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前世の記憶がショボすぎました。  作者: 福智 菜絵
第三章 悪役令嬢は好きにする
53/57

現実


「リンネルに帰った一週間後には俺たちの婚約式だ」


 ニキアスがアタシの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。その真っ直ぐすぎる目に本心を見破られそうで思わず視線を外した。


「承知しました」


「……俺たちは婚約者なんだ。来年の春にはリュシエンヌは俺の妻だ」

「えぇ。末永くかわいがってくださいませ」


 なんとか。なんとか、母に教えられた定型句(テンプレート)を言葉にした。


 割り切れない思いを抱えて自分でもどうしたらいいのか分からない。ニキアスが与えてくれたチャンスを生かせず、ニキアスとも向かい合えないまま婚約の日は刻一刻と近づいている。


 政略結婚。


 前世のアタシにはカビが生えた言葉。現世のアタシのすぐ隣にいる。だけどニキアスはアタシのことを好きだと言ってくれた。


 女は愛する人より愛してくれる人との人生の方がより幸福だと、そんなことを前世の母が言っていた。


 母の言葉を尊重するのなら、好きだと言ってくれるニキアスと、プレタールのみんなが祝ってくれるニキアスと生涯を共にする方が、アタシは幸せだといえよう。


 だからアタシは、この結末に身を委ねようと思う。友人としては好きなニキアスなのだから、アタシはきっと幸せな家庭を築ける。


 ……友達夫婦なんて言葉もあるしね。



「明朝、迎えに行く。準備は整っているだろうな?」

「もちろん。ルネを同行させる許可をいただけたこと嬉しく思います」

「あぁ、異国で過ごすことになるのだ。気心が知れたメイドが傍にいることは心の拠り所となるだろう」


 ニキアスのこの優しい笑顔が自分に向けられたとき、初めて、男性が女性に向ける親愛の表情を見た気がした。


 その表情で、乱暴な言葉使いながらも暖かい口調で。アタシはいつもニキアスの自分に向けられる愛を確信してきた。


 だから。アタシは幸せになれるし、ニキアスも。


「幸せな家庭を築きましょうね」

「……あぁ。俺かリュシエンヌ。どちらが先に逝くかは分からない。……だが……俺が逝くとき、あぁ、幸せだったと、リュシエンヌが逝くときも幸せな人生だったと。……そう思える関係を築いていきたいと思っている」


「……それは、とても幸せな最期ですね」



 最期の最後。息を引き取る一瞬前。なんの憂いもなく「あぁ、倖せだった」と、それだけが頭によぎる人生はどんなに素晴らしいものだろう。


 一度死んだことがあるアタシでも、現世での最期を思い浮かべることはなかった。死なないようにルートの軌道修正をすることに捕われていたから。


 人生の先、歩いて、走って、時には道に迷って。でもそのずっと先。もう開けることのない瞳を閉じる一瞬前の自分の在り方について考えたことはなかった。


 言いたいことを言って、考えたとおりの行動をする俺様王子。そう思っていたニキアスは今、アタシの前で、私たちの先。そのずっと先を見据えている。



 ……ニキアスのことを愛する日が来る。


 そうあってほしいと切に願う。







***





「リュシー。政略結婚という言葉に捕われないで。わたくしの知る限り、ニキアス殿下はあなたのことを本当に心から愛しています。……愛する幸せは確かにあるわ。だけど、それは振り返ってくれるかも分からない目標に向かってただただ走り続けるようなもの。いづれ疲れてしまうでしょう。追いかけるときが長いほど愛情が憎悪に変わることもあるかもしれない」


 母はアタシを見つめたまま、片手でアタシの頬を包んだ。そして泣き出しそうな顔で続ける。


「だけどね、リュシー。人の愛情に包まれた人生はとても幸福な時間よ。……これまで、ミシェーレ家での生活はどうだった? わたくしたちの愛はちゃんと貴方に伝わっていたかしら?」


 涙でうるんだ瞳で見つめられ、アタシはこくりと頷いた。


「幸せを感じてくれていたかしら?」


 もう一度うなずく。母の表情がぼやける。


「……その幸せを、幸せな時間を、今度はニキアス殿下と紡いでいくのよ。……大丈夫。貴方は絶対に幸せになれるわ。わたくしたちが大好きな貴方なのだから」


 ふわりと母のぬくもりに包まれる。背後からと両隣から、別のぬくもりを感じた。父と兄たち。


 兄たちがこんなにも感情を行動に出すことはない。かわいがられているのは分かるけど、貴族間ゆえの距離感があった。


 その兄たちが、目に涙をためて「幸せなれよ」「おまえは幸せになれる子だ」と、自分にもアタシにも言い聞かせるように何度も唱えた。父の「リュシーが幸せになれない世の中なら何人たりとも幸せになれることはあるまい」と、気丈に言ってのける。涙声で。それでも瞳に溜めた涙をこぼさないように。



 もう帰ることのない我が家。もう同じ時間を過ごすことのない家族。



 そんな現実がアタシを支配した。


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