精一杯の愛の言葉
僕がリュシーの存在を認識したのはキュレール学院の入学式だった。おそらくそれ以前にも王宮の茶会で出会っていたとは思う。
だけど、その頃の僕の意識は過去に捕われたままで、リュシーを存在として認識することはなかった。
幼少の頃、僕には大好きなメイドがいた。僕付きのメイドだ。彼女は母のように僕をかわいがってくれ、父のように叱ってもくれた。
王族の親子関係は希薄だ。十歳になると王位継承権第一位である僕は父に付き従い執務を覚える。それまではせいぜい、夕食を一緒にとれる日があればとるといったものだ。実際には、会議や社交などで、その時間もわずかだ。
そんな僕にとって、僕の思い描いていた母であり、父であるアメリアは心の拠り所だった。嘘偽りなく、アメリアは僕の全てだった。全幅の信頼。世の幼子が親に持ち合わせるだろう感情を僕はアメリア一人に抱いていた。孤独を癒やしてくれる唯一の存在。
心の拠り所だったアメリアに刃をむけられたとき。僕が死ぬことを僕の全てである彼女が望むのなら、受け入れようと思った。
彼女に見捨てられたら生きていける気がしない。アメリアが望むのなら、アメリアのために死ぬことが僕の生まれてきた意味なのだと。
月の明かりだけが僕たちを照らし、二つの陰を作る。
アメリアがくれた時間は全部嘘だったのかもしれない。
本当は僕のことが憎くて仕方がなかったのかもしれない。
……それでも。僕はアメリアが大好きだ。だから。
両手を開いて、そっと目を閉じた。
それでも、また、君と同じ時間をいつか。
「大好きだよ。アメリア。ありがとう」
風が揺れるのを頬で感じて、あぁ。僕は死ぬんだな、と人ごとのように思った。
金属音が鳴り、衝撃を感じて、血まみれで横たわる自分を想像した。
だけど、その衝撃は僕を優しく包み込んだだけだった。「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も頭上から泣き声が降ってくる。
閉じていた瞳を開け、そのまま頭上を見上げるとアメリアが泣きながら僕の頭を抱えていた。
「なんで謝るの? いいんだよ? アメリアの好きにして……」
「……私は殿下を……」
嗚咽が混じり、その先の言葉がききとれない。
「謝る必要なんてないんだよ? アメリアがいてくれたから僕は幸せだったんだ。……だから、僕が今までアメリアからもらった幸福を返すことができるのなら、僕はいいんだ……」
「……殿下……」
泣き崩れるアメリアは、扉の前で護衛をしていた、異変を察知した護衛騎士にそのまま捕らえられた。
だから、僕は知らない。なぜ、アメリアが僕を殺そうとしたのかも。その後アメリアがどうなったのかも。
悲しかったのは、僕の死が誰かの幸せにつながっているということではない。僕の生が誰かの不幸の種になるということ。
僕の存在そのものが誰の目にも触れないものであれば、それが一番だ。僕が争いの種にならないように。
それから、僕はなるべく気配を消すようにしていた。王太子である以上それは無理があることは分かっていたけど、せめて、僕のことが邪魔な人がいたとき、ためらいなく殺せるように。僕の死がその人の幸せにつながるように。アメリアのような人がただの一人もいないように。
今考えると、生ける屍のようだったと思う。だけど、あの頃はそういう風にしか考えられなかった。僕に何の感情も抱かないですむように表情も感情も殺した言葉を他者に向ける。それが精一杯の保身だったのだと思う。
そんな人形だった僕の記憶はおぼろげで、故に会ったことがあるだろうリュシーの存在も認識していなかった。ミシェーレ公爵家に僕と同い年のリュシエンヌという娘がいる。ただそれだけの認識だった。
新入生代表のスピーチをする中、講堂内を鈍い音が響き渡り、音のする方に視線を向けると、そこには眠り姫のように美しい寝顔のリュシーがいた。血相を変えた教師たちが丁寧に体を抱きかかえ講堂から外へと搬送していく。
儚げで繊細な美少女。それがリュシーの第一印象だった。だけど、その印象は間もなく打ち消される。病に伏せっていたにもかかわらず、髪を染めて登校するリュシー。
病み上がりだろうと気遣って声をかけた翌日にはまた違う髪色。
避けられているのかと思えば、僕の顔を凝視したまま後ろ歩きで突き進む。
正直、意味が分からなかった。
僕と距離をとりたいのか、縮めたいのか。……どっちなんだ!
もう意味が分からなくて目が離せなかった。気付けば彼女を探している。彼女を観察しているうちに生まれた疑問。
彼女も人との付き合いを拒んでいるのかもしれない。
「そのようなことはありません。なぜか一人になってしまうのです」
僕の質問に少し考えてから視線をあげたリュシエンヌは真っ直ぐに僕を見つめて言った。
嘘のようにも本当のようにも聞こえたけど、彼女のように振る舞えば、毎日のように僕の周りを囲む令嬢が減るかもしれない。
そして僕は彼女を見守り続けた。そんなある日、孤独を愛しているだろうと思っていたリュシエンヌは平民と交流を持っていた。
意味が分からない。彼女の思考を詠める日は一生来ないだろうと思った。それがひどく僕を安心させた。
平民といるときのリュシエンヌは肩の力が抜けて、自然体でいるようだった。感情を素直に表出し、言葉でも言い募る。
……平民とは仲良くするのに。
嫉妬ともいえる感情が沸き起こり、リュシエンヌについ感情をぶつけてしまう。
感情のまま言葉に出すのはアメリア以来初めてのことで、僕自身、自分に戸惑った。
いろんな感情を蘇らせてくれるリュシエンヌに、僕は心地よさを覚えた。
仲良くなりたい。リュシエンヌの素の表情を見たい。飾り気のない言葉が聞きたい。
そんな願望のなか、僕には向けられないそれらに嫉妬がメラメラと沸き起こる。
平民とは仲良くしているのに。なぜ僕とは距離を取ろうとするの?
リュシエンヌは紛れもなくフロリアンに惹かれている。フロリアンを見つめるときリュシエンヌの瞳は潤み、頬は紅潮している。その表情を見ているとたまらなく腹が立ち、ふと。
雨が必ず天から地上に降り注ぐように。雪が溶けて水になるように。僕のこの感情は恋情なのだと。
今までのように抜け殻の人形ではいられなかった。リュシエンヌの気を自分に向かせるためにはどうすればよいのか。少しでも一緒にいる時間を増やすには。危なっかしい彼女を確実に助けるには。
自分を守ることに特化していた気持ちが他者へ向かう。初めてのことで理論的には考えられないことばかりだった。戸惑いながらも彼女との距離を、昨日よりも今日。今日よりも明日。明日よりも……。願望が膨らむばかりだった。
喧嘩腰にしてしまった告白。
本当は花束を抱えて告白したいと思っていた。いつも中庭を見つめて癒やされているだろう彼女の癒やしの存在になりたいと思ったから。
以前は僕を好きだったと漏らしたリュシー。僕の告白は受け入れてもらえなかった。その結果は以前がどうであろうと関係ない。
「サミュエルにはわたくしの気持ちも知られてしまっているので隠さずにお話しますが」
そう言って語られたリュシーの気持ち。フロリアンかニキアス。リュシーの選択肢に僕はいない。
「僕の好きなリュシーが、この先の未来も幸せに包まれることを祈ります」
フロリアンを好きなリュシーの気持ちをどうにか自分のほうに向かせたいとう自分勝手だった僕の、リュシーに愛されていない僕ができる精一杯のリュシーへの愛の言葉。




