誕生日
「妹のように思っているの?」
頭で考えるよりも先に言葉が口をついて出た。「え?」とフロリアンがキョトンとした顔で首を傾げる。
「妹?」
アタシは思わず口を突いて出てしまった言葉を取り繕うように焦って早口になる。
「あ、うん。その髪を撫でる癖? 妹さんにいつもしてるのかなって思って」
「あぁ」と納得顔でフロリアンがアタシを見た。どうやらうまく取り繕えたようだ。
「確かに妹の髪もよく撫でるから、癖みたいになってるとは思うけど、リュシーのこと妹だと思ったことはないよ。……もしかして、ずっとこうされるの嫌だった……?」
フロリアンがアタシの表情を窺うように顔を覗き込んできた。嫌なはずがない。フロリアンの優しい手にどれだけ救われたか……。
アタシは静かに首を横に振った。フロリアンの手がまたアタシの方に伸びてきて、頬に触れる。
「良かった。……なんだか元気なさそうだけど……」
「とっても元気よ」
アタシの頬を触れるフロリアンの手の上から自分の手を重ねて、満面の笑みを作る。
上手に笑えているだろうか。そう不安に思いながらも、心配してくれるフロリアンの温かさに胸が締め付けられる。たぶん、これがフロリアンと二人で会える最後になる。
どう生きようか。フロリアンとの未来を夢見ていいのか。そう考え続けてきたけど、やっぱりそんな未来考えてはいけない。フロリアンさえも危険に晒してしまうかもしれない。
頬に感じるフロリアンの手の温もりが今は辛い。アタシはフロリアンの手を両手でギュッと握りしめて、もう一度フロリアンに笑顔を向けた。
「心配してくれたの?」
フロリアンの手がアタシの手の中から離れて、そのまま頭をぽんぽん叩いた。そして、困った顔で笑う。
「リュシーはなんか、放っとけないからな」
アタシは口角を上げたまま、フロリアンの顔をじっと見つめていた。最後だから、少しの表情も見逃さず見つめていたい。そして、一人になったときだけでいい。そっと心の中でフロリアンを思い浮かべることだけは許してほしい。この時が終わればフロリアンを望むことを諦めるから。
フロリアンが固定されたアタシの視線の先で、顔をどんどん赤くしていく。
「なに? なんでそんな風にじっと見るの? 恥ずかしいからやめてよ」
アタシの視線を遮るようにアタシの目の前に手のひらをかざすけど、フロリアンの焦ったような困ったような顔はバッチリ見えている。そのフロリアンの取り乱したような態度がかわいくて思わず笑ってしまう。
「なに? 今度は笑うの? なんで笑ってんの?」
「ふふっ。なんかかわいいなって思って。いつもはフロリアン、優しくて頼れるお兄様って感じなんだもの。それなのに……ふふっ。痛っ!」
デコピンされた額を手でおさえたまま、フロリアンを見上げる。ムッとした顔で「からかうなよ」と言った。
「ごめんなさい」
額に手をあてたまま、謝ると、フロリアンがいつもの顔で笑う。
「分かったならいいよ」
「フロリアンは、困り顔で笑うよね?」
「そうかな? ちゃんと心から笑ってるよ?」
「それはそうだと思うんだけど、フロリアンはこう、笑うとき眉を寄せるじゃない?」
アタシは自分の眉尻を指先で下に引っ張り、フロリアンの笑顔のマネをしてみせる。その指先の上にフロリアンの手がビシッとあたる。
「からかうなよって言っただろ」
「からかってなんかないわ。その困り顔の笑顔、わたくしは好きなのよ。『どうにかしてやらないと』って、気にしてくれているみたいで」
スルッと口から出てしまった「好き」だけど、このくらいの好きの気持ちは伝えておいてもいいよね……。
フロリアンが考えるように腕組をして、視線を斜め上に上げた。そして、意地悪な笑顔を見せる。
「まぁ、リュシーに関してはそうかもな……」
「まぁ! それではまるでわたくしが手のかかる小さな子供のようではないの! 以前から思っていたのだけど、みんな、わたくしに対して少し過保護ではないかしら?」
フロリアンが大きいため息を吐いた。
「自分のこれまでをよーく思い出すんだ。心配で過保護にもなるだろ」
「……わたくし、過去は振り返らない主義なの。人生は短いのよ? 未来を見なければ!」
「……かっこよくまとめたつもりだろうけど、未来をより良いものにするためにも、過去を振り返ることは大事だぞ」
そう言ったフロリアンに頭をコツンと軽くたたかれた。
「……フロリアン、今日はいつもとなんか違うわ」
「そうかな?」
「えぇ。わたくしの知っているフロリアンは悪い顔をしないし、額を弾いたり、拳骨で頭を小突くこともしないわ」
「ははっ。俺、悪い顔してた? ……もしかしたら、最近はずっと家族と一緒にいるからそのせいかも。学院でずっと寮で過ごすのとは違って気持ちが解れているんだ」
フロリアンがハーフバルコニーの笠木に腕をおいてもたれかかる。アタシもその隣に立った。そのまま、フロリアンの顔を覗き込む。気持ちが解れているフロリアンの表情をもっと知りたい。見逃してたまるもんか。
「では、今のフロリアンが本来のフロリアンなの? なんだか年相応というか……」
「そりゃそうだよ。俺もリュシーと同じ十六歳だ」
「フロリアンはもう十六になったの?」
「うん。春生まれなんだ」
「そう。お祝いしたかったわ」
「ありがとう」と言って、フロリアンがふんわり笑う。今日のフロリアンは表情がくるくる変わってずるい。ムッとしたり、悪い顔したり。諦めようとしているアタシに対しての挑戦なのか。
「リュシーは……」
「なに?」
すっかり暗くなった外を眺めていたフロリアンが視線を落とした。そんな意味深な態度をされると何を聞かれるのかハラハラしてしまう。
「リュシーも、もう……婚約者を決めないといけない年齢だよね」
フロリアンの口から婚約の話を切り出されたくなかった。フロリアンとの穏やかに流れる夢みたいな時間が、一気に現実味を帯びる。
「え、えぇ。そうね……」
「ニキアス殿下と婚約するの?」
胸のあたりがざわざわする。そんな話はしたくない。アタシはその言葉に否定を返せない。そうしたらきっとフロリアンは「おめでとう」って言うんでしょう?
「リュシー?」
「え? あ、えぇ……。それはわたくしが決められることではないから、なんとも……」
「そうか……」
フロリアンの顔が悲しみに染まった気がした。優しいフロリアンのことだ。アタシのままならない運命を嘆いてくれているのだろう。
「ニキアス殿下は……。ニキアス殿下は、リュシーが気に入っているみたいだ。何があってもきっと大事にしてくれるさ」
「……そうかもしれない……。でも、まだ候補に挙がっているだけよ。わたくしが知らないだけでニキアス殿下のことだもの。候補は他にもいるはずよ」
「……リュシーは、ニキアス殿下との婚姻を望んでいないの?」
心配そうな顔でフロリアンがアタシの顔を覗き込む。アタシは言葉にできない気持ちを吐き出すこともできず、ただフロリアンの瞳を見つめている。
「フロリアンはニキアスとわたくしが婚姻を結んだ方がいいと思うの?」なんて、聞きたいけど聞けない。笑顔で頷かれでもしたらアタシはこの瞬間に果ててしまう。
「俺は、リュシーが幸せならそれでいいんだ。リュシーと過ごした時間は短いものだったけど、俺にとってリュシーは特別な存在だから」
「特別な存在」という言葉にドキンと胸が鳴る。その意味を知りたくて縋るように聞いた。
「特別な存在……?」
「うん。特別な存在」
困ったように眉を寄せて泣きそうな顔でフロリアンが笑う。アタシの頬をつねった。
「リュシーは見ていて危なっかしい存在だってこと」
「……もう! また子供扱いして!」
「子供扱いして! って怒るところが子供なんだよ」
「ふんっ!」
子供扱いされる憤り、こんな時間はもうないだろうという悲しみ、もっと今を長く感じたい希望。いろんな感情が混じって、それでもアタシは笑う。公爵家令嬢として初めての大仕事かもしれない。自分を偽り、相手を欺く。自分の気持ちを偽り続けて、いつかアタシの気持ちなんて嘘の中に消えてしまえばいい。どうせ辛いだけの気持ちなのだから。
「リュシエンヌ様。みなさまがお待ちです」
「あぁ、準備ができたみたいだ。行こう」
フロリアンがアタシの前を歩き、パトリックが後ろを付いてくる。「おめでとー」というみんなの声と拍手が聞こえた。
「え? なに?」
フロリアンが振り返って笑顔で言った。
「誕生日だろ?」
「あ! あぁ! そう言えば……」
留学してからは自分の誕生日どころではなかったし、一時帰国したあとも、フロリアンへの気持ちをどう扱うかで手いっぱいで、自分の誕生日のことなんてすっかり忘れていた。
「さっき、誕生日の話になったときは焦ったよ。せっかくリュシーに知られないように準備したのに気付かれるんじゃないかって」
「そう。ありがとう。ありがとうみんな」
見渡せば、みんなが笑顔を向けてくれる。テーブルにはアタシの顔だと思われる絵が描かれたケーキ。グラスには少しのリキュールが入ったシャンパン。
「わたくし、みんなの誕生日を祝えていないのに……。わたくしだけ、こんなにしてもらって……」
「リュシーは慣れない土地でずっと頑張ってただろ? その労いもこめてさ」
「そうそう。これ、俺が描いたんだぜ。似てるだろ?」
「でも、カンタンもセヴランも使用人見習いの仕事、大変だったでしょう?」
「ははっ。リュシーほどじゃないさ」
「それよりも」とセヴランが自分が描いたアタシの似顔絵を褒めてほしそうに、髪の柔らかさを出すのが大変だった、とか、瞳の碧を作るのが大変だったとかアピールしてくる。
「ありがとう。とっても嬉しいわ。……だけど……このケーキ切るのよね? ナイフで……」
チラリとセヴランを見ると「あわわわわ」と漫画のように慌てふためいた。迂闊なアタシの一言は主従関係である今、攻撃力があるらしい。セヴランの慌て方が面白くて、アタシの悪戯心に火が付く。
「ふふっ。誰がわたくしの瞳の部分を食べて、どなたが口元、鼻を食べてくれるのかしら?」
「うむ。では、俺が口元を食べてやろう。平民は公爵家の令嬢の唇を食すなんて恐れ多いことはできないだろうからな」
「いえいえ、僕が。平民の代表としていただきます。ニキアスが食べると一人で食べるようなもの。どうしてもいやらしさが出てしまいますが、僕が食べると四人で食べるようなものですから、なんの問題もありません」
「じゃあ、僕が食べようかな? 王子二人が食べるとなれば公爵家として恐れ多いとリュシーも感じるでしょうが、僕なら同じ公爵家ですし、リュシーも気にしないでしょう」
ニキアスの言い分はまだ分かる。だけど、サミュエルの言い分は全く分からない。四人で食べるようなもの。とか意味が分からない。たぶん、サミュエル自身も自分が何を言っているのか分かっていないと思う。シルは王子二人の遣り取りがおもしろくて乗っかっただけだと思う。
悪戯心を出したばかりにカオスだ。なによりも自分の唇を取り合われているようで寒気がする。冗談なのだろうけど。
「……口元はわたくしが食べます」
「では、わたくしが瞳の部分を。リュシーのきれいな碧眼には憧れていますのよ。食べれば少しはあやかれるかもしれません」
「じゃあ、俺も」
濃い緑の瞳のアニーと茶色の瞳のセヴランが難易度高めな部位を引き受ける。続いておどおどとセヴランが言って、フロリアンとパトリックもそれに乗っかった。
「俺はどこでも」
「俺もどこでもいいよ」
「自分も」
だいたいの食べる部位が決まった所で、顎に手をあてて考え込んでいる風のシルが言う。
「……で、誰が切るの?」
シルの言葉に信じられないくらいの静けさが応接間を襲う。アタシのちょっとした出来心がこんな妙な空気を……。
本来ならケーキを切り分けるのは側仕えの仕事だ。アタシはルネに視線を移すが、ものすごい素早さでその視線をかわされた。不敬罪になるとでも思っているのか。
「では、わたくしが……」
困ったアタシが視線を滑らせていると目があったアニーがそう言った。だけど、ちょっとそれは怖い。
「いえ、わたくしのために準備くださったのですもの。わたくしが切るわ」
辺りが安堵のため息に包まれた。良かった。なんとかなったらしい。アタシが切ったケーキをルネがとりわけて、みんなの前に差し出し、みんなでケーキを食べた。
ちょっとしたアクシデントがあったけど、楽しい誕生日になった。次に帰国するのは半年後。留学を終えてからだ。そのとき、アタシはどんな気持ちでみんなと一緒にいるのだろう。もし、ニキアスとの婚約が決まっていたら、フロリアンとはもう会うことはないのだけれど。
みんなが帰宅の準備を整えて、見送っているとニキアスが言った。
「少し話がある」
「はい。なんでしょう?」
「二人で話がしたい」
ニキアスがサミュエルに視線を投げて「先に帰っていてくれ」と言う。サミュエルは何か言いたそうにニキアスを見据えて口を開くが、言葉は聞こえない。ニキアスから視線を逸らして、そのまま屋敷をあとにした。
アタシとニキアスが二人応接間に取り残された。




