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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
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夜を越す、傘をひらく

作者: 小林 小鳩

 ここに一番いるべき人が、いない。

 重い海の中から這い上がってもここはまだ深海で、明かりの眩しさに目を細めたまま、手探りで冷たくなったカーテンを閉める。彼はまだ帰って来てない。

 電気ポットで湯を沸かしている間に台所で顔を洗う。まだ目が覚めていない給湯器が吐き出す冷たい水で洗い終えても、夢と現の境がはっきりしない。こうしている間にも、血はどんどんと足元へ下りていってしまいそう。立っていないと、寝てしまう。ヤカンを火にかけている間に寝てしまうのが怖くてコンロが使えなくなって、彼が電気ポットを買ってくれた。誰か、見知らぬ誰かが勝手に、大きな包丁で時間を切り刻んでいく。

 という記憶はある。

 浅瀬に打ち上げられているところを、松並の声で引き上げられた。ローテーブルの上には食べかけのカップ焼きそばと箸が転がっている。何も可笑しいことがないのに。点けっぱなしのテレビは一度も見たことがないドラマを流している。ごめんなさい、とやっと出した声は彼に届いているのかいないのか。彼は澤野が海に沈んでいたことなど、何も気にしていないといったそぶりだ。

「あっ、ケーキ買って来たから一緒に食べよう」

 そう言って彼がコンビニの袋から出したのはバームクーヘンだった。これをケーキと呼ぶのは正しいのだろうか。固まった焼きそばの続きを食べていると、彼はインスタントの卵スープが入った碗を一つテーブルに置いた。

「お風呂入ってくるけど、寝ちゃっても大丈夫だよ」

 そう言って澤野の背中をさする。耳の穴に詰まった生ぬるい水が流れ出していくような。

 優しい。この根拠のない優しさが恐ろしい。潮が引くように目が覚めた。


 頭はぬるい眠気の中に浸されているのに、夢の中に落ちることは出来ず、夜はもうすぐ終わろうとしている。彼を起こさないようにそっと布団から出て、スウェットパンツのポケットに家の鍵とスマートフォンだけ入れて出て行く。どうせ鳴ることはないのだけれど。

 思うよりも夜は明るい。街灯、コンビニ、まばらにつく部屋の明かり。環状線を車のヘッドライトが泳いでいく。こんな時間でも起きている人がいて、ちゃんと社会活動をしている。人は朝起きて夜寝るもの、という曖昧かつ絶対的なルールから外れた場所でもきちんと生きている、その人たちの輪の中にすら入れてもらえる気がしない。ファミレスから出てきた、スポーツウェアを着崩した若い男たちが大声で笑いながら車に乗り込む、その横を足早にすり抜ける。緩やかな坂を登り続けている間に濃紺から瑠璃色へ、藍色の端にピンクグレープフルーツみたいな光が混ざっていく。歩道橋に登ってしばらく空と環状線を眺めている内に、手足が冷たくなってきた。一回りしてアパートに戻る。

 冷えた身体を布団に潜り込ませると、彼の体温と湿度を感じる。人間の匂いがする。優しい寝息をたてながら眠る彼を、ほんの少しの間裏切ってしまった。ヘッドボードに置かれた彼の眼鏡をTシャツの裾で拭いて、元に戻す。大した距離でもないが歩き疲れたので、多分このまま眠ることに成功するだろう。そうして彼の居ない部屋で目が覚める。


 大体、子供の頃からなにかおかしいと思っていた。澤野が眠りの中から出られなくなったのは、今に始まった事ではない。親や学校がもう寝なさいという時間をはみ出してるけど、同級生たちが話題にするテレビ番組が終わったくらいの時間にはちゃんと寝ていた。なのに眠い。体育がない日でも眠い、授業を受けられない。二時限目の途中で寝て、起きたら三時限目も終わるところだった。それだけ寝ても午後も居眠りしてしまう。運動部でもないのに家に帰ってからも倒れ込むように寝てしまう。小学校の高学年に始まって、大学生になってもまだそんな状態が続く。土日は十数時間は余裕で眠ってしまう。薄い紙が水の中に溶けていくように、身体の全てが眠気に浸されていく。

 このままではまともに社会生活が送れない。いや、さすがに会社で居眠りはないだろう。と思ったらやっぱり寝てしまう。立っていても眠いが、椅子に座った途端に意識を失ったように眠ってしまう。外回りに出れば、電車の中で吊り革を掴んだまま降車駅を乗り過ごしてしまう。

 どうしてこんなに眠いのかがさっぱりわからない。夜更かしをしているわけでもない。緊張感にまみれているのに、眠りたくないのに、突然ストンと落とし穴に落ちるように眠ってしまう。ただただ悔しい。全力で抗っているつもりなのに。どうして自分は眠りに逆らえないのか。でもこんなことで辛いというのは、世の中が許してくれないだろう。眠れない人が大勢いるのに。みんなにこの眠気を配って回りたい。

 職を失うのは、案外あっさりしたものだった。役職者に対面で説教されて、自分だって居眠りなんかしたくないんです、と強く訴えている最中に意識がふっと消えて椅子から落ちた。ほとんどコントだ。

 求職活動をしたい気持ちは存分にあるが、目が覚めるといつも日が沈んでいて、何もかもが終わっている。身体の中まで泥のかたまりに侵食されているような眠りの中で一日が過ぎていく。嫌だと思っているのに。

 そんな状態なので、届いた郵便がすぐに開けられず、そのまま忘れてしまう。不在票が入っても荷物の再配達の依頼をすることが出来ない。重要書類とハンコが押された封筒も開封出来ない。そうした手紙の数々が、受信メールや不在着信が地層のように積み重なっていくのに。それを処理する体力がない。だから立ち退き工事のためアパートから退去しないといけないことに直前まで気付かなかった。眠りに全てを奪われていく。

 なんとか目が覚めている隙に大学時代の友達に連絡することに成功すると、一時的にではなくしばらく住んでもいいという。ただし、見知らぬ人の家に。


 松並というその男は、最近長年同棲していた恋人が出て行ったばかりで、とても一人では居られず寂しさのあまり、このままでは人生が立ち行かなくなる予感がすると思い悩んでいるという。自分の悩みがそうであるように、他人の悩みは馬鹿みたいに思えてしまう。それぞれに切実なのだが。

「家に帰っても誰も居ないのがとにかくつらいし、自分しかいない部屋にずっといるのがもう耐えられなくて。誰か一緒にいてくれる人が欲しくて欲しくてしょうがなかったんだけど。恋愛とかする気分も気力もないし……。もう、本当にどうしようもなくなって」

 初めて訪れた他人の部屋で正座をしてインスタントのコーヒーを飲みながらでも、クラゲのように半透明で柔らかな眠気が覆いかぶさってくる。こちらが眠気の海で巨大なクラゲと格闘していることなど気にも留めずに、血色の良い顔でにこやかに絶望と喜びを語ってくれる。

「とにかく誰かそばにいてくれる人なんて、望んだところで無理だろうなって思ってたから。まさか本当に見つかるなんて思わなかったよ」

 おそらく素直で良い人なのだろう。明るいものだけ受け取って育ってこれたような。手を入れすぎてもいないが、手を抜いてもいない。よれていないシャツ、汚れていない爪、荒れていない肌。白い無地のマグカップ。ベージュのカーテン。部屋も本人も、真水のようだ。

 だけど彼の唇からこぼれる言葉をうまく飲み込めない。一人でいるのが怖くて、寂しくて頭がおかしくなりそうで、眠れない。とにかく誰かにいて欲しい。表情も口調も常温の水のようなのに、飲み込めない。例えば、もっと荒れ果てた部屋で泣き喚きながら縋りつかれたら、信用出来るものだろうか。

 リビングと続きになっている寝室の方を見遣ると、大きなベッドが目に入った。この部屋に、松並以外の誰かがいたという一番大きな証拠。あのベッドね、と松並が口を開く。

「処分しようとしたんだけど……。新しくシングルベッドを買って、家具屋に交換引き取りしてもらおうと思ったら、サイズが違うと引き取り対象にならないって言われて面倒になって。処分代もかかるし、自分一人であのベッドを解体してゴミに出すのは、さすがに無理」

 一人って不便だね。そんなことを気安く言う。だからって。

 一人暮らしのために数年前に買った安くてなんだか薄っぺらい家具は、なんの思い入れもなく処分出来た。部屋が変わっても眠ってばかりで何も変われない。仰向けに寝転がって、両腕をまっすぐ水平に伸ばすと、手首の先がはみ出るサイズのベッド。

 いくら寂しいからって、よく知らない男と同衾することに抵抗はないのだろうか。ないのだろうな。寂しさを紛らわせてくれるためだったら、簡単に天秤は傾くだろう。眠気を消してくれる何かがあれば、自分だって少々の危なさに目をつぶって手を出してしまうだろうから。

 明け方と呼ぶにはまだ早い時間。ベッドの中で違和感を覚えて目を開けると。松並が澤野のTシャツにしがみついていた。

 そこにいない誰かの感触に手を伸ばしても、そこにあるのは本物じゃない。どこかへ行ってしまった。本当にいるべき人は、ここにはいない。

 松並の方はこの澤野の現状をどう思っているのか、同居の前にもしてからも訊いてみたことはあるのだが。

「そういう時期もあるよ。人生は長いから」

 そんなこと言われても。




 米袋から内釜に米を入れていたのだが、考え事をしていたせいで何合分入れたのかわからなくなり、また最初からやり直す。誰かが送ってきてくれた米なのだろう。米袋に宅配便のラベルをはがした跡がある。五目と鳥ごぼうときのこで迷って、鳥ごぼうの炊き込みご飯の素を入れる。

 松並は朝は手早く軽く済ませたいと言って、仕事の日は炊き込みご飯とインスタントの味噌汁で朝食を済ませる。ただ何もせずに居候をするのも心苦しく、澤野は週に一度の炊き込みご飯を炊く仕事を得た。料理らしい料理は出来ない。包丁を持ったまま眠ってしまうのが怖い。自分に出来ることがあまりに少なくて悔しいけれど、その悔しいという感情を持つ資格すらないような気がしている。どうしてこんな風になったのか、澤野自身にもわからない。

 何も出来なくて毎日寝ているだけなのに、居てくれてありがとうと感謝されてしまう。家賃も光熱費も松並が払ってくれている。恥ずかしい、歯がゆい、居た堪れない。あらゆる感情が総動員される。いくら優しい言葉をかけられても、申し訳無さが拭えない。何か彼のためにしないと。布団とラグを粘着テープでコロコロと掃除している間に、また小一時間ほど眠っていた。

 目が覚めて、夕方なのか明け方なのかわからない。オレンジの光と紫色が混ざり合う。外から子供の声がするから、恐らく夕方だ。炊き込みご飯はもう炊けている。炊き上がりのアラーム音に気付けなかった。小分けにして冷凍しないと。冷凍の白米はまだ残っていただろうか。額と首にまとわりついた脂と汗を、シャワーで洗い流す。眠ってしまうのが怖くて、湯船につかれない。

 なんの瑕疵もないのに、何故こんな目に遭わなければならないのだろうか。病むような出来事なんて何もなかったのに。あってもこんな目に遭っていい訳がないのだけれど。あればきっと納得がいった。

 頭の中が霧に包まれ、身体が形を崩し雨の中に溶けていく。しなくてはいけないことが山程あるのに、みんな掴めないまま消えていってしまう。彼の気配で目が醒める。彼の声で身体を取り戻す。

 鉛が詰まったような寝起きの身体に水を流し込んで、ようやく人間であることを思い出しはじめる。

「お寿司作ったからさ、食べよう。夕飯、まだ食べてないよね」

 松並はボウルの中でちらし寿司の素を混ぜ込んでいる。確かにそれも寿司ではあるのだが。バームクーヘンをケーキと呼ぶところといい、こういうところを人に笑われたりバカにされたりしたことがないのだろう。だからきっと、澤野を責めることもなく部屋に招き入れられるのだ。眩しいくらいに透明な、アクリル樹脂製のタンブラーの中の水道水。飲み込むごとに、身体が柔らかくほぐされていく。

「昼食べに外出たついでに、なんとなくアンテナショップ覗いたら、食べたくなっちゃって」

 松並は、瓶詰めのいくらのしょうゆ漬けをちらし寿司の上にのせていく。

「こういうの、結構高いんじゃないんですか……?」

「気にしないでいいよ、本当。僕が好きでやってることだからね。誰かと食べる方が美味しいし」

 舌の上でぷちんと弾けて溶けるいくらを噛み締めながら、もっと自分を大事にしてくれよ、と澤野は思う。彼のそばにいるべき人がいないのなら、誰でもいいからそばにいてやらなきゃダメなのだろう。でもその誰かはこんな役立たずで本当にいいのか。考え直した方がいいのでは。一応念を送ってみるが、そんなものは届くわけがない。

 彼が風呂に入ってる間に、テーブルの上に取り残された眼鏡をTシャツの裾で拭く。あんなに澄んで整っている人なのに、どうしていつもレンズが汚れたままなのか。




 環状線沿いのなだらかな坂を上がっていると、スウェットパンツの中でスマホが震えた気がした。気のせいだろう、と思ったが服の上から触れると確かに着信している。

「澤野さん、今どこにいるの」

 松並の声は、いつもの落ち着いたそれとは少し違って聞こえる。

「え、今、歩道橋……環状線の、ガソリンスタンドとコンビニがあって、近くに神社がある……」

「行くから待っててください」

「えっ、大丈夫ですよ、今すぐ帰りますから」

「僕が行くまで、そこにいてください」

 少しうわずった声でそう言って、電話は切れてしまった。松並の家から澤野が今いる場所までは、それなりの距離があるのに。心配してくれた? でもこっちももういい大人なのに。むしろ待ってる間に寝てしまったらどうしよう。こめかみの辺りを指で強く揉んで、眠気を覚ます。インクのような濃青に、花びらみたいなピンクや紫が少しずつ混ざっていく。歩道橋の下を急いでくぐり抜ける大型トラックたち。そういえば、松並の部屋に来るまではこの時間にこんな景色があることを知らなかった。

 歩道に目をやると、松並が見えた。気付かないかもしれないな。そう思いながら手を振ると、向こうも大きく手を振り返す。澤野は階段を駆け下りて松並の元へ向かった。

「……なんか久しぶりにたくさん歩いた気がする。いい運動になるね」

 そんなにポジティブな言葉を投げられても、返事に困る。そうですね、と素っ気ない澤野の言葉にも松並は拗ねる様子などない。

 なんか動いたらお腹空いちゃった、と松並は機嫌の良い子供のように振る舞う。

「ファミレス入らない?」

「えー……今、思いきり寝間着なんで、ファミレスはちょっときついです……あと財布持ってないです」

「それくらいおごるよ。牛丼屋の朝定は? 今ならお客さん他に誰も居ないっぽいよ」

 気にしなくていいから、と松並は笑う。

「お腹いっぱいになって眠くなっちゃったらどうしよう」

「そしたら僕がおぶって帰りますよ。大丈夫、大丈夫」

 そう言って澤野の肩を叩く。なんでいつもこの人は、屈託なく笑えるんだろうな。なんとなく折れて頷いて、後をついていく。外食なんて、いつ以来だろう。少なくとも無職になってから初めてだ。

 店に入るなり、いらっしゃいませと大きな声が飛んできて、怯んでしまう。今は一人で明るさや正しさを受け止める気力も体力もないから、松並が一緒で良かった。

 サラダを頬張りながら小鉢の牛肉を白飯にかけ、ハムエッグを箸の先で割る。口の中ですり潰されていくキャベツの千切り。耳の奥にかすかに響く。生きてる、と思った。自分がもう死んでるのか生きてるのかわからないような、その狭間にあるような眠りの中にいるのではない。今この瞬間は確かに醒めて人間らしい営みをしている。卵の黄身が甘く感じる。

 カウンター席の隣にいる松並は箸を止め、ふわあとあくびをして、はにかんだ。

「ありがとうございます」

「いいよ、安いもんですよこんなん」

 自動ドアから鈍い光が忍び込む。一口一口を噛み締めながら、喉に込み上げてくるものを一緒に飲み込んだ。

 大きな交差点で信号を待つ間、始発の路面電車が通り抜けていく。湿気を含んだひんやりとした空気が肌にまとわりつく。

「なんか目が覚めちゃって。そのうち帰ってくるかなって思ったんだけど、うまく眠れなくて」

 信号が青に変わって、松並は左右を確認しながら横断歩道を渡る。

「自分以外誰もいない部屋で寝るのって、怖くない?」

 ああ、そうですね。曖昧でありきたりな返事をしながら、澤野は歩幅を少し広げる。松並は自分にペースを合わせてくれているけれど、澤野にとってそれは少し早い。

「澤野さんが来る前、全然眠れなくなっちゃったから。また眠れなくなったらどうしようかと」

 最初から誰もいないのと、誰かがいなくなったのでは、同じ一人きりでも違うのだろう。目の前に居なくても誰かいるってわかってれば安心して眠れる。

 何にも脅かされなそうな人間の綻びは、甘い匂いがする。何層にも重なって弾力があるのに、真ん中にぽっかりと穴が空いている、バームクーヘンみたいな。

 気のせいかと思ったけれどやっぱり雨で、髪が腕がスニーカーの爪先が、粉砂糖を振るったような柔らかな雨粒に覆われていく。

「コンビニで傘とか買います?」

「もう少しだからこのまま行こうよ。霧雨だから、濡れても平気」

「ていうか眼鏡見えてますか、それ」

 澤野の指摘に笑いながら、松並は濡れた眼鏡をシャツの裾で拭いてかけ直すが、またすぐにレンズは水滴にまみれてしまう。

「どうせすぐにやむよ。薄日もさしてるし」

 傘なんてささなくても平気。なんて贅沢なのだろう。

 雨は正しい人にも正しくない人にも降り注ぐ。でも、屋根や傘に守られる人は限られている。松並は濡れずにいられそうなのに。自ら傘を閉じてしまっているような。

 澤野にとっては、この程度の雨などなんでもない。ずっと、傘があっても役に立たないような嵐の中にいる気分だから。

 それでも、なんとなく身体は軽い。松並の部屋を出た時は、スニーカーの重さを引き摺っていたはずなのに。




 チャイムの音は深海にも響く。眠気を身体から引き剥がして、足元に絡みつくそれを引き摺りながら、なんとか玄関へたどり着く。珍しい。鍵でも忘れたのだろうか。インターホンを取らずにドアを開けると、そこにいたのは松並ではなかった。

「……誰」

 それはこっちが訊きたい。が、声をうまく発せない。それに誰と問われてもなんと答えたら良いのかわからない。澤野自身、自分が何者なのか全く答えられない。

「章人は?」

「まだ帰ってきてないです……」

「今日の夜、家に行くって送っといたのにな。逃げたんか」

 上がっていいとは一言も言っていないけれど、スーツ姿の男は何の躊躇もなく部屋に上がり込んで、リビングのビーズクッションに座る。呆気にとられて澤野は身動きが出来なかった。

「で、君はなんなの。新しい同棲相手?」

「……同棲、では、ないです。あの、なんていうか、居候させてもらってて。色々あって住むとこなくなっちゃって、そしたら共通の友達に紹介してもらって、亀井ってわかります? 大学の同級生なんですけど、それで松並さんが、住んでいいよって……」

「ああ、そう」

 そっちから訊いておいて。仕方なしに男を客として迎え入れることにする。澤野がインスタントのコーヒーを入れて持っていくと、ミルク、と言って男は立ち上がり、勝手に冷蔵庫を開ける。

 真正面に座る勇気はなくて、限りなくテーブルの角に近い場所に正座する。それでも目の前の男は顕微鏡を覗くように、こちらを見る。何者であるかを仔細に調べられる。眠気以外何も持っていないのに。

 男は紙袋の中から包装紙がかかった箱を取り出し、テーブルの上に置いた。甘い匂いがする。

「お土産。バームクーヘン。食べていいよ」

「……ありがとうございます」

「よく買ってくるでしょ。章人、こういうの好きだから」

 なるほど、松並の好物だったのか。

「俺のこと聞いてる?」

「いえ、どちら様でしょうか……?」

「前にね、ここに一緒に住んでた」

 両手で名刺を差し出されるが、交換する名刺を持っていない。辞めた会社にマナーを置いてきたので、思い出せないままとりあえず両手で名刺を受け取る。社名にファームと入っているということは、農業か。台所の片隅の、誰かから送られてきたと思しき米袋が頭に浮かんだ。一緒に住んでた。同棲相手。ダブルベッド。パズルを完成させて良いのか迷っているうちに、佐藤というその男に横から完成させられてしまった。

「元彼のさ、俺の悪口とか言ってないの?」

「……聞いたことないですね」

「ああ、そう」

 佐藤はなんとなくつまらなそうに、棚の引き出しを開けたり、変わっていないベッドルームを見て、軽く笑う。緊張して、背中が汗をかいて熱い。意にそぐわない形で天秤に乗せられ計られているようだ。ここにいるべき人間に値するかどうか。

「このコーヒー、まだ飲んでるんだな。マカダミアナッツの味のやつ。インスタントじゃなくて、もうちょっとマシなの飲めばって言ってたのに」

 相手のコーヒーばかりが減っていく。ここに一番いるべき人が、いない。いつもならそろそろ帰ってきてもよい頃なのだが。

 空気を入れ替えたくて澤野が背後の窓を開けると、外を歩く人の話し声が聞こえる。これなら相手も大声を出したりしないだろう。たぶん。この佐藤の感じからして、松並が帰ってくるとは考えにくい。でも、どうなんだ。居なくなって、眠れなくなるくらいには愛着があった相手だ。自分の想像もつかない関係性がそこにあるのかもしれない。

 スマホに連絡が来ているか確認したいけれど、ベッドの上にある。リビングからは丸見えだ。操作していたら何かまた問い質されるかもしれない。

 いやしかし、松並はどういう気持ちで、元彼から送られてくる米を毎日食べていたんだろう。勿体ないとか農作物に罪はないとか、そういうことを如何にも言いそうだけれども。澤野がどんなに寝てばかりでいても、何も出来なくても軽く笑って受け流していた松並が、途端に複雑な存在になってしまった。バームクーヘンの深い深い穴を覗き込んでいるいる気分。

「本当に俺のこと、何にも聞いてない?」

「……同棲してた恋人が出て行った、とは聞いてますけど。それだけです」

「別に出て行ったわけじゃないんだけどね」

 佐藤は大きく息を吐いて、クッションにもたれかかる。

「どっかで実家帰って農家を継がなきゃなんないとは思ってたからさ。会社にして、章人も社員として連れて行くって話、ずっとしてたんだよ。それなら不自然じゃない形で一緒に居られるし、まあ形式上の結婚を望んでたんだけど。そしたら土壇場になってさ、あいつは俺の田舎に行くのは嫌だって」

 佐藤のコーヒーカップは空になっているけれど、おかわりをいれる気になれない。眠気はうっすらとまとわりついているけれど、振り払えないほどでもない。

「まさかそんなこと言うとは思ってなかったから、こっちも。だって泊りで出張行っただけで寂しがるのに。だから、俺が出てったわけじゃなくて、章人がついてきてくれなかったのが正解」

「……今の仕事も人間関係も全部捨ててついていくのは、いくら新しい仕事と家族と住まいが保証されてても、凄く勇気が要ると思います……」

「でも、それに値しないって言われたようなもんだからさ。裏切られた思いだよ。今までのは何だったんだって」

 裏切るってのはまた違うんじゃないか? と思ったけれど口をつぐんだ。

「松並さんと、結婚したかったですか」

「そうだよ。俺だって不安なんだからさ。話し相手も欲しいし、あいつってさ、あれこれ世話焼いて凄い気を遣ってくれるだろ。何があっても一番の味方でいてくれる人と暮らしたいのは当然だろう」

 澤野は正座を崩して胡座をかいた。

「……もうお帰りになられたらいいんじゃないですか。時間も遅いですし。松並さん、今日はたぶん帰って来ないですよ」

 松並をこの人に会わせたくない。自分の立場で言えた義理じゃないけど。

 もし外が雨で、松並が濡れていたら。自分の手に傘があったら。その半分を差し出したい。傘がなければ、一緒に濡れてもいい。そう思う。

「で、章人は今何処にいるの」

「知りません。ここで待ってても、仕方なくないですか」

「まあ、何日か出張でこっち来てるから、また来るわ」

 佐藤が部屋を出た後、澤野は素早くドアロックと鍵を閉めた。すぐさまスマホを確認するが、松並からは何の連絡もない。佐藤が来てもう帰ったことだけ簡潔に送信して、ベッドに倒れこんだ。

 孤独を埋めるために、誰かの孤独を利用している。わかっている、お互い様なんだ。松並も佐藤も、自分自身も。眠れなくなっても良いから彼を手放したのか、それとも寂しくて眠れなくなるなんて思ってなかったのか。松並は今何処で、どうやってこの夜を過ごしているのだろう。ここにいるべき人がいない。あ、ドアロックしたままだ。もし松並が帰ってきたら入れない。開けておかないと。


 冷たい空気の中で目を開けると、まだ夜だった。カーテンが穏やかに揺れている。閉め忘れた窓の向こうは、もうすぐ始まる夜の終わりを音もなく待っていて、自動販売機が発する光が通りの向こうにぼんやり見える。眠気を大きく吐き出して、スマホを確認すると。既読になっていた。

 眠れていますか。送信すると、すぐに既読になった。松並は、今、何処に。スマホの画面の上においた指が、うまく滑らない。何度も打ち直して、ようやく書けたメッセージを消して。電話をかけた。どれくらい待ったのだろう。長いと思っているけれど、本当は短いのかもしれない。一旦切って、ベッドに横たわりまた目を閉じる。いつ松並から連絡が来てもいいように、耳元にスマホを置いて。

 眠れてないんだな、やっぱり。佐藤のあの感じ、苦手だ。向こうも得体のしれない男を警戒していたのだろうけれど。いや、でも。松並さんはあの人が良かったわけだし。外野にはわからない二人だけのことがあるのだろうし。

 同じ部屋で同じベッドで過ごしていたのに。眠ってばかりで、何も知らなかったな。悪いかなと思って何も訊かなかったけれど。何も訊かないでも、もっと色んな話をしておけば良かった。バームクーヘンが好きなのかくらい、おそらく聞いても構わなかっただろう。それくらい何もせずにいた。

 寝返りをうって、毛布を抱き寄せうずくまり、また向きを変える。まぶたに淡い光が透ける。それは暗闇に目が慣れたせいではなくて。観念して目を開けると、プールの底のような薄い水色に部屋が染まり出している。仕方なく起き上がり、台所で水を飲むついでに玄関を覗くと、まだドアロックがかかっていた。

 やらなくてはいけないことは山程あるはずなのに、何もすることがなくて手持ち無沙汰で。なんだか、とても。


 なんだか締められている気がして、ボタンを一個外した。きちんとした服を着るのは久しぶりだ。行ったからってどうしようもないのはわかっているのだが、取り敢えず最寄駅に向かう。何もしないでベッドの上にいても、どうせ眠れないし。下りの始発って、もう出てると思うけれど。そもそも松並が帰ってくるという確約は、何処にもないのに。道の向こうから松並がやってくるのを、ぼんやりと期待しながら、日が昇る明るい方へ向かって歩く。

 交差点を通過する路面電車には、ほとんど人の姿が見えない。信号が変わって歩き始めると、ポケットの中から呼び出された。急いで渡りきって、慌てて電話に出ようとするが、慣れた動作のはずなのにおぼつかない。

「……おはようございます。お休みのところすみません」

「あ、いや、今日は。起きてました」

 なんだか眠れなくて。澤野の言葉に、松並は言葉にならないような息が混ざった声を吐く。

「ごめんなさい。昨日はご迷惑おかけして」

「いいんですよ、別に。今、何処ですか。地下鉄の駅の近くにいるんですけど」

「僕ももうすぐ帰るんで、気にしないで下さい」

 気にしないで、と言う声が。初めて松並に会った日のようだった。

「……松並さん、ファミレスで朝ご飯食べませんか。この間のお礼におごります。僕もまだ眠れないんで」




 モーニングセットにドリンクバーが付いているけれど、立ち上がって取りに行く気力があまりない。松並の顔をまっすぐみるのも気が引けて、窓の外とテーブルの上に視線を行き来していると、お茶でいい? と松並が立ち上がった。窓の外は、もう正式に朝だ。これから仕事に行くような人も見える。

「昨日はネットカフェにいたんですけど、夕飯あんまり食べてなくておなか空いちゃった」

 松並の前に運ばれてきた和風モーニングセットは、ご飯に味噌汁、塩サバに目玉焼きにベーコン、ソーセージにサラダ、小鉢まで付いている。いつもは軽く、なのに。

「朝からそんなに食べれますか」

「食べれますよ、これくらい。今日は仕事もないし」

「……朝は米派ですか」

「うん、米が好き。和食の方が良いってわけじゃないんだけど」

「焼肉の時は白飯ですか?」

「えー、石焼ビビンバでもいいし、なんだっけ。雑炊みたいなやつ。澤野さんは?」

「僕は冷麺ですね」

「麺かあ」

 洋風モーニングセットのスクランブルエッグをフォークで上手くすくえない澤野を見て、松並がはにかむ。トーストの上にジャムとバターを両方塗ると、いいなあ、なんて言って笑う。

「……ちょっと面倒な人だったでしょう」

「え?」

「佐藤。甘えたというか、構ってもらいたがりというか」

「ええ、あー……? はい」

 なめらかには発せない澤野の返事に、あの人ちょっと人見知りだから、と返ってくる。

「バームクーヘンをいただきました」

「あれでしょ、米粉の。メープルと栗と焼きりんご味のセット。佐藤の会社で販売してるやつ」

「あ、そうなんですか。……好物、揃ってますね」

 そうだね、と松並は小さく返事をして。ゆっくりと咀嚼しながらと食べ続ける。

 鎧のように固く自分を覆っていた眠気のことを、忘れていたことに気が付いた。身体が軽いわけではないけれど、眠くないし眠りたくない。まだ醒めていたい。

「行かないから、安心して」

「え?」

「佐藤のとこ。家、まだ全然住んでていいからね」

 そうか。気付きもしなかった。澤野はやわらかなパンの耳を噛みながら、正座をしていた時の強ばった身体を思い起こす。松並が安心して家に帰ってこれるように、佐藤を帰すことばかり考えていた。自身のその後のことなんて、ちっとも。

 半身を眠りに浸しながら口の中に詰めていた食事は、義務感に駆られてのものだったけれど。今この瞬間に、舌で歯で味わっているものは、ずっと確かなものだ。

「美味しかった」

 と松並は、いつもの量の倍以上の朝食を食べ終えてはにかんだ。昨日まで知っていた松並とは、違う人のように思えるけれど。相変わらず真水のようだ。

「バームクーヘン、好きなだけ食べていいよ」

 え? と澤野が顔を上げると、僕は食べないからと松並は言う。

「悪いことしたなって思って受け取ってたけど。それはあまりに無責任だったってわかったから」

 ファミレスの店内にいるとよくわからなかったけれど、外に出ると晴れている。頭上を覆う首都高のせいで朝なのに随分暗いが、見上げると隙間に完璧に近い青空が見える。

「こんなによく晴れてるのにこれから寝るなんて、贅沢だね」

 松並はそう言って笑った。


 ドアロックをかけて、カーテンを閉めて、スマホの音量もお互いオフにした。

「逃げ回っても仕方ないから、彼のためにも一回どこかできちんとしないといけないんだろうけど。こっちに来てることだし」

 松並はうまく寝付けない様子で、右を向いたり左を向いたり、毛布を抱き込んだりと落ち着かない。

「今日くらいはいいんじゃないんですか。そういうの全部、お休みにしても」

 貝の中に潜り込むヤドカリみたいな仕草で身体を丸めながら、松並はじっと目を閉じている。澤野は同じベッドの上に横たわり、目は閉じないようにと思う。きっと簡単に眠れてしまうだろう。でも、まだもう少し。ヘッドボードの松並の眼鏡を、シャツの裾で丁寧に拭く。

 子供の頃、ベッドの周りは全部海、なんて空想を時々していた。ベッドの外に出たらサメやクジラに一飲みにされてしまうから、ここから決して落ちないように。今もまた、二人で眠るベッドの上だけが、安全で守られているように感じる。

 しばらくして、眠れないことに疲れたのか、松並は目を閉じたまま、シーツに這わせるようにそっと手を差し出す。起きてますよ、と合図するように、澤野は指先だけで触れる。

「これは本当に恋だったのかなって思ってね」

 ゆっくりと、ため息のように、深呼吸のように言葉が吐き出される。

「事実婚をしようって、一緒に会社をやろうって言われて……そういう話はなんとなくしてたけど。急に現実を突きつけられたら、自信がなくなっちゃって」

 澤野は相槌を打つ代わりに、指先を松並の手の甲へ乗せた。

「一緒に暮らしてたのにって思う? 家族になるのって、わけが違ってた。好きって言われて……鳥の雛が初めて見たものについて行くみたいなことだったのかな、あれは。恋じゃなくて、愛着とか執着とか、そういうものだったんじゃないかな。たぶん。寂しいのは嫌だったし、お互い納得してるんならそれで良いじゃないか、って思ったんだけど……」

「松並さんは、納得出来なかったんでしょう」

「……やっぱり誠実じゃない気がして」

 他人の息をこんなに間近に感じたのは、いつ以来だろう。わずかに触れる部分ですら温かい。眠りの中にいるような温度だ。

 眠りはいつも、いくら抗っても引き摺り込まれる深海だった。でも今は、浅瀬にいる。また目を閉じたら沈んでしまうかもしれないけれど。戻って来れるような予感もしている。

「その時はちゃんと、これが恋だと思ってたんです」

「きっとまた、そう思える相手が出来ますよ」

「また間違えるかもしれないし」

「間違えてても、その時は確かに恋だったんでしょう」

「……そうだね」

 何度も何度も、きっと昨日の晩もずっとこのことを考えていたのだろう。眠れなくなるほどに。彼の途方もない寂しさに、このありあまる眠気を注ぎ込みたい。傘を差し出すように。

「上手くやれないのが怖いよ、僕は。上手くやれなくてもいいよって言われても、そういう問題じゃないんだよ」

 さざなみのように弱く揺れる言葉。重ねた手と手。自分以外の肌の感触。まだ背中をさする勇気はないけれど、ここまでなら手を伸ばせるから。そっと、気づかれないくらいにそっと手を撫でる。もう空は青いのに、夜の終わりに光が溶け込むような時間が、ずっと続いているようだ。

 寂しさに色があるなら、きっと夜明けのような色だと思う。暗い群青や瑠璃色や、かつて知っていた優しい珊瑚色や飴色が混ざった、寂しさに手を差し伸べてくれるような。それを振り払うことも許してくれるような。

 何もかもが夢の中みたいに醒めていて、安心して目を閉じることが出来る。ここに一番いるべき人が、いる。

「眠っても、大丈夫ですよ。ここにいますから」

 松並の手を握ると。彼も澤野の手をやわらかく握り返した。




(了)

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