005 蠱惑的な……
「いちおう言っておきますけど、僕は、ケーキを食べ、コーヒーを飲むだけがお仕事ではありません」
「いや、いったい誰に言っているんだ?」
涼の主張に、書類にサインをしながら返答するアベル。
「アベル、たまにはお昼に、カレーを食べたくないですか?」
「カレー? ああ、カァリーか」
やけにかっこいい発音で言うアベル。
なぜかアベルは、こう発音する。
涼が以前から、ちょっと気になっていたことである。
「アベルは、どうして、いつもその発音なのです?」
「うん? 質問の意味がわからんが……。カァリーはカァリーだろ? 最初に教えてくれたのは、兄上だったはずだ……」
「ああ、アベルのお兄さん」
今は亡きアベルの兄は、とても優秀だと言われていた。
アベルとの仲もよかったらしい。
そんな兄に教えてもらったのであれば、今さら変わることはないというのは、涼にも理解できるというものだ。
「まあ、僕はカレーと言いますけどね」
それでも涼は『カレー』と言う。
そう、元日本人の涼としては、『カレー』あるいは『カレーライス』なのだ。
そこには、『ジャパニーズカレー』という意味合いを込めている。
なにせ、この王国には、ジャパニーズカレーが根付いているのだから。
「リョウ、もしかして、ケーキを食べることだけが仕事じゃなくて、たまにはカレーも食べるんです、とか言うつもりで誘っているんじゃないよな?」
「そ、そんなわけないじゃないですか」
涼は、いつものようにはうろたえなかった。
だが、思わず視線を逸らしてしまうのは防げなかったが……。
全てを理解したうえで、アベルは一つため息をついた。
そして言葉を続ける。
「まあいい。じゃあ、カレーを食いに行くか」
「お待ちください」
いつの間にか部屋に入って来ていた侍従長が恭しく頭を下げながら言葉を挟む。
「三十分後には、ハインライン侯爵との会議が予定されております」
「そうだった……」
侍従長の言葉に、予定を思い出すアベル。
だが涼は引き下がらない。
「侍従長さん、カレーを二人前、持ってきてください」
「……かしこまりました」
侍従長はそう言うと、部屋を出て行った。
「外に食べに行けないのはあれだが、カァリーって、そんなにすぐには作れないだろう?」
アベルも、カレーが煮込み料理っぽいものであることは、知っているらしい。
「大丈夫です。僕が毎日のように食べるので、ここの料理長さんの得意料理になって、食堂でも人気メニューになっています」
涼が得意げに言う。
「……俺は、今初めて知ったのだが」
「世の中には、知らない方がいいことはたくさんあります」
「いや、俺もカァリーは好きだから……」
「アベル、立場というものをわきまえてください! 誰もが、好きな時に好きなものを食べられるわけではないのです。もう少し、思慮をもった発言をしてほしいですね」
「なぜ、俺は怒られているんだ……」
そう言うと、アベルは小さく首を振った。
そして、なぜか涼はしたり顔で頷きながら言う。
「アベル、今回は特別に、食べさせてあげるだけです。次もこうだとは思わないことです!」
「なぜ、リョウの方が偉そうなのか」
アベルは小さくため息をついた。
五分後、アベルの執務室に、カレーの蠱惑的な香りが立ち込めたのだった。