012 権力者の不幸
その日、涼がアベルの執務室に戻ってくると、部屋の主はいなかった。
これは、極めて珍しいことである。
たいていは、執務机に、書類まみれの刑で磔られているからだ。
涼がソファーに、ぬべ~っと寝転がって錬金術の本を読んでいると、アベルは戻ってきた。
手には愛用の剣を持っている。
「剣を振ってきたんですか。アベルの剣って、魔剣ですよね」
それは、1メートルほどの刃渡りがあるが、大剣というわけではなく、地球の歴史で言うなら、いわゆるバスタードソードと呼ばれるものだ。
これは「Bastard Sword」であって、決して「Bustered Sword」ではない。
「Bastard」は、いくつかの意味を持つ単語であるが、「雑種」の意味合いが分かりやすいであろうか。
バスタードソードは、両手剣としても片手剣としても使える剣である。
あるいは、斬ることも突くこともできる剣である。
そのために、Bastard:雑種 だと言われている。
「剣を振っている間は、いろいろ雑事を忘れることができるからな」
アベルは微笑みながらそう答えた。
だが、ふと机の上の書類の山が視界に入ると、微笑みは消えた。
代わりに、小さなため息をついた。
権力者は大変だ。
涼は心の底から、そう思った。
いつも、こんなに大変なことをしているのに、民衆は批判ばかりをする……。
「アベル、僕はいつでもアベルの味方ですからね!」
「なんだ、急に」
涼の言葉に、訝しむアベル。
権力者は、猜疑心に苛まれるものだ。
「アベル、疲れている時は、甘い物を食べるのは有効ですよ?」
「……それはケーキを食べたい、と言っているのか?」
アベルの回答に、涼は無言で何度も頷く。
そこで、アベルは何かに気づいた。
「リョウ……俺が帰ってくる前に、今日の分のケーキ、食べたろう?」
「ギクッ……な、ななななななな何を言っているのかな、アベルは」
権力者は猜疑心に苛まれるものだ……それは、周りを不幸にする。
「あ、アベル、適当なことを言うのは感心しませんね」
涼はそう言いながら、見るからに挙動不審である。
「いや……だって、リョウの口に、生クリームがついているぞ」
「しまった!」
慌てて、口を拭う涼。
ニヤリと笑うアベル。
「というのは、もちろん嘘だ」
「だましましたね、アベル!」
権力者は……猜疑心に苛まれ……周りの人間は不幸になるのである。
とはいえ、アベルの執務室は、いつも通り平和なのだが。