王子から逃げられない
翌日、アタシは自信満々だった。誰にもリュシエンヌ・ミシェーレだとバレるはずがない。
家紋を隠すように教科書を抱えて、顔が見えないように床だけを見つめながら廊下を歩いていた。
ぽふっと額がぶつかって視線を上げた。思わず顔をしかめてしまう。さっきまでのルンルン気分が台無しだ。
「あぁ、リュシエンヌ嬢。大丈夫ですか? ご気分でも?」
……ちょっとサミュエル殿下との遭遇率高いと思う。不満だ。
そう思いながらも笑顔で本心を隠す。
「サミュエル殿下、申し訳ありません。急いでいたもので。お怪我はありませんでしたか?」
「僕は大丈夫ですよ。貴方は?」
ニッコリと微笑みながら気遣ってくれるサミュエルの、周りの取り巻き女の顔が怖い。リュシエンヌ嬢=ミシェーレ公爵家令嬢のため、表立って敵意を向けてはこないけど、なんとなく邪険にされているのが伝わってくる。
アタシだって、サミュエルの視界に入りたくて入っているわけじゃない。完全な誤解だ。取り巻き女たちも、そんなにサミュエルの視界を独占していたいのなら、サミュエルの前を後ろ歩きで歩き続ければいい。
なんなら、そのときはぜひ、ムーンウォークをしてほしいと思う。取り巻き女たちが王子の目の前を華麗にムーンウォークする姿が頭に浮かび、思わず笑いそうになる。それを必死で堪えて、にこやかな笑みを浮かべて言った。
「大丈夫です。ご心配ありがとうございます。それでは……」
アタシは貴族のお辞儀をして、颯爽とその場を去った。後ろから何かサミュエルの声が聞こえたけど聞こえないフリをした。
もう本当嫌だ。グレーの髪色になっての初登校でバレてしまうなんて。アタシだって髪の毛が痛むのは嫌だったのに。断腸の思いでカラーリングしたのに。
思い通りにいかない焦りと苛立ちを抱えながら図書室に移動した。留学だけを心の支えに、国の情勢に関する本を読みふける。留学の希望動機になりそうなものをノートに書きだしていく。
政務が自国の内政に偏っていて、なおかつ原油が高く売れるとはいえ、他国との取引が原油のみというのは何か理由があるのかもしれない。だけど、さすがに原油の貿易について関与したいというのは学院生の留学の希望動機としては行き過ぎているし、身に余る。
やっぱり学院生としては農作物に着目した方が自然だと思う。農作物を貿易の取引対象にしないのは国外に売れるほどの作物が採れないからなのかもしれない。となると、農業について学びたいというのは自国の生産性を上げるためにも喜ばしいことだと思う。
自国の食料自給率を調べてみるのもいいかも。それと、貴族だけでなく平民に着目して、いや、賤民にまで着目して、その食事摂取量や体格を調べても……。
もしかしたら、経済的な問題抜きに食事が回らない世帯があるかもしれない。とはいえ、この世界にそんな詳細なデータがあるとは思えないけど。
最悪、食料自給率が算出されていればいい。作物を輸入していないのだから、それが分かれば、食糧危機を迎えることのないようにしたい、とか、全ての国民が公平に食事を摂ることができる社会にしたい、とか。
食料は自国で充分に賄えているというのなら、他国より百年も遅れていることで考え得るリスクを述べて、リスク回避のためにも留学して他国の発展した農業を学び、自国に還元したいというのもいいと思う。リスク回避だけでなく、農業をもっと繁栄させるためにも。食品は多い方がいい。
「リュシエンヌ嬢。国の情勢にご興味がおありなのですか?」
聞き覚えのあるその声に顔を上げて、やっぱりサミュエルかと、思わず顔をしかめてしまう。一瞬あとに頑張って表情を取り繕った。取り巻き連中はいない。サミュエル一人だ。
嫌な顔したの、たぶんバレてるよね……?
「えぇ。せっかく公爵家に生を受けたのですもの。なにか国のお役にたてればと」
「すばらしいお考えですね。国の繁栄のために何か案がおありですか?」
「ふふ。わたくしが思いつく程度のことなど、子供の浅知恵にすぎませんわ。どうかお気になさらず」
「いえいえ。色々な方の意見を聞くのは王族として、何よりも大事なことと幼少期から教えられています。ぜひお聞かせください。こちらよろしいですか」
そう言って、サミュエルは向かいの席に座った。全然、全くよろしくないが王子にそう問われて断れるはずもない。
「それで?」
アタシの嫌そうな反応が分からないはずもないのに、前のめりに話をすすめようとするのは王族所以なのだろうか。
「そ、そうですね。……プレタール国は農業が盛んですのに、自国だけで消費しているでしょう? せっかくリンネル国という友好国があるのですから、輸出をしてみれば、と考えたのです」
「ですが、自国で消費しているからこそ、我が国は食糧難になることはないとも考えられませんか?」
なんなんだ、コイツ。じゃあ聞くなよ。ウザいな。
討論したいわけじゃないアタシは、そそくさと会話を切り上げる方向に持って行く。
「まぁ、そうですわね。自国を賄えないようでは本末転倒ですものね。さすが一国の王子さまですわ」
アタシはわざとらしく手を合わせて、瞳を輝かせた。王子はジトっとした目でアタシを見つめている。真意を探るような、そんな目だ。
「違うでしょう? 何かほかに考えがあるのではありませんか?」
「いえ。所詮わたくしは世間に揉まれていないただの子どもです。サミュエル殿下の言葉に反論できるだけの考えがありません」
「本当ですか?」
「えぇ。本当です」
早くどこかに行ってくれと強い願いが通じたのか、図書室の扉の所にいつもの取り巻き女が、キョロキョロと王子を探しているのが見えた。感謝感激だ。アタシはしゃなりと取り巻き女の方向に手を向けた。
「サミュエル殿下、あちらの令嬢は殿下を探していらっしゃるのではなくて?」
その言葉に扉の方を振り返り、もう一度アタシの方に視線を戻したサミュエルを見ると、酷く嫌そうなうんざりした表情をしていた。
分かる分かる。取り巻きってウザいもんね。持ち上げるふりして、自分の欲求ばかり押し付けようとする、底辺の存在だ。
アタシはその点ラッキーだ。最初はサミュエル殿下に身バレしたくなくてカメレオンになったけど、結果的には誰も寄ってこないもの。だけどごめんね、サミュエル殿下。夏休みに入るまでアナタはあの取り巻き女に捕まっておいてね。こうやってアタシの傍に来れないようにね!
「リュシエンヌ嬢、こちらへ」
アタシの期待はサミュエルの一言で砕け散った。サミュエルに手を引かれ本棚の影に誘い込まれてしまったのだ。
なんであの取り巻き女はこちらに気付かないのか。ゲームの設定上、アタシとサミュエル殿下は何がなんでも関わることになっているのだろうか。
「リュシエンヌ嬢、申し訳ありません」
そう言って手を離したサミュエルは迷子の子犬みたいに情けない顔をしていた。「くぅーんと鳴いてみろ!」と言ってしまいそうなほどだ。
「いえ。あちらに行かれなくてよろしかったのですか?」
「そういうわけではありませんが、酷く疲れてしまって……」
「そう……ですか……。ですが、ここに隠れたからと言って、それは解決できることなのですか?」
ヤバイ……。言葉が過ぎたかな?
思い通りにサミュエルを避けられない苛立ちを本人に向けてしまった。じっとサミュエルの顔色を窺うが、とくに機嫌を損ねた感じもしない。
そうだ。本音でいいんだった。どんどんサミュエル殿下に嫌われて距離を取られてしまおう。
「それは……そう……なのですが……。実は僕は貴方に聞きたいことがあったのです」
「なんでしょう?」
「なぜ、公爵家の令嬢である貴方が、いつもお一人なのでしょう?」
「もともと人に好かれるような性格でもないですから、そこを突かれると、なかなかに悲しいものがありますね……」
淋しそうに頬に手を充てながらため息を吐いてみた。こんな悲しそうな顔を見たら、これ以上ツッコむことはできないだろう。
「違いますよね……? 自ら一人になろうとしていらっしゃいますよね?」
「そのようなことはありません。なぜか一人になってしまうのです」
「では、本当は一人でいるのが淋しいと?」
これは、どっちを言えばサミュエル殿下から逃げることができるのか。淋しいですと言うべきか、淋しくないと言うべきか。
ちょっと待って。前世の記憶を思い出す前のアタシなら前者を選んで、サミュエル殿下の気を引きたがったに違いない。だとすれば答えは……
「淋しくはないですわ。一人は一人で自分の思うがまま好きなことができますもの。ですが、サミュエル殿下がおっしゃるように自らの意志で一人になっているわけではありません。結果的にそうなっただけです」
「結果的とは? 何をしようとしての結果なのですか?」
本人を目の前にして、アナタから逃げるためにコソコソしていた結果です、などと言えるはずもない。
「それは……申し上げられませんわ。その……とても個人的なことですので……」
そう言うと空気を呼んだサミュエルはあっさりと引いてくれた。
「そう……ですか」
「サミュエル殿下、そろそろよろしいのではありませんか?」
「と言うと……?」
「先程サミュエル殿下をお探しになっていた令嬢、そろそろいなくなったのではないかと……」
「そうですかね……?」
サミュエルは不安そうに迷子の子犬のようなウルウルな瞳で見つめてくる。王子たるものそんな分かりやすい態度を他人に見せていいと思っているのだろうか。
だけどそんな哀願されては、なんとかしてあげたくなるのが人情というもの。アタシはサミュエルに誰もいないことを確認して来ると言って、本棚の影から飛び出した。
取り巻きがいないことを確認してサミュエルに報告する。ついでに自分も用事があると嘘吹いて、そそくさと図書室をあとにした。
「あの、リュシエンヌ嬢……」
颯爽と去り行くアタシの背中にサミュエルの声がぶつかった気がしたが、気のせいということにした。
それにしても、ゲームの中のサミュエルはあんなに分かりやすい表情をアタシに見せる人ではなかった。アタシのサミュエルの対応が変わったことで、サミュエルのアタシへの対応も変わったということだろうか。
だとしたら、流れが変わってきているという布石かもしれない。
***
「先日はどうも」
先日、颯爽と逃げ去ったアタシの前に、またもやサミュエルが現れた。取り巻き連中なしで、である。この前は取り巻き連中回避のために助けてあげたけど、ちゃんと自分で巻けるのだから、こっちに逃げてこないでほしい。
留学のための勉強時間が削られて迷惑だ。この図書館は前世と違って貸出不可だ。つまり図書館に来ないと留学のための言い訳情報が集められない。だから、サミュエルに邪魔されると留学ができない可能性が出てくる。そうなるとサミュエルに殺されるかもしれない。
だけど、サミュエルを無視して勉強を続けるのも立場的に無理がある。つまり八方塞がりだ。
「これはサミュエル殿下、ごきげんよう」
「先日話していた貿易について、話を伺いたいと思って」
サミュエルはアタシの前の席に腰を下ろした。……迷惑なんだけど。
「貿易の話ですか……。その件については、わたくし全て話し終えたと思っているのですが……」
「いえ、まだ何か考えがおありのようだとお見受けしました。伺っても?」
ニッコリと微笑みながら先を促すサミュエルに、嫌々ながらも答えるハメになる。なんと言っても一国の王子、話すことを促されて拒否権はない。ただし、考えていることを話すとなると王子の発言を否定することになる。そうならないために言質をとっておきたい。
「思いのまま話しても、極刑にしませんか……?」
アタシの言葉にサミュエルは目を白黒させた。
「なぜ、考えを聞いただけで極刑にするのですか?」
「サミュエル殿下の先日の発言を否定することになるからです」
「その程度のことで、僕が人を殺めるような人間だとお思いですか?」
サミュエルは不快感を隠そうともせず顔をしかめた。
しまった。この発言こそが不敬にあたるものなのか……。
マジ怖い。誰か助けてほしい。どうしたってアタシはサミュエル殿下に殺される運命にあるのかもしれない。
「そうではありませんけれど、サミュエル殿下はそうできる立場にあらせられます。それに、そう思っていないと言えるほどサミュエル殿下のことを存じません」
どう答えたら『サミュエルは極刑を軽々とやってのける』発言を取り消せるか考えに考えた結果、そんな言葉しか出てこなかった。前世を含めても人間関係希薄なアタシに取り繕う言葉をひねり出せるはずもなかった。
これは、本格的に牢にぶちこまれると両腕を交差させて自己防衛したとき、サミュエルのクスクスとした笑い声が聞こえた。恐々と視線を上げるとサミュエルがクシャッとした顔で楽しそうに笑っていた。
「それは確かにそうですね。僕も貴方のこと存じません。教えていただけませんか?」
「教えるほどのことはありません。わたくしは一公爵家の娘です。それ以上でもそれ以下でもありません。どこにでもいる人間です。どうか、わたくしのようなつまらない人間に、時間を費やすなど無駄なことはされませんよう……」
「無駄かどうかを決めるのは僕です。無駄ではありませんのでお話を伺わせてください。あぁ、極刑については絶対にしないと誓います」
……本当だろうか? 本当に殺されないのだろうか?
でも、どちらにしても逃げ場はない。それに、王子ルートでアタシに死亡フラグが立つのは夏休みのあとだ。今は大丈夫なはず……。
「……サミュエル殿下は先日『自国で消費しているからこそ、我が国は食糧難になることはないとも考えられる』とおっしゃいました」
「はい、そう言いました」
先日のサミュエルの言葉によると食料は自国で賄えている。だとしたら……
「わたくしは、自国で溢れた物資があれば他国に輸出して、利益を得るのも国を守る一助になるのではないかと思うのです。わが国は原油を輸出することで潤沢な資金があるのは存じておりますが、手札は多いほど良いと思うのです」
「ほう?」
興味深そうに更に先を促してくるサミュエルに躊躇いながらも答える。当家以外の貴族を下々呼ばわれしているアタシにとって、自分より上の階級は恐ろしい存在なのだ。今は殺さないと言う言葉を信じて突き進むしかないが。
「自国で溢れたものを他国に輸出して、自国で不足しているものを他国から輸入する。貿易により力を入れることで国交が盛んになれば、他国にとって切り捨てられない国になることは可能でしょう? どこも攻めない、どこからも攻められない。わたくしは、このプレタールを、そんな安心して暮らせる国にしたいのです」
前世の日本のように。
口には出さないけど、友好国がリンネルだけというのは不安がある。リンネルは先進国で国交も盛んで、この世界でも力のある国だ。だからプレタールは資金援助をして友好を結んでいるのだろうけど、それは同時にリンネルから見捨てられると破滅を意味する。
「どこも攻めない、どこからも攻められない国ですか……。いいですね……」
サミュエルが考え込むように伏せていた視線を上げて、アタシと目を合わせてにっこりと微笑む。そして「ですが」と柔らかく否定した。
「自国で溢れた物資がそれだとどうして判断できるのでしょう?」
「税を納められるときに負担がないかと確認すれば良いだけのことです。領主に領地の状況を報告させるのです。あぁ、国への貢献を示したい領主が平民からの取り立てを厳しくしないためにも、各領地への王族の派遣も一つの手かもしれません」
「それは、王族が領民の様子を見に行くと言うことですか?」
「躊躇うのであれば、才覚と人望のある部下に任せれば良いではありませんか」
「なるほど。興味深いです。それで?」
「現状、思いつくのはこの程度です。所詮子どもの浅知恵ですから」
そう言ってアタシは恭しくサミュエルに一礼して逃げるように華麗に去った。と思う。
その後も何かにつけて寄って来るサミュエルに辟易としていた。そんなアタシの態度に最初は淋しそうにしていたサミュエルは、そのうち寄ってこなくなると思っていた。それなのに、逃げるアタシを追うのが楽しくなってきたのか、満面の笑顔で長い足を利用して捕まえに来るのだ。本当どうかしてほしい。