9 絶望的非リアの俺は教室美化を心がける。
「ほんとに誰もいねぇ……」
『そりゃまあ、校門が開いた瞬間に入ったからねぇ。加減を知らない感じのアホなの?』
現在の時刻が午前七時半。開門時間ぴったりである。
ちなみに授業開始まであと一時間。校内にいる生徒の大半が運動部で、部活などの朝練のために来ているようだ。
その証拠に窓の外からは元気もやる気も足りない掛け声が聞こえてくる。
朝からこんなに動いて疲れないのだろうか。いや、授業中に寝ているのだし結構疲れるものなのだろう。
『始業時間まであと五十分以上あるけどどうする? ゲームして時間潰す? それともエッ……』
「黒板掃除でもするか」
白と黒と緑。教室の前方にある板を見ながら俺はそう言った。
学校で羽目を外すわけにもいかないし、そもそも理性という安全装置が働いている限りトリガーを引くことなんて出来ないのである。安全装置が強力過ぎる気がしないでもないが。
『真面目だねぇ。あたしももちろん手伝うけどさ。……あと、なんか学校に来ると若返った感じしない?』
「そうですねそうですねーっと」
棒読みで返事をする。いや、年齢考えろとか思ったりしてないし。そもそもこいつはただの幻想みたいなものだし。
『ちゃんと相手の顔を見て反応しろっての。あたしだって恥を忍んでここの制服着てやったわけだし』
そういえばそうだった。直接は見ていないが、地下鉄の窓に映った姿は見たのだっけか。
よくできた幻覚だなと思ったり。顔は今回も見れていないが、女子高生らしくスカートを折っていたり、セーラー服に付けるリボンにピアスを二つほど付けていたり。
その辺りのタイミングで、天使様が人ごみに酔ったりもしてたっけ。気軽にボディータッチするのは止めていただきたかった。俺が挙動不審になってしまうから。
『ちょっと待って。これ、黒板だよね? どうしたらこんなに汚くなるのさ。誰も掃除してないわけじゃ無いんだよな?』
天使はそれをペタペタと触りながら俺に尋ねる。わかったことなのだが、背中に向かって話しかける分にはそこまで緊張せずにいけるらしい。
「気付いてしまったか、サキュバス君」
だから、客観的に見ると一人芝居の亜種としか考えられない状況が生まれるのである。他者に見えない幻覚なのだから、一人芝居でもあながち間違ってはいないのだけれど。
『あたしは淫魔じゃなくて大天使のサリエルさんですけど。で、これがめっちゃ汚れる理由って?』
「先生の筆圧が濃すぎるから」
『なんだその単純過ぎる理由はっ!』
「いや、でもこっちがガチで消せばその分だけ綺麗になるわけだし……?」
つまり、頑張れば頑張るほど成果が出るということだ。おしゃべりしながら掃除をしている陽キャには出来ないことだろう。
『まぁとりあえず、この黒板消しを適当にかけてれば良いんだよな?』
「は? 何言ってんのお前? 黒板消しクリーナーがそこにあるだろ。アレを使って綺麗にしてからじゃないと駄目だろ。あと、月に一度くらいは中のフィルターも洗っておきたいし。あと、黒板は」
乾いた雑巾を併用することによって残ったチョークの粉を残すこと無く取るといい。そして濡れ雑巾は特別な時以外は使ってはいけない、黒板の寿命が――――
『……お前がモテない理由がちょっとわかった気がするぞ。ここでは言わないけどさ』
「なんでこのタイミングでっ!?」
『無自覚的にそれって結構危ないと思うけど。あと、掃除の時間って良い感じにサボるためにあるんじゃないの?』
「サボりだぁ? お前は学校美化をなんだと思ってるんだ」
天使の手から黒板消しを奪い取り、黒板消しクリーナーと呼ばれる機械の上に乗せる。スイッチを入れ……。
「……おい天使、電源が付かないんだが」
カチカチ。カチカチカチカチ。
接触が悪いというわけでもないのだろう。コンセントが刺さっているのは確認したし……。
『お前、もしかしなくても……』
「俺じゃないし。そもそもこの教室のこれに触ったのは今日が初めてだ」
あー、まずいことになったかもしれない。クラスの大多数を占める陽キャな皆さんは別に気にしないしそもそも気付かないのかもしれないが、俺は普通に気にする。
これ、放置してたらいつまでたっても黒板が綺麗にならないパターンだ。えっと、どうすれば。というかこれ、何がどうなってこうなったんだ。
思考回路は既にショート寸前、脳内で知恵熱が吹き荒れるレベル。あー、えっと。そうか。こういう時には誰かの知恵と行動力を頼りにすれば良いのか。
「……ちょっと聞きたいことがあるんだが」
『どうせクリーナーを直せとかでしょ。出来なくはないけどやりたくない』
「そうじゃなく……って、ちょっと待って。直せるの、これ?」
いや、普通に隣のクラスのやつを拝借するの手伝って欲しかっただけなのだが。
『あたしをなんだと思ってるのさ。これでも超有名な天使様なんだぜ。昭和の遺物くらい簡単に直せるに決まってるじゃん』
「昭和の遺物って言うのやめて……ジェネレーションギャップ発生するしマジで俺が凹むから」
『うんっ? 今の元号ってまだ平成だよね? 一個前の元号ならギャップもそんなにないじゃんか』
いやいや、何を言っているんだこのお方は。平成は二つ前の元号だ。
「なぁ、令和って知ってるか?」
『なにそれ』
そもそも聞いたことなかったのか……。彼女がいた場所が近いのか遠いのかよくわからなくなってきた。いや、まだ俺の妄想的なサムシングという可能性も残っているけれど。
「うん。そんな気はしてた。で、もう時間も危ない感じになってきたから、早めにこれ直しといてくれないか?」
『ほいほーい。ちゃちゃっと終わらせとくから。……別に時代が変わっていようがあたしは気にしないし。極東の移り変わりをずっと観察してる天使なんて普通いないし』
あー、これめっちゃ根に持たれるパターンだ。ただ、フォローしようにもどうフォローすれば良いのか全くわからない。火に油を注ぐどころか、ガソリンをぶっかける未来になる気しかしない。
だから俺は黙って床掃除をしながら、時折天使様の方に目を向けるのであった。
『ふんふんふふーん』
思ってたよりも上機嫌な彼女の声を聞いていると、挨拶くらいは頑張ってみようという気になってくる。
『ふふふんふーん』
いや、やっぱり普通にうるさい。聴覚よりも視覚の方が。
視界の隅の方がなんかピカピカしてる。雷――いや、違うか。
とにかく、昭和のテクノロジーじゃないよな、って感じの作業が行われている……気がする。もともと壊れてたし、これ以上壊れたって問題はないのだけれど。
『うんうん。こんな感じかな。元のスペックまで戻ったからよしとしよう。ふぅ、ちゃんとあれが残っててよかったぁ……』
「えっ、直った……のか?」
『うん。ここに宿ってる付喪神的な子にちょちょっとあれしただけ。具体的には秘密だけどね』
そう言って彼女はクリーナーを優しく撫でる。ツッコミどころは満載、それでもちゃんと直ったらしい。電源をオンにするとちゃんと動くようになっている。
「えっと……付喪神? 付喪神ってあの?」
『多分お前がイメージしてるやつであってるぞ。日本は特に多いんだよなー。信仰心の方向性の問題だと思うけど』
「つまり八百万的な?」
『そう、八百万なやつ』
「なるほどわからん」
そんなこんなで黒板クリーナーの修理は終わり、俺たちは二人で黒板を含めた教室の掃除をするのであった。