気付けばいつも。
その日、アタシは中庭の隅でぼーっとしていた。
図書室はサミュエルに見つかるから、しばらく行くのは控えることにした。それなのに……。サミュエルから逃げているはずなのに、なぜ今目の前にサミュエルがいるのか……。丁重にお断りしたはずなのに、サミュエルはクッキーのお礼をしたいと引いてくれない。
「サミュエル殿下、何度も申し上げましたように、そのお気持ちだけで充分です」
「ですが、あれほどおいしいクッキーをいただいたのです。なんのお返しもしないなんて、僕の気が済みません」
「はぁ。けれどもサミュエル殿下ほどの方ですと、手作りお菓子をふるまわれる令嬢も後を絶たないのではないでしょうか? そのたびにお礼をするというのは少々面倒なのでは……」
アタシの言葉にサミュエルはキョトンと目を丸くした。アタシの言葉の意味が分からないといった様子だ。そのキョトン顔に思わずアタシもキョトンだ。
「手作りお菓子をいただいたのはリュシエンヌ嬢が初めてですが……。ですから僕はなおのこと嬉しかったのです。その……リュシエンヌ嬢には嫌われているのだとばかり思っていたものですから……」
嫌ってはいないのだけど、死神からは離れたいよね……。て、ちょっと待って! 初めて? そんなはず……。
「あの、サミュエル殿下。学院では交流の一環として、手作りお菓子を持ち寄ることがあるのではないのですか?」
シルが言っていたのだ。友達のいないアタシにそう情報をもたらしてくれたのだ。シルが!
そう尋ねてもサミュエルは意味が分からないとばかりに首を傾げた。
「そういった風習があるのですか? 僕は経験したことありませんけれど……」
シルめっ! 嘘ばっかりかよ!
「ですが、わたくしはシルから、そういう風習があると伺ったものですから、お菓子を差し上げても失礼にならないと思って……」
シルが言うからお菓子をあげただけで、アタシに他意はないとお伝えする。シルに丸投げだ。シルのせいでこうなったのだからシルが責任を持つべきだ。自分の尻は自分で拭いてもらう。
だけど、サミュエルはどうしてもアタシを問い詰めたいようすで、質問を止めてはくれない。
「シルに?」
「えぇ。シルもどなたからか頂いたと小袋を見せていただきました」
「シルがどなたからかのプレゼントを……? それも手作りお菓子を、ですか?」
「えぇ。頂いたのだと。学院ではよくあることだと教えていただきました」
その風習をいいことに、サミュエルから距離を取ろうとしていたとは口が裂けても言えないが、困っていることが伝わるように、小首を傾げてサミュエルに聞こえる程度の声で呟いてみる。
「どういうことかしら……」
サミュエルは目を見開き、口をポカンと開けている。
「そんなはずはありません。シルは他人への警戒心が強い男です。人から何かもらうなど……ましてや食べ物を……あり得ません」
「ですが、本当に小袋を見せていただいたのですよ」
「……中身は見せてもらいましたか? その小袋とはどんな袋だったのですか?」
「……中身は見せてもらっていません。袋は茶色い革で出来たものだったと記憶しております」
サミュエルは合点がいったように、目を閉じて何度か頷いて見せた。
「それは、どなたからかの頂き物ではないはずです。シルはいつも革袋の中に薬を持ち歩いているので、恐らくリュシエンヌ嬢はそれを見せられたのだと思います」
「薬……ですか?」
サミュエルの話によると、シルは数種類の解毒薬を常に携帯しており、アタシが見せてもらったあの革袋の中身が恐らくそれだろうということだった。
最初から! 最初から嘘だった! まんまとハメられた! まるで、サミュエルから逃げたいアタシを近づけて楽しんでいるみたいじゃない。
……数種類の解毒薬を常備しているなんて、いったいシルはどんな人生を歩んできたのか……。
「そう……なのですか……」
半ば呆然としたアタシに吐き出せた言葉はそれだけだった。もう一人にしてほしい。ちょっとゆっくりとシルに唆されてした言動を振り返りたい。いや、二度と思い出したくない気もする。
「シルになんと言われたのですか?」
そんなアタシの心の動きは全く読んでくれず、サミュエルは更に質問を重ねてくる。全然アタシを逃がしてくれない。もう腹を括って全部ぶちまけた方がいっそスッキリするのではないかとさえ思う。ぶちまけられるはずもないけど。
「ですから、学院は出会いの場であり、女性が殿方に手作りお菓子を差し上げるのは至極当然のことと……」
「そう言われたのですか……。シルが手作りお菓子を受け取るような人間ではないのは明らかなので、問題はなぜ、リュシエンヌ嬢に自分ももらったなどと嘘をついたのかということですが……」
「おそらく、わたくしが担がれたのでしょう」
「担ぐとは……?」
……言えないことが多すぎて口を噤むしかできない。だんまりを決め込み俯くアタシにサミュエルが言う。
「……よく分からないのですが、リュシエンヌ嬢が僕に手作りお菓子をくださったのは、好意によるものではないということでしょうか?」
淋しそうに顔をしかめて、下唇を噛むサミュエルに好意以外の言葉をかけることなどできるはずがなく、アタシは慌てて取り繕った。
「いえ、そうではなくて、シルにそう聞いて、いつも図書室でお話しくださるサミュエル殿下にわたくしもお礼をしたいと思ったのです。ですから本当に! 本当に! サミュエル殿下からのお礼は不要なのです。わたくしのクッキーがお礼なのですから、それにまたお礼をされると終わりがなくなってしまいます」
「……でしたら、これからもお会いした時にはリュシエンヌ嬢に話しかけることでお礼をしたいと思います」
ニッコリと安心したように笑うサミュエルを目の前に絶望を隠し切れない。それこそ本末転倒ではないか。
たぶん、今のアタシの顔色は血の気が引いているだろう。死神がきれいな笑顔で軽やかにどんどん距離を詰めてくるのだから。
あぁ。サミュエル殿下の後ろに大鎌が見える気がする。
「それでは、やはり終わりがありませんわ。結局お礼していただくことになるのですもの」
サミュエルは真意を探るような目で、アタシをじっと見つめた。
「では、今後僕に近付くなと?」
わぉっ。直球来たぁぁ。
「いえいえ。そんなこと思うはずもありません。一国の王子に近付くななどと思う不届き者がいたらわたくしが許しません!」
あぁぁぁぁぁ。死神が近付いてくる。むしろシルのせいで自分から近付いていってるーー。
髪の色を変えたのも悪目立ちしてサミュエルの興味を引く結果になったみたいだし、お菓子にいたってはシルに仕掛けられたものだったし。なんかもう詰んだ。
「では、今後も仲良くしてくださいね」
「……もったいないお言葉です」
きらきらスマイルを浮かべるサミュエルにそうとしか返せなかった……。初めて知った。アタシは上下関係の下になると上には逆らえない小心者だ。前のアタシだったら絶対にしない言動で乗り切ると固く誓ったのに。シルにはあんなに好き勝手できたのに……。
うん。詰んだ。諦めないけどねっ! 死亡フラグからは力の限り逃げ切ってやるんだから!
今まで一人になれていた空間がどんどんサミュエルに侵略されてきていた。図書室と中庭の隅っこにもサミュエルは顔を出し、最近では食堂で昼食をとるときでさえ、同じテーブルに着くようになっていた。
サミュエルの横には当然のように「じゃあ、またいつかタイミングが合えば」と満面の笑みを顔に浮かべて、アタシの前から去って行ったシルがいる。
いつの間にタイミングが合ったのか、アタシには知る由もない。
サミュエルからは見えないように思い切り睨むと、シルは楽しそうにクスクスと口元に拳を充てて笑う。その余裕そうな顔にムカついて怒りを露わにした顔をすれば、またおかしそうに顔をくしゃくしゃにして笑った。
「お二人は、とても仲がよさそうですね……」
どこの部分をどう切り取って仲良し認定したのか、仲間外れにされた子供のようにサミュエルはむすっとした。
アタシはサミュエルのその言葉に唖然として、シルはまた楽しそうに笑う。
シル。笑ってないで仲良くないと言ってよ!
アタシの心の声はきっとシルの心に届いているはずだ。その上であえて無視しているのが伝わってくる。ニヤリとしながらアタシとサミュエルの顔を交互に見て、成り行きを見守っているようだ。
「サミュエル殿下。わたくしとシルの仲が良さそうだなんて見間違い以外の何物でもありませんわ。どちらかと言うと犬猿の仲です」
「犬猿の仲ですか……。以前、リュシエンヌ嬢は僕が極刑しないと言い切れるほど僕のことを知らないとおっしゃいました。シルとは犬猿の仲だと認識するほどの密な関係を築いているということですか?」
サミュエル殿下のことは死神と認識しておりますから、ご安心ください。と言いたい。
「そういうわけではございません。シルとは数回お話をしたくらいです。ですが、そのたった数回の中で嘘を吐かれていたのです。サミュエル殿下もご存知でしょう? 手作りお菓子のことです。そんな方をどうして手放しで迎えることができるでしょうか」
「それだけが理由ですか?」
「と言いますと?」
サミュエルが言おうか言うまいか考えるように視線を彷徨わせた。瞳に強い光が宿り、また何か返答に困ることを言われるのだと確信した。
「その、人から聞いたのですが、リュシエンヌ嬢はシルと二人きりで密会していたと……」
「密会? 覚えがありませんけど」
何かあったかな? そう言われてみれば何かとシルを呼び出していた気がしないでもないけど、密会とは違う。
シルに丸投げしようと視線を投げるが、シルはふいっとその視線から逃れた。それは心底楽しそうな笑みを浮かべたまま。実に楽しそうだ。ふんっ!
「あの、その、崖の所で、なにやら仲睦まじく団欒していたと……」
「あぁ!」
合点がいって思わず両手をパチンと叩いた。
「それは、サミュエル殿下へのクッキーの試食をお願いしていたのですわ。色んな種類を試食していただいて、どれが一番サミュエル殿下の口に合いそうか助言をいただいていたのです。密会だなんてとんでもないですわ」
「では、シルは僕が食べたのとまた違う味のクッキーも口にしたということですか?」
「えぇ。そうです。その中でこれというものを選んでいただいて、サミュエル殿下にお渡しいたしました」
サミュエルはアタシの言葉には返事をせずに、ジトっとした目でシルを見つめている。そんなに色んな味のクッキーが食べたかったのか。王子なんだから一言言えば国中からクッキーが集まるだろうに、なんて食いしん坊なんだろう。
とはいえ、サミュエルのロックオン対象がアタシからシルに移行したようで、大変助かった。あとは仲良し二人でお昼の時間を楽しんでいただきたい。
サミュエルのジト目を浴びてもなお、涼しい顔でにこりと微笑んでいるシルは長生きするに違いない。そんな二人をしり目に早くこの場を去ろうと急いで昼食のサンドウィッチを紙ナプキンに包んだ。またアタシのターンになっては面倒極まりない。
「お天気が良いので、青空ランチに切り替えることにしました。あとは殿方同士お楽しみくださいませ」
シルに負けじとアタシも満面の笑みをサミュエルに向け、逃げるように退室した。
中庭に出てサンドウィッチを食べながら留学のことを考えていた。まだ叔父からは返事がない。前世みたいに飛行機も電車もないから、すぐには返事が届かないことは分かっている。場合によっては、リンネルのお金をかけた国交により得た知識や技術を持ち帰ることになるのだから、国同士の会談も必要かもしれない。だけど、こう毎日死神に周りをうろつかれると気が気じゃない。
あの子犬のようなサミュエルが、アタシの頭の中でそのまま死神に結びついているわけではないけど、この世界での死亡フラグの唯一の確かなアタシの記憶は、サミュエルに殺されるか平民に殺されるか、だ。
そうは言っても、返り討ちにあうことが分かっているアタシが平民を襲うわけがない。そして、サミュエルと関わる前の平民にアタシを追い詰めるすほどの権力はない。やはりアタシにとっての一番の脅威はサミュエルだ。