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前世の記憶がショボすぎました。  作者: 福智 菜絵
第二章 悪役令嬢は気付かない
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フロリアン家訪問


「お嬢様。着きましたよ」


 馬車のドアをカンタンが開けて、叔父が先に馬車から降りた。それを見届けたカンタンが手を差し出してくれる。アタシはカンタンの掌に自分の手を重ねて、準備されている踏み台を辿り、地に足を付けた。


 恭しく頭を垂れていたカンタンが少しだけ顔を上げて、ヒヒッと照れくさそうに笑った。アタシも歪な笑みを顔に貼りつける。


 馬車の前にはセヴランとパトリックが待機している。今日はフロリアンの家で農業の見学だ。本当なら、こんな沈んだ気持ちでここにくる予定じゃなかった。もっと、心が躍るような気持ちで、スキップしだしそうな軽い足取りで、このフロリアンの生家を訪れるはずだった。


「リュ、お嬢様。ここがフロリアンの家がやってる畑だ。……です。あっちが、あちらが、フロリアンの家になります。あぁ、フロリアンだ」


 まだ敬語が慣れないらしいセヴランは、たどたどしい言葉でそう説明してくれた。セヴランは百メートルほど先に見えるフロリアンに向けて笑顔で手を振る。アタシも貼りつけた笑顔でフロリアンに手を振った。フロリアンの少し後ろに男性と女性、小さな女の子が二人並んでいる。女性がフロリアンの振る手を叩いて諫めているのが見えた。


「あの、フロリアンの後ろに見える方たちって、もしかして……?」

「あぁ。フロリアンの両親と妹二人だよ。……ですよ」

「ははっ。フロリアンのヤツ、母さんに叱られてるみたいだ」


 セヴランとカンタンがアタシの呟きに返事をしてくれた。でも、なんで……。


「なぜ、フロリアンは叱られたのかしら?」

「お嬢様が公爵令嬢だからでしょう」

「公爵令嬢だと、フロリアンが叱られるの? わたくし、ご迷惑だったのかしら?」


 アタシが訪問することで止まる作業もあるだろうし、迷惑じゃないはずがないよね。


 しゅんと落ち込むアタシにセヴランが小さく笑いながら、答えてくれた。


「違う、違いますよ。公爵家が見学に来てくれること自体は一農家として栄誉なことですよ。フロリアンが叱られたのは、公爵家の令嬢に向かって気安く手を振ったからだと思います」


 こんなところでも身分差があるんだ。分かっていたはずのことなのに、それが悲しい。ちょっと前までは、公爵以下の者を全て下々の者と一緒くたにして蔑んでいたアタシなのに。


 自嘲気味に小さく笑っていると、フロリアンがアタシのもとに駆けて来てくれた。眉毛を下げてアタシの名前を呼びながら、手を振っている。


 アタシはフロリアンに笑顔を向け、手を振る。


 フロリアンの困った顔で笑う笑顔が懐かしい。心が温かいもので包まれて、すぐに冷たい吹雪で荒れ果てる。その冷たい塊が、アタシの芽生えたての気持ちを慌てて打ち消した。


 フロリアンが離れていた時間を感じさせない距離感で話してくれる。


「リュシー、久しぶりだね。元気だった?」

「え、えぇ。とても。今日は見学させてくれてありがとう」


 フロリアンが不安気にアタシの顔を覗き込んで、髪を撫でてくる。


「どうしたの? 元気がなさそうだけど……」

「まだ、旅の疲れが残っているだけよ。それより久しぶりに会えて嬉しいわ」

「あぁ。俺も。今日はサミュエル殿下とニキアス殿下もいらっしゃるんだよね? ご到着がまだだから、それまで家でお茶でもどうかなって思ってるんだけど……」


 そう言って、フロリアンはアタシの隣にいる叔父に視線を向けた。アタシもフロリアンの視線を辿るように叔父に視線を向ける。叔父はニコリと優しげな笑顔をフロリアンに向けた。


「あぁ。いただこう。今日はリュシーが無理を言ったのだろう? すまなかったね」

「いえ。お貴族様に見学に来ていただけるのは、これ以上ない誉にございます」


 フロリアンが右手をお腹の前にあてて、一礼した。


「そう言ってもらえると助かる。今日一日よろしく頼むよ」


 叔父がチラリとアタシに視線を投げた。紹介をしろということだろう。アタシはそう見当付けフロリアンの方に手を差し出した。


「叔父様、こちらフロリアン。キュレール学院での友人ですの。フロリアン、こちらはエマニュエル公爵。今は縁組されてリンネルにいらっしゃる、わたくしの叔父よ」

「君が、フロリアンか。噂はかねがね。リュシーが仲良くしてもらっているそうだね。礼を言う」

「勿体ないお言葉にございます」


 聞いたことのないフロリアンの丁寧な言葉に、アタシはまた心が痛む。自分の叔父に慇懃な挨拶を交わしている姿は、アタシが敬語を使われることを拒否したり、愛称で呼ぶことを求めたりしなかったら、そのまま、アタシに向けられた態度なのだろう。


 カンタンやセヴランに「お嬢様」と呼ばれたり、敬語を使われたりするのと、また違った痛みが気持ちをかき乱す。


 そんな沈痛な思いを胸に秘めたまま、フロリアンに誘導されるがまま、フロリアンの家に足を向ける。家の前にはフロリアンの両親と妹二人が緊張の面持ちで立っていた。フロリアンがアタシと叔父、自分の家族を紹介すると、フロリアンの父親は「ガエタン」と名乗り、お腹の前に手を充て一礼する。続いて、母親が「マノン」、妹二人が「イネス」「サラ」と名乗り、チュニックの両端を少しつまみ一礼した。


 それぞれ自己紹介を終えると、フロリアンの父親が一歩前に出た。


「本日は我が家のような、なんの面白味もない農家に足を運んでいただき、ありがとうございます。失礼でなければ、ニキアス殿下とサミュエル殿下がいらっしゃるまで、お茶をお出ししたいと存じます」

「いただこう」


 フロリアンの家は平屋の木造建築だった。入るとすぐに土間があり、食事をするのも作るのもそこで行われているようだった。そして、少し小上がりになったところが寝室のようでベッドが置かれていた。アタシたちが来るということで掃除をしてくれたのだろう。どこも小奇麗に片付けられていた。


 土間にある四角いテーブルに通されたアタシと叔父は、椅子に腰かけると、マノンがお茶を差し出してくれる。叔父とアタシはお礼を言い、口に運ぶ。屋敷で飲むのとは違い、少しザラっとした舌触りだった。紅茶と言うより、前世で飲んだことのある玄米茶を彷彿とさせる。懐かしい味だ。


「屋敷で口になさる紅茶とは、舌触りが違うかもしれませんが……」


 マノンが申し訳なさそうに、そう言うと、フロリアンは恥ずかしそうに言った。


「キュレール学院で紅茶を飲むまで、これが普通だと思っていたのですが、お貴族様にとっては、こちらの方が異質なのですよね」


 フロリアンとフロリアンの家族は立ったまま、そわそわと落ち着きなく視線を泳がせている。きっと、お茶を出さないのは失礼だけど、このお茶を出すのも失礼なのではないかと困った末の行動なのだろう。


 ……そんなに気を遣ってくれなくていいのに……。


 アタシはとびきりの笑顔を浮かべ、視線を上げた。


「とてもおいしいです。紅茶の茶葉は、その家庭ごとにも違うと聞きます。フロリアンのお家の紅茶は、どんな料理にも合いそうな味ですね」

「あぁ。優しい味だな。体が温まってゆくのが分かる」


 チラリと叔父をみると、叔父も紅茶を飲み、満足そうに目を閉じて頷いていた。フロリアンの家族がホッと一息つき、胸を撫でおろしているのが視界の端に見えた。


 叔父がティーカップを置いて、フロリアンの父親に視線を向けて、にっこりと微笑んだ。


「今日は、リンネル国からの土産があるのです。農薬をいくつか分けてもらえることが出来たので、良ければ使ってもらえれば、と」

「おぉ。それはありがたいことです。フロリアンから聞いたのですが、リンネル国では野菜の種類ごとに使い分けができるほど豊富な数の農薬があるとか……」

「豊富といいましても、四種類です。そのうち一種類はこちらで使用されているのとそう変わりはないでしょう。ただ、リンネル国の土とプレタール国の土とでは土質が違うことも考えられますので、リンネル国と同じように使用して同じ効果が得られるかは分かりません」


 叔父はそう言うと、リンネルの農薬を使う際には、畑全体の農薬をリンネルの物に変えてしまうのではなく、それぞれ一部ずつ試しに使うように説明した。同時に農薬の種類と野菜の種類の適正についても説明してくれる。


 叔父の話をフロリアンもフロリアンの両親も小さな妹二人さえも真剣な顔で頷きながら聞いていた。


 フロリアン家の扉がバンッと大きな音を立てて開け放たれ、真剣に叔父の話に聞き入っていたアタシたちはビクッと肩を竦める。一瞬あとにシルの声が聞こえた。


「ニキアス殿下とサミュエル殿下がお見えだ」

「シル? なんでシルもいるの?」


 驚いてアタシが声を出すと、隣の叔父がコホンと咳払いで、アタシの声の大きさを咎める。


 はいはい、すいませんでした。大声を出すなんて淑女としてあるまじき行動でした。


 アタシは叔父の咎めに、口に手を充てたまま、シルを見つめる。シルがニカッと笑った。


「やぁ、リュシー。久しぶりだね。今日はサミュエル殿下とニキアス殿下に付いてきたんだよ」

「そうなの。びっくりしたわ」


 シルが悪戯っぽくヒヒッと笑って見せた。


「びっくりだって? 今回のリュシーの帰国中の予定に、僕と会う予定は入ってなかったの? ずいぶん冷たいんだね」

「そ、そ、そんなことあるわけないじゃない。落ち着いたら連絡しようと思っていたに決まっているでしょう」


 夏休みの間に落ち着くとは思えないけど……。


 そう思っていると、シルがアタシの考えを見透かしたように言った。


「夏休みの間には落ち着かないんじゃない? サミュエルから聞いてるよ。この帰国中の課題がたくさんあるって。だからわざわざ会いに来てあげたんだよ。そうそう。アニーもお昼には着くってさ。どこから聞きつけたのか、ちゃっかり午後から休み取ってんだぜ?」

「そう。嬉しいわ。みんな勢ぞろいね」


 アニー……。さすがとしか言いようがない。サミュエルと会える機会は一秒でも逃す気はないんだ。格好いい。


 アニーのように、好きな人を心のままに追いかけることができなくなったアタシは、アニーの恋の成就を切に願う。アニーの想い人の想い人がアタシだというのが心苦しいけど、それでもアニーを応援したい。羨ましいけど、うまくいってほしい。アタシには叶えられない身分差の恋を。




 フロリアンの家を出た先で少しの間待っていると、サミュエルとニキアスを乗せた馬車が目の前で止まった。ニキアス、サミュエルと順番に馬車から降りてくる。


 男性陣はお腹の前に手を充てて礼をして、アタシを含めた女性陣はスカートの裾を少し上げて礼をする。


「ほぅ。ここが農家の家か。家自体はリンネルとそう変わらんな。さっそくだが、畑を案内してもらおう」


 ニキアスの変わらない俺様な態度に思わず、フロリアンとその家族を見遣る。一瞬顔を強張らせたあとにすぐ、笑顔を取り繕ってニキアスの半歩前を歩き案内した。ガエタン、ニキアス、フロリアン、マノン、イネス、サラ、アタシとサミュエルとシルと叔父、パトリック、カンタン、セヴラン、ニキアスとサミュエルの側近と列をなす。


 隣を歩くサミュエルを盗み見れば、苦笑いをするサミュエルと目が合った。


「あの、サミュエル?」

「はい、何でしょう?」

「その、同じ王族として、ニキアスの平民に対する態度は一般的なのでしょうか? わたくしその辺の常識に疎くて……」


 ニキアスの平民に対する態度には、リンネルでも肝を冷やされた。同じく平民に対してフォローをしていたサミュエルなら、平民に対する態度の常識はアタシと同じはずだけど……。


 サミュエルが前を歩くニキアスに視線を滑らせ、アタシを見ると小声で言った。


「少々対応が荒いように感じますが、リンネル国ではニキアスの対応が通常なのかもしれませんし、その辺は僕にもよく分かりません」

「そうなのですか。フロリアンに農業の見学をお願いしたのがわたくしなので、少々戸惑ってしまって。フロリアンやフロリアンのご家族が気を悪くされなければよいのですけど……」


 アタシの言葉にサミュエルがほんの一瞬、片眉を上げた。見間違えだったかと思うほどの一瞬のうちに、にこやかな笑顔に変わる。


「リュシーは本当にフロリアンのことを大切に想っていらっしゃるのですね」

「いえ、そのようなことは……。ただ、わたくしがお願いしたものですから。なるべく気分を害してほしくないだけです。帰国後もレポートの提出は必要でしょう? その時にもなにかしらお願いすることになるかもしれませんし。わたくしの農家の知り合いと言えばフロリアンしかいないものですから」


 サミュエルが貼りつけたままの笑顔で答える。本当に「貼りつけた」という表現がピッタリだ。ピクリとも表情が変わらない。その笑顔には恐怖さえ感じるほど。


「おや。おかしいですね。カンタンもセヴランもアニーも農家ではないですか」

「ですからそれは……三人とも使用人見習いで忙しいから……」


 サミュエルがチラリとアタシの後ろを歩くカンタンとセヴランに視線を投げる。


「カンタンもセヴランも同行しているようですが? アニーもお昼にはこちらにいらっしゃるとか……」


 なぜだろう。責められている気分だ。さながら浮気がバレた旦那の気分といっても過言ではない。サミュエルの細められた瞳が悠然と「農家の見学はカンタンでもセヴランでもアニーでもできましたよね?」と言っている。


「カンタンとセヴランはリュシーの屋敷の使用人になる予定なのですから、カンタンとセヴランの畑をリュシーの傘下に入れて、レポートの協力をお願いした方が喜ばれると思いますよ。リュシーの傘下に入ると、豊作、凶作に関わらず収入を得られるでしょうし」


 『関りがなくなることが目に見えていて、なんの保障もできないフロリアンに依頼しようという考えがそもそもの間違いではないですか?』と、言われている気がした。


 ニキアスがミシェーレ家の家族会議で話したように、アタシとの婚約を望んだとしたらアタシはニキアスと結婚することになるだろう。ニキアスとの結婚を受け入れるのと、フロリアンへの気持ちを断絶させるのとは、アタシの中ではどうしてもイコールになりそうにない。


 どれだけ泣いて、諦めようと自分の気持ちから目を逸らしても、心のどこかでフロリアンを求めてしまう。この気持ちを止められそうにない。サミュエルが言うように、ままならない恋ならいっそ、関りを絶ってしまった方がいい。だけど、今のアタシにはまだそこまで気持ちを持って行くことができない。


 そんな自分を愚かだと思う。公爵令嬢として生まれて、いつか、なんとなく、親の決めた相手と結婚するのだろうとは思っていた。それを当たり前のこととして受け入れてもいた。そうすることが幸せなことだとも思っていた。


 だけど、この気持ちを知ってしまった。フロリアンとの幸せな未来を想像してしまった。もう昔のようには政略結婚を当たり前のこととして受け止めることができない。今のこの、フロリアンがアタシの視界に入っている幸せ、フロリアンがアタシの名前を呼んで頭を撫でてくれる幸せ。フロリアンの視界に当たり前のようにアタシがいる幸せ。


 フロリアンがいてくれるだけで、こんなにも優しいあたたかな気持ちになれる。アタシはフロリアンを好きな自分も好きだと自信を持って言える。こんなにも宝物のように守り続けたい気持ちを今まで抱いたことなんてない。それなのに、この気持ちが国にさえ仇成すことになりかねない。そして今、サミュエルからも違った方向から釘を刺されている。


 アタシの初めてのこの宝物のような気持ちは、誰からも喜ばれない。それが酷く悲しい。自分でさえも喜べないことがもっと悲しい。


「……そうですね。カンタンとセヴランが正式に我が家の使用人に任命されたら、お父さまに相談してみようと思います」

「……そうなさると良いと思いますよ」


 さっきまで怒っていたように感じていたサミュエルの笑顔が、なぜか悲しげにみえた。




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