表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

裸の王様の喫茶店

作者: 深崎藍一

 冬という季節はあまり好きではない。理由は寒いから。それだけ。誰だってそんなものだと思う。

 春は花粉症のせいで嫌いだし、夏はもちろん暑いから嫌だ。秋は…松茸が高いから嫌いだ。

 そんな風に、何かと自分の境遇を不遇扱いしないとやってられない自分はあまり好きではない。


 でも、そんな自分でも受け入れて、それなりに生きている。今日も、寒い寒いと文句を垂れながら肩から鞄をかけ、コートを着て、マフラーを巻いてから、家を出た。

 玄関のドアを開けた瞬間、刺すような冷たさが体全体を襲って来た。

 

 早くも、回れ右をしそうになったが、まだ閉まりきっていないドアの向こうから鋭い母の視線を感じたので、仕方なく歩を進めることにした。

 背後からバタンとドアの閉まる音がして、その衝撃で屋根に降り積もった雪が一塊落ちて来たのが横目に見えた。


 それきり、辺りから雪を踏み分ける靴音以外の音が消えて、未だ止まない雪が少し僕の髪を白く染めた。


 そこから五分ほど歩いて、自分の通う高校の正門にたどり着いた。校門に立っていた雨の日だろうと雪の日だろうと声の大きい体育教師の横を素通りし、下駄箱で靴を履き替えた。

 寒さで冷えた上靴はまるで素足でスケートリングに立ってるみたいだったから、心の中で僕専用の秀吉が欲しい。なんて、打ち首もののことを考えながら二階にある教室へ向かった。


 僕の席は一番後ろの列の窓際なので、教室後方側のドアを開けて、真っ直ぐ進めばいい。今日も今日とて、その手順をなぞって喧騒の中誰からも挨拶されることも、誰に挨拶することもなく自分の席に着く。

 一限の授業の教科書を机の中に入れて、片肘をついて始業の時間を待つ。窓から微かに漏れる隙間風のせいで少し肌寒い。

 この窓際最後尾の席を羨ましがる奴は多いが、冬に限ってはそうではないと思う。暖房の温度、上げてくれないだろうか。


 そんな益体のないことを考えると、すぐ隣から椅子を引く音が聞こえる。音につられて横を向くと、想像通り隣の席の女子が登校して来たようだった。

 彼女は、周りのクラスメイトたちにひとしきり、おはようと声を掛けると、最後に僕の方を向いておはようと言った。

 僕は、無言で会釈を返しただけだった。


 毎日、彼女は律儀に僕に挨拶をしてくれる。おはよう。また明日。そんな風に。


 でも僕は毎日、それに無言で会釈を返すだけだった。一度たりとも、僕は彼女に挨拶を返したことが、ない。

  

 最初は、明るいクラスの人気者の道楽だと思っていた。だけど、僕が無言で頷くだけの日々が三日たって、一週間経って、一ヶ月が過ぎても彼女は笑顔で接して来た。

 なんの意味があるのだろうと純粋に疑問だ。無駄なエネルギーの消費は、あまり僕の好むところではない。

 でも、無益なことをして、無益な男に笑顔を向けるあの人はいい人なんだろうなと思う。


 今日も、いつも通りだと、窓を額縁とした銀世界に視線を移した。


 まだ誰の足跡もついていない一面の白が、どこにも足を踏み出せないでいる僕を描いてるようだった。

 

 隙間風の鬱陶しさに耐えながら、授業を受けて昼休みになった。


 僕は毎日昼休みになると、席を立つ。まず購買に行って、その日の気分で良さげなパンを買う。

 今日は、チョココロネを買った。


 そして、目的地へ向かう途中の自動販売機で缶コーヒーを買って、さらに歩を進める。向かうのは、最上階である三階の、さらに先。


 ポケットから少し錆びた鍵を取り出し、鍵を開け、ドアノブに手をかけた。重いドアを開けた瞬間、冷気が屋内に飛び込んでくる。

 しかし、朝とは打って変わって、ためらいなく、冷気が漂う側へ進んだ。


 いつも、昼食はこの屋上で食べるというのが、僕の入学してからの欠かしたことのないルーティーンだった。

 春の日も夏の日も秋の日も、こんな雪の降る冬の日も、毎日だ。


 何が気に入ったのか自分でもわからない。ただ一人で教室で食べるよりマシだと思ったのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。

 でも、なんとなく、ここにいた方がいいような気がしている。

 案外、隣の席のあの子が挨拶してくる理由もこんなもんなのかもしれないと、ぼんやり考えてパンの袋を開けた。

 

 昼になって日差しが出てきているが、昨日の夜に降り積もった雪は未だこの屋上にも白い絨毯を敷いていた。


 一応、対策でコートとマフラーは着用しているが、寒い。特に手が。そりゃそうなのだが。


 温かい缶コーヒーを懐炉代わりにして暖をとる。急速に熱を失っていくアルミ缶が、なんだか愛しかった。


 扉を背にしてもたれかかり風を防ぐ。当然温かいわけではないが、風が扉の向こう側から吹いているのがせめてもの幸いだった。


 雪にせいで座りこめもしないので、仕方なく立ったままパンの袋を開けた。チョココロネの一口目をかじろうとした瞬間。


「美味しそうだね。僕にも一ロール分くらい分けておくれよ」


 声は頭上から降ってきた。正直、心臓が飛び出るかと思った。


  ふと頭上を見上げると、確かに人がいた。一人の、少女だった。おそらく、取り付けられている古びた梯子をよじ登ったのだろう。

 扉の上にある学校の最上部分とも言えるスペースに、短い黒髪を揺らしその少女はひっそりと座っていた。


「…危ないですよ」


「でも、いい眺めだよ。散歩してるおじいさんが見える」


 それの何がいい景色なのかわからない。少女の実体のない発言に顔をしかめていると、何が面白かったのか、彼女はケラケラ笑って、僕を手招きした。


「おいでよ、せっかく屋上にいるんだから」


 いるんだからなんだよ。と心の中で思いながらも素直に梯子に手をかけてよじ登り、少女の隣に立った。


珍しい「僕」という一人称に違和感を覚えなかった理由が今わかった。

男女という原始的な区別の上を行く爽快感をまとっているのだ、彼女は。


 赤茶色い錆びがこびりついた手を見て顔をしかめながら。


 柵もなにもない危険極まりない場所に立って、周りの風景を眺めた。いつも屋上にいたはずなのに、周りの風景を見ようなんて考えたこともなかった。


「ま、座りな座りなー」


 銀世界を眺めて終えた俺に、少女はそうやって自分の隣のスペースを叩いた。ここに座れということらしい。

 積もった雪を軽く払って、隣に座る。スラックスが湿ったのか、臀部に不快感を感じた。


 気を取り直して、チョココロネを一口かじった。横から視線を感じたのでかじっていないほうからワンロールちぎって彼女に渡した。

 彼女は嬉しそうにそれを食べていた。


「人がいて驚いたかい?」


 チョココロネを飲み込んで、手についたチョコを舐めながら彼女は聞いてきた。


「ええ、驚きました」


「それにしては表情全く変わってなかったけどね」


 彼女は僕の反応が薄かったのがお気に召さなかったらしく、頬を膨らませていた。実のことを言うと、驚きすぎて固まっていただけなのだが。


「でも多分僕の方が驚いたよー。誰もこないって高を括ってたら君が平然と入ってきたからさー」



「僕に気づいてなさそうだったから仕返しに驚かそうとしたのは成功したわけだね。よかったよかった」


 どうやら、理不尽極まりない理由で僕の心臓は飛び跳ねる羽目になったらしい。僕の口とと左手がチョココロネで埋まっていなかったら、どうにか、目の前の得意げな顔を霧散させてやろうと思ったけれど、チョココロネの甘さに免じて大目に見ようと思う。


「あ、そういえばさ、知ってると思うけど、ここって立ち入り禁止らしいんだ。どうやって入ったの?」


「近所の、もぐもぐ」


「人と話すときは話すか食べるかどっちかにしなさいって習わなかったの?」


「……」


「あ、食べる方優先するんだ」


 どうやら口が埋まっているからこそできる意趣返しもあったらしい。


「近所の兄さんがこの学校の卒業生なんで鍵もらったんですよ」


「あ、なるほど。そんな手があったんだね」


 彼女は、悪い子だーと足をばたつかせながらくすくす笑う。なんだか彼女を掴めない、彼女の周りの空気だけふわふわ浮いてるみたいだ。


「にしても、ここはいい場所だね。君はいつからここにいるの?」


「入学してから、毎日」


「友達いないの?」


「ほっといてください」


 確かにいないが余計なお世話だ。


「なぜ僕もここに毎日来るのかなんてわからないんです」


「ほう」


「やかましい教室にいるよりましだったのか、人目を避けたかったのか。でも、一つ確かなことがあるなら、ここが嫌いなものを感じられる場所だったんですよ」


「被虐体質なの?」


「そうかもしれません。今だってこの嫌いな冬の冷風に耐えながらこうしているんですから」


「多分ここにいれば、嫌いなものを直視していられたんです。嫌いなものが、得体の知れないものじゃなく、確かなものになってるから、安心したんでしょうね」


「こじらせてるなあ」


「ほっといてください」


「君は、納豆とか食べれないタイプだろう?というか見た目と匂いだけで口にしたことないタイプ」


「はあ?よくわかりますね」


 当たりだった。


「わかるよ、食わず嫌いしてます。って話だったもん君の話は」


「嫌いなものが増えるのが怖いから、日常から外れるのが怖い。だから、毎日多分ここに来るの」


「そうなのかも知れません」


「全く君はメトロノームみたいなやつだな」


「はい?」


「決まった動きしかしないだろ?だからメトロノーム。あ、悪いと言ってるわけじゃないよ」


「僕が正反対の考え方だからよくわかるんだ。私は嫌いなものを好きになろうする寄り道で疲れるタイプだから」


「でもさ」


 彼女はそう呟いたかと思うと、僕の缶コーヒーを唐突に飲み始めた。突拍子のないことをしすぎだこの人は。

 そうやって喉を鳴らし終えた彼女は、僕にこう言った。


「冬の冷風も、たまには悪くないよ。ほら、温かいコーヒーが、こいつのおかげでこんなに美味しい」


「コーヒー、飲んじゃってすまないな。お詫びに放課後ここにおいで。僕がバイトしている喫茶店。お姉さんが一杯奢ってあげよう」


 そう言いながら、彼女はポケットから一枚紙切れを取り出して僕に握らせた。あっけにとられている僕は、言われるがままその紙を受け取った。


「きっと、君なら来れるし、ちょっと欲しいものが見つかるかも知れない」


 そう言い残して、彼女は梯子を降りて校舎の中に消えていった。まるで嵐みたいな人だ。


 彼女が消えていったドアを見つめた、ドア音がやけに遠く異世界の出来事みたいに聞こえた。


「君なら来れる?来るじゃなくて?」


 そうひとりごちながら、チョココロネの袋をぐしゃりと潰した。


 入学して一年と、三つの季節をここで過ごした。でも、その時間の中に人の影はなかった。

 僕より先に雪に足跡が付いている日はなかったし、迷い込んだ桜の花びらに足跡がついていることも、なかった。


 でも今日は、迷い猫が台風を連れてやってきた。だから、風に吹かれて初対面の人間にあんなにペラペラ何かを話してしまったのだろうか。


 そういえばと思い、下に目を向けてみると、確かに僕とは明らかに違う大きさの足跡が残っている。


 これを見逃す僕も僕だが、仕方ないと思う。人は、非日常にはそうそう気付けない。ただそこにある日常、代わり映えしない景色が当たり前だと思っているから。

 そして、僕はその代わり映えしない日常を好む人種だから、なおさら鈍いのだと思う。


「メトロノームか」


 言い得て妙だと思う。僕とは正反対に見える彼女だからこそ適切な表現ができたのだろうか。

 少し、彼女に興味を持った。喫茶店とやらに行く気が少しだけ出た。


 始業五分前の予鈴が鳴っても僕はまだ、言われた言葉を反芻し続けていた。



「ここか?」


 学校からほど近くの閑静な路地の突き当たり。彼女から与えられた住所付きの大雑把な地図が示すのは、扉の前に置かれた簡素なメニューボードを見る限りここのようだった。


 元は酒屋か何かだったのではという雰囲気の平屋の日本家屋。しかし、その雰囲気は古臭さに繋がるものではなく、落ち着きや、安心を誘う外見だった。

 あまり僕は詳しくないが和モダンというやつなのだろうか。


 結局僕は、あの台風のような人の誘いに乗って、ここに来た。欲しいものが見つかるという甘言に引き寄せられたのではなく、なんとなく自分と正反対だと言った彼女の価値観が気になった。それだけだ。


 外にいても漂ってくるコーヒーの香りに誘われるように、扉を開けた。


 小気味いいドアベルの音といらっしゃいませという声に迎えられて店内に足を踏み入れる。


「やあ、メトロノームくん。いらっしゃーい」


 昼休みぶりの少し間延びしたような声が聞こえた。声の方向を見やると、カウンターに喫茶店らしい制服をまとった彼女がいた。


 少し硬いような印象を受ける黒を基調とした制服は、ふわふわした彼女の印象を大人っぽくさせていた。

 なのになぜこんなにも威厳とかを感じないのだろうか。

 制服の効力を本体が上回っているからだろうなと考える。


「お客様だよ」


「…いらっしゃいませ」


 そんな彼女をやんわりとたしなめるのがカウンターで丁寧な仕草でグラスを拭う作業をしている白い髪をオールバックにした渋い中年だ。

 おそらくここの店主なのだろう。


 店内を見回すと今の所僕以外のお客さんらしき人影はない。

 仄暗く、コーヒーの匂いで満たされた店内には、ところどころに意匠の凝らされたアンティークが散りばめられている。

 だからだろうか、どこか、おとぎ話の魔女の家を連想してしまう。


「お座りください」


 そういって店主と思わしき人物は、自分の目の前のカウンター席へと僕を誘った。

 木製の椅子を引いて、席に着く。


「改めて、いらっしゃいませ。裸の王様の喫茶店へようこそ」


「裸の王様の喫茶店?」


 思わぬネーミングセンスに思わず聞き返してしまう。そういえば、店名の記載された看板は店先にはなかった。

 先ほどおとぎ話の魔女の家を連想したが、おとぎ話でも裸の王様?


「ええ、そうです」


 店主は、一つ咳払いをするとこう続けた。


「この喫茶店は、何か見えないものを求めている人間にしか、見ることができません」


「この喫茶店にいらっしゃるお客様は、皆迷い人なのです」


「そんな迷い人に、求める一杯をお出しする。それがこの喫茶店です」


 どうやら今日はあっけにとられることが多い日らしい。店主が言ったことは、おいそれと頷ける内容ではなかった。

 迷い人にしか見えない喫茶店。そんなものを信じる方がどうかしている。


 でも、なぜだろうか、その言葉は自然と口からこぼれ出た。


「そうですか、だから裸の王様の喫茶店」


「はい、裸の王様の服のように、見える人には見えるのです」


 なるほど。なぜここまでストンと心に納得が落ちるのかはわからない。

 でも、これが嘘でも、なんでもよかった。


「何か、いただけますか」


「はい。ですが、当店にメニュー表はありません。その人に必要な一杯があるからこそお客様はここにいらっしゃる。それに応えるのが、私たちの仕事ですので」


「では、お願いします」


「ええ、承りました。ですが、今日一杯をお出しするのは私ではありません」


「「え?」」


 疑問の声が重なる。


「あなたをここに招いたのは、彼女です。ならば、あなたに必要な一杯をお出しするのは、いえ、お出しできるのは彼女です」


 そうやって、店主と僕は、彼女を見やる。冷や汗をかいて「僕聞いてないんだけど…」と呟いている彼女を。


 僕はただ彼女を見つめ続ける。欲しいものが見つかると、そう僕に言った彼女を。

 僕に何かを、コーヒー一杯で与えられるとしたら確かに彼女だろう。


 僕の見ている世界を反転させた世界を見ている彼女だからこそ。


「コーヒーなんてはじめて淹れるんだけど、メトロノーム君大丈夫かな」


「大丈夫だ。それだからこそ伝わることがある」


 どうやら覚悟を決めたらしい彼女は、袋詰めにされた幾多のコーヒー豆とにらめっこした後、その中から数種類を選び、コーヒーミルに入れていく。


 そして、店主に手伝ってもらいながら、明らかに不慣れそうながらも、豆を挽き始めた。

 ゴリゴリという音がして、豆が粉末にされていく。


 コポコポとお湯が沸く音がした。ドリッパーに粉末となった豆を丁寧に配置すると、慎重にお湯を注いでいく。


 一滴、また一滴、コーヒーが出来上がっていく。彼女が人生で初めて淹れた一杯が。

 僕の何かを埋めると銘打たれた一杯が。


「ど、どうぞ」


 アンティーク調のコーヒーカップになみなみと注がれた、黒い液体が僕の前に差し出される。


「そういえば、コーヒーの味なんてロクにわからないけど、大丈夫なのかな」


「大丈夫です、味以外にも伝わる部分は、たくさんありますから」


 なんとなく、緊張感を覚えながら、コーヒーカップを持ち上げ、口に近づける。

 ゆっくりと、口腔内に苦味と酸味を含んだ液体が侵入してくる。


 美味しい、とは思わない。でもなんだろう、安心する。


「ど、どう?」


「苦い…」


「それだけ!?」


「いや、安心する。冬風がなくても、美味しい」


 うん、店主が言っていた、僕に必要な一杯というのが何かわかった。

 きっと、魔法でもなんでもない。ただ、淹れた人がどんな人で、どんな表情で、どんな状況でこの一杯作ったのか考える。

 多分、僕に必要な最初の一歩はそれだけだ。


「そうだな、怖がらなくても大丈夫だよ。って味だ」


「…メトロノーム君は、卒業できたのかな?」


「卒業はしなくていいよ、って味です」


「なんか都合よく解釈してない?」


 そうやって、僕と彼女の益体のない話は、僕がコーヒーを飲み終えるまで続いた。

 ゆっくり、ゆっくりと時間は流れた。


 日が暮れて、僕は店を出た。夕焼けをの残滓が残る空を見て、明日は晴れだと思った。


 最後に彼女が、決してまたのご来店をお待ちしておりますとは言わないのだと、耳打ちで教えてくれた。

 迷いがまた生まれないようにという気遣いなのだそうだ。代わりにお足元にお気をつけくださいと、彼女は言った。

 それには、単純で、複雑な思いが込められていたような気がした。


 そのまま、何かを考えながら家に帰って、ベッドに倒れ込んだ。

 なにを考えていたのかは明日の僕が知っていると思う。最後にそんなことを思って、僕は温かいまどろみの中に落ちた。

 コーヒーみたいに温かいまどろみに、落ちていった。


 いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。風呂にも入らず眠ったせいで、体や髪がベタついて気持ち悪い。

 シャワーを浴びようと思って、倒れ込んでいたベッドから身を起こす。カーテンを開けると、かすかな朝日が部屋と目に飛び込んでくる。


 時計を確認すると、いつも起きる時間の一時間前だった。昨晩いつ意識のシャットダウンが行われたのかはわからないが、明らかにいつもよりも随分と早く寝たはずなのでそれも当然かと思い、伸びを一つした。


 朝日を浴びたからだろうか。やけにはっきりした意識に少し気分を良くしながら、一階に降りた。

 まだ、薄暗い一階は、なぜか見慣れなくて空気がひんやりしている気がした。

 シャワーを浴びて、髪を乾かしリビングに出るといつの間にか起きてきたらしい母が、キッチンに立っていた。


 朝の挨拶を交わしてダイニングテーブルに着くと、母が焼けたトーストと目玉焼きを置いてくれた。

 リビングに見慣れた風景が帰ってきたと思いながら手を合わせた。


 ちょうど、朝食を食べ終えた頃、階段を誰かが降りる音と、玄関が開く音がした。どうやら父が朝刊を取りに行ったらしい。ポストの小気味いい音が聞こえた。


 その音を合図に、もう一度自室に戻って、学校の準備をすることにした。最小限の荷物で済むよう、きちんと時間割を確認して、今日の分の教科書を鞄に入れた。

 教科書が重い国語と日本史の授業がなくてやけに鞄が軽く感じた。


 愛用のダッフルコートをコート掛けから外し、マフラーを巻いた。肩から鞄をかけて階段を降りた。

 父の髭剃りの音が響く中、母が準備してくれた弁当を受け取ろうとキッチンへと向かうと、ちょうどタイミングよく母が弁当包みを渡してきた。


 何の気なしに「ありがとう」と返すと、母が少し驚いた顔をした後に行ってらっしゃいと僕に返した。


 ありがたく弁当を鞄にしまい、玄関で靴紐を結んでいると、鼻歌を歌いながら玄関そばのクローゼットにネクタイを取りに来た父と目が合った。


 父は僕の顔を見ると、一瞬キョトンとした顔をしたかと思うと首にネクタイを通しながら、嬉しそうに笑った。

 そして、靴紐を結び終えて立ち上がった僕の背中を叩いて、リビングに戻っていった。


 父の不可思議な行動に首を傾げながらゆったりとドアを開ける。すると、刺すような冷気が、体を襲ってきた。

 体を震わせながらも、歩き始める。後ろから、ドアが閉まる音が聞こえてきた。


 昨日とは打って変わって、空は晴天だった。冬場特有の、凍ったような澄み切った青空だった。

 顔を出した太陽光を浴びた、雪解けの残滓の残る道は昨日同様、靴音しか音がなくて、それがやたらと耳に馴染んだ。


 そこから五分ほど歩いて校門をくぐった。いつも通り、晴れの日も雪の日もうるさいらしい体育教師が、生徒に挨拶をしていた。

 下駄箱について、靴を履き替えた。今日も今日とて僕専用の秀吉はいないらしく、上履きは冷たかった。


 隙間風が冷たい自席について、机に教科書を入れた。いつもより、少し早くついたせいなのか、人が少なく教室は静かだった。

 片肘をついて、始業を待つ。徐々に教室が騒がしくなっていくのは、まるでどこかの誰かがスマートフォンみたいに教室のボリュームを操作しているのかというくらい顕著だった。


 そんな騒がしさの中、僕のすぐ隣で机に鞄を置く音がした。目線をそちらに向けてみると、予想通り隣の席の彼女が登校してきていたみたいだ。

 周りの人間に、挨拶をしている真っ最中だった。そして、一通り挨拶をし終えると僕の視線に気づいたのかこちらを向いた。


「おはよう」


 そう、いつも通り。彼女は僕に笑顔で挨拶してくれた。そして、僕もいつも通り会釈をしようとして、途中で止めた。

 なぜ、そうしようと思ったのかはわからない。多分、理由はないんだと思う。例えあったとしても、考えるようなものじゃないとも思う。

 それでも、僕は、彼女の方を向き直ってできるだけの笑顔を作って、こう言った。


「ああ、おはよう」


 彼女は、少しの間今朝の父みたいにキョトンとした顔をしたかと思うと、一つ息を吸うと嬉しそうにもう一度僕に「おはよう」と言って席に着いた。

 その横顔は、僕の自意識過剰かもしれないけれど、満たされているように見えた。


 そうやって、いつもと少しだけ違う朝を終えて、昼休みになった。購買に足を運んでパンを一つ買った。

 今日はクリームパンを買った。


 その足で自販機で缶コーヒーを買って、屋上へ向かった。慣れた手つきで、施錠を開け、扉を押した。

 高所ゆえの風が、前髪を揺らす。その悪戯に苦笑いしながら僕はガラスみたいに澄み切った空に登ろうと、梯子に足を乗せた。


 雪に残る足跡なんてなくても、彼女がそこに居ないことはなぜかわかっていた。それでも、僕は自分の意思で梯子をつかんだ。

 

 梯子を登りきると、そこにはポツンと缶コーヒーが置かれていた。なぜか、どこかの誰かが手招きをしているような気がした。


「たまには、慣れないこともいいかもしれません」


 僕は、缶コーヒーの横に腰を下ろすと、まだ温かみの残っている缶コーヒーに自分の缶を打ち付けた。


 小さな快音が、空に響き渡った。


きっと、どこかにあるよね。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ