崖
アタシの一人の安息の場所はサミュエルによりどんどん奪われていった。図書館も、中庭の隅っこも。移動教室の時でさえ、ひょこひょこと顔を出してくる。その隣にはシルがいて、楽しそうにしたり顔でニヤニヤしている。
……マジムカつく。
シルを問い質したいけど、それを予期しているかのように、シルはサミュエルの傍を離れない。故に二人になって思いの丈をぶつけることができない。それなのに、そんな二人から逃げることさえできないアタシに残された安息の場所は、アタシが平民に殺されたあの崖となっていた。
少しでも誰の目にもつきたくないアタシは、ルネに言って昼食を弁当にしてもらっていた。一人、風通しの良い崖っぷちで、ランチするのだ。まだ春先ということもあり、寒い。非情に寒い。だけど誰にも近寄られないので心は温かい。そんな気がする。温かいスープもあるしね!
「リュシエンヌ様、よろしいかしら?」
崖っぷちで寒々しく震えるアタシに、女性の声が聞こえて振り返る。そこには、いつもサミュエルの取り巻きをしているモブ嬢たちがいた。
はいはい、いつか現れると思っていましたよ。アタシは防衛機制の前に、意識を手放しそうになりながらも、サミュエルに指摘されたあと、シルに唆されてしでかしたことを思い出していた。
目の前を後ろ歩きで歩き続ける? そんなにサミュエル殿下を見つめていたいのか!
手作りお菓子を上げる? 好きな人へのアプローチか!
ちょっと冷静になれば分かることなのに、なぜアタシはあんなにもシルを信用してしまったのか。
なぜかシルの言葉には嘘などなさそうな気がしてしまったのだ。シルの言葉には無条件で人を信用させる力がある。いまさら嘆いても取り戻せるものでもないけど。
アタシは一つ溜息をついてモブ嬢に向き直った。
「なんでしょう?」
「リュシエンヌ様はサミュエル殿下をお慕いしていらっしゃいますの?」
「そうですね……。皆さまと同じように次期国王陛下として尊敬しております」
「では、その陛下夫人になりたいとお考えなのですか?」
「そんな恐れ多いこと考えてもおりません」
「そんな風には見えません!」
憤ったモブ嬢たちは顔を赤らめて声を荒げる。言葉にした内容は予想通り、アタシの言動はサミュエルの気を引きたい一心によるものとしか思えないということだった。
はいはい。そんな言葉の返事くらい用意していますよ。と言いたいところだけど、ルネ相手に言い返すようにはうまくいかない。ルネを相手にするときは、自分の意志でした言動の説明及び弁解だから、このシルに唆されて知らず知らずの間に陥っていた罠の説明なんてできるはずもない。
誰がなんと思おうとアタシは、盲目的にサミュエルに嫌われようとこなしていただけなのだから。
結論。とにかく謝る。生死が関わっているのにモブ嬢の相手まで真面目にしていられない。
「そうですか。誤解させてしまったのなら申し訳ございません。わたくしの不徳の致すところです。今後は重々気を付けたいと思います」
それだけ言って深々と頭を下げた。このモブ嬢たちの胸の家紋を見る限り上級貴族だ。それでもミシェーレ公爵家よりも地位がある者などどれだけいようか。そんな存在限られている。アタシが恭しく謝ってしまえばそれ以上好きに言える者などいるはずがない。
「ご理解いただければそれで良いのです」
予想どおりモブ嬢たちは鼻息を飛ばして悔しそうだ。きっともっといろんな言葉を考えて言い含めようとしていたのだろう。考えた言葉を披露できないないんてかわいそうなことしたわ、なんて心の中は余裕綽綽だ。
「それと!」
おっとぉ! まだあるか!
正直、考えなければいけないことはたくさんある。モブ嬢に構ってなどいられない。だけど、アタシも公爵家令嬢。ふんわり笑顔で余裕の対応をする。
「なんでしょう?」
「シルヴァン様に色目を使うのもおやめになられた方がよろしいかと思います!」
シルヴァン……? 誰それ。
「シルヴァン様、とは……?」
「まぁ。さすがリュシエンヌ様、面の顔がお厚いですこと! わたくしたち存じておりますのよ。こちらで二人、破廉恥なことをしておりましたでしょ!」
破廉恥……? 破廉恥とはいやらしいことをしていたということ? 身に覚えはないのだけど……。
「申し訳ございません。おっしゃっている意味がよく分かりません。破廉恥なこととは?」
そう聞き返すとモブ嬢たちは、湯気が出そうなくらい顔を真っ赤にした。
「まぁ! リュシエンヌ様にとってあの行動は破廉恥ではないということですの?」
「淑女たるもの、決まったお相手と縁を結ぶまでは純潔を守るのが使命というもの!」
「なんということ! ミシェーレ公爵家の令嬢がすでに! 恥ずかし気もなく堂々と!」
ちょっと待て。このモブ嬢たちによると、破廉恥なアタシはくそビッチってことになっているみたいだ。勝手に話を進めないでほしい。破廉恥行為の覚えもないし、間違いなくアタシは前世を含めても生娘だ。
「本当に分からないのです。純潔は守りぬいておりますし、破廉恥なことと言われても本当に身に覚えがないのです。皆さまは何をご覧になってそうおっしゃっているのですか?」
あきれ顔で荒い口調で話してくれたモブ嬢たちによると、この崖でアタシがシルに激マズクッキーを無理やり口の中に突っ込んでいたところを目撃したらしい。
そして、シルがシルヴァン・デュホォンで、その口に激マズクッキーを押し込んでいたところが、仲睦まじく「あーん」しているように見えたようだ。それが破廉恥行動だと。
なるほど。傍から見ると仲良くイチャイチャしているように見えた、と。
サミュエルにクッキーを食べてもらうため味見してもらっていた。とか言うと更に話がややこしくなりそうだ。あえて激マズクッキーを作っていたことがバレたら、光の速さでこのモブ嬢たちは噂を流しかねない。
ミシェーレ公爵家令嬢のアタシに、分かりやすく突っかかってくることなどないとタカをくくっていたけど、異性が絡むと相手が誰であっても本質を隠せなくなるのは前世も現世も変わらないらしい。
「誤解を生むような行動をしてしまったことは謝罪いたします。ですが、あれは、その……わたくし兄がおりまして、シルはなんというか……面倒見の良い方でしょう? つい兄と一緒にいるときのような感覚になってしまいましたの。兄はずいぶん甘やかしてくれるもので……決して他意はありません」
シルを兄と思って、というのは真っ赤な嘘でしかないが、二人の兄に自慢の妹だと、でろんでろんに可愛がられているのは本当だ。
「では、リュシエンヌ様はサミュエル殿下のことも、シルヴァン様のこともお慕いしていらっしゃるわけではない。ということでよろしいのですか?」
「えぇ。その通りです。本当に皆さま方にはわたくしの考えが足りない行動により、不快な思いをさせてしまって申し訳ございません。以後気を付けます」
しょんぼり感を前面に出して、項垂れて見せた。チロっと盗み見すれば、モブ嬢たちは心底呆れた表情で顔を見合わせ、はぁーとため息をついている。……これで終わりのはず。このアタシがここまで下手に出ているのだから。
「ご理解いただければそれで良いのです。その……わたくしたちも上級貴族の人間です。ですから……誤解なのでしたら、リュシエンヌ様もご自身の行動については重々責任を持たれた方がよろしいかと存じます。しかしながら、気が高ぶってしまい、行き過ぎた言葉もあったかと思います。申し訳ございませんでした」
モブ嬢たちはそう言って、先程までの失言を取り繕うように、頭を下げた。
「よろしいのですよ。すべてはわたくしの未成熟な行動が原因です。どうかお気になさらないでください」
モブ嬢たちはもう一度恭しく一礼して去って行った。やはり最終的には家格にビビって謝ってきた。だけど感情どおりの言動ができる人は分かりやすくて好感が持てる。もうモブ嬢と心の中で呼ぶのはやめておこう。まぁ、名前も知らないし、もう顔も思い出せないけど。
しかし! それどころではない!
シルヴァン・デュホォンと言えば、攻略対象の一人だ! どこかで見たことあると思ったけど、サミュエルの友人だから取り巻き連中の一人として見たことがあるのだと思い込んでいた。
シルといえば確か……こげ茶色のストレートヘアにグリーンとグレーが混じったような瞳の色。楽しいことが大好きで好奇心旺盛な小動物系。
……何それ。二言、三言喋ったらすぐに分かるよ! アタシの前世の記憶マジクソ。それに、小動物系なのは見た目だけで、その実、狡猾だ。悪魔だ。悪魔と死神のダブルワーカーだ。
シルと名乗られたからなんの疑いもなく「シルかぁ」と思った自分を殴ってやりたい。ちくしょー。こんなにも危うくショボイ前世の記憶が恨めしい! 気付かないうちに攻略対象に囲まれてたじゃん!
だけど、一つだけ光明がある。シルは気付かないうちに回避できていたことだ。あの時シルは「じゃあ、またいつかタイミングが合えば」と言った。普通ああいう物言いをするときはもう関わる気がないときだ。サミュエルの隣にいて結果的にアタシとも一緒にいることになっているが、シルはアタシとではなく、サミュエルと一緒にいるにすぎない。
状況を引っ掻き回されてかなり不快だったけど良しとしよう。あとは、夏休みまでサミュエルをできるだけ回避しつつ、他の攻略対象からは距離をとる。それしかない。
留学できる気満々だったアタシの元に叔父からの手紙が届いた。ウッキウキで開いた手紙の内容はこうだ。
『留学について考えるのは時期尚早ではないか? もう少し学院生活を楽しんでゆっくり考えなさい』
幻滅だ。あんなに可愛がってくれているのに、留学となると手のひらを返すようにそっけない。
でも負けない。情報を集めて、アタシはこの学院どころか、この国から出て行く!