掛かった茶髪と、すらっとした手足を持っている彼女の名前は、佐藤亜美。
夏休み前に、私が彼女に対して持っていた印象は、友達が多くて明るいけど、自分より下と見なした人に対しては当たりがキツイ女子。
正直、苦手なタイプ。
とまぁ、そんな感想を抱きながらも、私は今の彼女に対しては別の感情も抱いてる。
同情、って言えばいいのかな?
端的に言えば、かわいそう。
クラスで一番モテるって評判の男子、祇園寺壮馬君と付き合っていた彼女に対して、私なんかがそんな感情を抱くのは失礼かもしれない。
だけど、それはあくまでも付き合っている間だけの話。
夏休みの間に何があったかは流石に知らないけど、彼女は祇園寺君と別れたらしい。
どうして私がそんなことを知っているのか。
朝、教室に入った時から、当事者の祇園寺君を含めた男子が堂々とそんな話をしていたから、嫌でも耳に入って来るワケで。
聞きたくもないから、トイレに行ってたんだよね。
だからこそ、かわいそうだと思う。
きっと、佐藤もそのことに気が付いたから、こうして教室に入れないまま、扉の前で座り込んでるのかもしれない。
……泣いてるのかな?
同情の果てに、少しだけ不憫に思えてしまった私は、手を拭いていたハンカチをポケットにしまった後、彼女の元に歩み寄ろうとした。
次の瞬間。
私は彼女が手に持っているモノに気が付いた。
それは、大きな裁ちバサミ。
裁縫の時に布を切るために使うアレ。
逆手に持ったそれを強く握りしめながら、足元をじっと見つめ続けている佐藤さんの様子は、明らかにおかしい。
何をするつもり?
そんな疑問が頭の中を駆け巡る。
「佐藤さん……?」
思わず発してしまった私の小さな声に、佐藤は敏感に反応する。
視線を交わした直後、彼女はどこか観念したような表情を浮かべ、すっくと立ちあがると、教室の扉を勢いよく開け放った。
そして、手にしていた裁ちばさみを高く掲げつつ、声を荒げながら教室の中へと飛び込んでいく。
「死ねぇ!!」
「きゃぁぁぁぁぁぁ!!」
あまりの出来事に、私はその場に立ち尽くしてしまう。
教室からは、無数の悲鳴と怒号が聞こえてくる。
「え……どういうこと……?」
渇いた喉を潤すために唾を飲み込んだ私は、小さな呟きを漏らしながら、教室の扉へと近付く。
廊下を歩くのって、こんなに重たい行為だったっけ?
逃げ出したい衝動に抗ってるせいかな。
本当は、教室の中なんて見たくない。
そんな本音と同時に、私は大きな違和感を抱き始めていた。
気が付いたら、教室が妙に静かになってる。
それはある意味普通のことだけど、それが余計に私の想像を掻き立てた。
もしかして、佐藤が皆を……。
そんな嫌な考えが私の頭を過ったその時。
不意に、私の肩に手が置かれる。
「大心池? どうした、こんなところに突っ立って。ホームルーム始めるぞ。早く席に座れ」
「はぁぃ!?」
驚きのあまりに変な声を上げてしまった私は、すぐに後ろを振り返って、声の主を視認する。
私達1年2組の担任、田中先生だ。
白髪だらけの壮年の彼を見上げた私は、すぐにそれどころじゃないと思い、声を張り上げた。
「先生!! た、大変なんです! 早く! 早く中に!」
「どうした? 何でそんなに慌ててるんだ?」
そう言いながらも、私の横を通り抜けて教室に入っていく田中先生。
そんな彼の後に続いて教室の中を覗いた私は、思わず茫然としてしまう。
「へ?」
「へ? じゃない。早く席に着きなさい」
「……は、はい。すみません」
促されるままに教室の後方にある自分の席に向かった私は、クラス中の視線がこちらに向けられているのを感じ取りながらも、必死に気持ちを落ち着かせた。
明らかにおかしい。
いや、クラスの皆はいつも通りで、特に異変は無いんだけど。
それが、《《それこそ》》が明らかにおかしい。
だって、さっき、佐藤が裁ちバサミを握りしめて教室に飛び込んでいったのに、誰も騒いでいないのは変だよね。
それどころか、佐藤本人も、平然とした顔のまま、黒板の方を見ている。
異常な状況に混乱する頭のまま、私は先生の話なんて聞いていられるワケが無かった。
周囲にばれないように、周りの様子を観察する。
そうして、ふと隣の席に目をやった私は、とんでもない物を目にした。
引き出しから、さっきの裁ちバサミの取っ手部分がはみ出している。
そう思った直後、私はそれが見間違いだったと気が付く。
気が付く?
うん、言い方が合ってるかは分からないけど、見間違いだっていうコトには違いない。
だって、もう隣の席の引き出しから見えてたはずの裁ちバサミが、見えなくなったんだから。
そう考えながら、なぜかウルサイ心臓を落ち着かせるために胸に手を当てた時、隣の席に座ってる女子生徒と目が合った。
栗色のショートボブが似合う可愛らしい彼女の名前は、黒光花楓。
隣の席に座ってはいるけど、そんなに仲が良いってわけでも無い女子。
そんな彼女が、私を覗き込むような視線を向けて来る。
「須美ちゃん、どうかした?」
「……別に、何でもないよ」
「そっか」
そう言って笑った彼女の表情に、どこか悪戯っぽさが含まれていると感じるのは気のせいかな?
なんて、ちょっと引っ掛かる気持ちはあったけど、その日はその後何事も無く過ぎていった。
今から思い返せば、それも変なんだよね。
だって、そうでしょ?
クラスで一番注目されてたカップルが別れたんだよ?
そんな大事件があれば、普通は当分の間、話題になるはずだよね。
おまけに、祇園寺君は既に新しい彼女を作ってたなんて話まであったんだから。
波乱が起きないはずがない。
多分これも、彼女の仕業だったんだろうなぁ。