思いがけない言葉
フロリアンからの手紙を読んだ後、アタシは言葉に表すことのできない感情を周りに気取られないようにと精力的に働いた。
学院の授業も、早朝訓練も、モリスの誘いも、農業の見学も、全て精力的に取り組んだ。今、なにか優しい言葉をかけられると、きっと張り詰めた糸が緩んでしまう。そう思って……。
ある日学院から帰ると、パトリックに屋上庭園に誘われた。新しい花が植えられているので見に行かないかと。あまり気乗りはしなかったけど、早朝訓練に連れ出されるように半ば強引に屋上庭園へと誘われた。
そこには黄色のがく片に赤の花弁の、かわいらしい花が咲いていた。初めて見る花。パトリックが言うには毒があるという。
以前から不思議に思っていたのだけど、毒のある花が普通に植えられているのはどういうことなのだろうか。悪用される心配はしないのか。それともアタシが知らなかっただけで、前世でも普通に植えられていたのだろうか。
小ぶりな花びらが一つの茎にいくつも付いている薄紫の花、女の子が躍っているように見える赤い花、存在感を放つ白い大きな花。
あ、あの花は分かる。カンナだ。前世の学校でも見たことがある。芝生に両手をついて空を仰ぐ。雲一つない青い空。
リンネルに来て一年と少しが経ったけど、曇った空をあまり見たことがない。だからといって雨が全く降らないわけではない。作物を育てやすい環境だと以前、農民が言っていた。だけど、天災にも備えているのだと、それは誇らし気だった。
農民との遣り取りを思い出して、釣られたように記憶の奥からフロリアンが顔を出す。なんでこんなにフロリアンのことを思い出すと辛くなるのだろう。辛くなるから思い出したくないのに、思い出さないと酷く淋しい気持ちになる。不思議な気持ち。
「いかがですか?」
アタシの背後で立ったままのパトリックが声をかけてきた。アタシは振り返ってパトリックを見る。
「えぇ。とてもキレイです。ただ、毒のある花がこう普通に植えられているのは、危険ではないのかしら?」
「あぁ。この庭園は出入りできる者が限られているし、許可のない者が出入りしていることを知られれば、即刻厳重処分となるようです。自分もリュシエンヌ様のお供でないと出入りを禁じられているのですよ。あちらで門番が交替制で始終警備しているのです」
人の出入りの時だけの護衛かと思えば、この屋上庭園担当の門番だったらしい。屋上庭園が屋敷にあるというのは一種の富の象徴なのだろう。花代、管理代、人件費と、アタシが思い至るだけでもかなりの経費がかかる。
「少しはお心の慰めになりましたか?」
意表を突かれて思わずギョッとしてしまう。
なんで……。
「自分がリュシエンヌ様の護衛として仕えて一年余り。恐れ多くも、護衛騎士となる前から、その真似事をしておりました。その自分がリュシエンヌ様の変化に気付かないとでも……? 失礼ながら、最近のリュシエンヌ様は、ご自身の気持ちを払拭するように、ひたすら体を動かしているように見受けられましたので」
あんなに必死に取り繕っていたのに。以前は気落ちしていたことが周りの者に気付かれてしまっていたから、それはもう必死に。
「……心配してくれてありがとう。その、プレタールの友人とわたくしとの間に距離ができてしまったのだと思うと、辛くなってしまって……」
「なぜ、そのように思われたのですか?」
話そうか話すまいか考えた。正確には人に話せるほど考えがまとまっていない。
普段自分から話しかけてくるなど早朝訓練以外にはないパトリックだ。よほど心配してくれているのだろう。まとまっていない言葉を紡いでしまって良いのかと考えていると、屋上の扉が音を立てた。視線を向けるとルネがにこやかな笑顔で立っていた。
「お嬢様。サミュエル殿下がお見えです。こちらにお茶の用意をいたしますね」
サミュエルが先触れもなしに訪ねてくるのは初めてのことだ。何かあったのだろうか。アタシは一つ頷き、ガーデンチェアに腰掛ける。パトリックもその動きに合わせてアタシの背後についた。ルネと入れ替わるようにサミュエルとその護衛が入ってきた。
「サミュエル、どうなさったのですか?」
アタシはサミュエルに向かいの席に座るよう促しながら尋ねた。サミュエルが言いにくそうに視線を落とす。バッと何かを決意したかのように厳しい顔つきになった。
「……最近は、お元気がないようなので」
サミュエルにも気づかれていた。アタシの言動や表情は自分で思っている以上におしゃべりのようだ。
「先程パトリックにも心配いただいのですが、わたくしそんなに分かりやすいですか?」
アタシの言葉にサミュエルが険しい表情でアタシの後ろのパトリックを見た。アタシが二人を交互に見遣っていると、サミュエルがハッとしたように笑顔を浮かべる。
「……そうですね。少なくとも僕には分かります」
アタシに話しかけているはずのサミュエルが、なぜかアタシの頭上のもっと上、おそらくはパトリックを見ながらそう言った。
「そうですか……。お恥ずかしいです……」
そう言ってアタシは頬に手をあててため息をつく。サミュエルが慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「何かあったのですか?」
「何かあったというか、その、ニキアスの婚約者候補ということがフロリアンに知られてしまって……」
「知られてしまって……?」
「お祝いされたのです」
「……それがリュシーの気落ちしている原因なのですか?」
「考え得る限りでは……」
あの手紙の内容は、かなりショックだった。次の約束がないことよりも、身分が違うと突き放されたことよりも、お祝いされたことが悲しかった。
「婚姻が決まるのは喜ばしいことではないですか。フロリアンが祝うのは当然のことですよ」
「まだ決まってはおりません! 婚姻どころか婚約者候補に名前が挙がっているにすぎません! ……サミュエルもニキアスから婚約者候補を辞退するように取り計らってくれると申してくださったではありませんか!」
「……その考えは今も変わりません。今お話しているのは、どうしてフロリアンに祝われたことが悲しいのかということです」
なぜ当然の祝いの言葉でそうも落ち込むのだと詰問されるが、そんなことアタシにも分からない。ただ、胸が張り裂けそうなくらいに辛いのだ。
「分かりません。ただ辛いのです。フロリアンがわたくしの結婚を喜んでくれることが、ひどく辛い……。こんな気持ちは初めてで、分からないのです」
声がどんどんと掠れていった。泣いていることを気付かれないように慌てて両手で顔を覆う。分からないと、そのまま首だけを横に振った。
サミュエルは「リュシー」と優しい声で名前を呼び、顔を覆うアタシの手にハンカチをあてた。アタシも顔を覆っただけで泣いていることを隠せるとは思っていない。素直にハンカチを受け取り、涙を拭う。
「リュシーは……、その……恋をしたことはないのですか……?」
思いがけない言葉に涙が引っ込んだ。恋? なんで恋?
「恋……ですか……?」
見開いた目でサミュエルを見れば、淋しそうな表情を浮かべている。
「えぇ。本当はこのようなこと言って自覚させたくはないのですが、リュシーが感情の渦に囚われて辛そうなので……。……それは、フロリアンが好きだから……なのではないですか?」
はぁ? アタシの知っている恋はこんな辛いものじゃない。
「ですが、サミュエルのときは、このように辛くはなりませんでした……」
アタシの言葉に今度はサミュエルが目を丸くする。
しまった。これでは本人に初恋でしたと告白したようなものだ。
「僕のとき? どういうことですか?」
サミュエルの目があまりに真剣みを帯びていて言い逃れできる気がしない。
「……その、入学式のときサミュエルを初めて見て、素敵な方だと……」
サミュエルの顔を見るのが恥ずかしくて視線を落とす。だけどサミュエルの反応が気になり、ハンカチで鼻と口を隠して、チラリと盗み見する。サミュエルは一瞬頬を緩めたかと思うと首を傾げた。
「ですが、リュシーは当初、僕を毛嫌いしていませんでしたか? その、話しかけても素っ気なく、すぐに離れていってしまって……」
それは、サミュエルに殺される未来を知ったからだ。自分でもあの気持ちの切り替えの早さには引いた。自分の生存本能がエグイ。
「それは……、周りに素敵なご婦人がいつもいらっしゃいましたから……。わたくしなど……と」
「リュシー。僕の知る限りリュシーはそんな弱気な人間ではありません。なにか他に理由があるでしょう?」
いやいやいや。鋭い指摘には恐れ入るが、本当のことを語るつもりはない。それこそ失礼になるし、アニーの気持ちをバラすことにもなりかねない。
「その、あのままでは法を犯しそうでしたので……」
「僕のことが好きだと法を犯す……申し訳ございません。意味が分かりません」
だよね。掻い摘んで話し過ぎだよね。……なんでアタシは初恋相手にこんなにも当時の気持ちを赤裸々に話させられているのだろう。
「その……サミュエルに一目惚れしたとき、恐れ多い話なのですが、わたくし、どうしてもサミュエルを手に入れたいと思ってしまったのです。それで、色々と策を練ってですね……」
「策……と申しますと……?」
「叔父を巻き込んだ壮大な計画ですわ。まかり間違えば諜報活動ととられるかもしれないと思うと、そんなことを考える自分が恐ろしくなってしまって……」
恥ずかしくて、絞り出すようになんとか言葉を紡いだ。サミュエルが呆れたようにため息をつく。
「諜報活動って……。リンネルとプレタールは既に友好国です。流されて困るような情報はそうはありません」
だけど、アナタがそういう風に仕立て上げるのよ。などと言えるはずもない。
「ですが、わたくし本当に根性が悪いのですよ。自分でも何をしでかすか分かりません」
悪役令嬢だからね。性格の悪さは折り紙付きだ。
「確かにリュシーは何をしでかすか分からないところがあってハラハラしますが、法を犯すようなことをする人ではありませんよ」
「そう言っていただけると助かります……」
「そんなことで、僕から逃げようとしていたのですか?」
そうだった。逃げようとしていたことにも気付かれていたのだ。なんだろう。もうアタシの考えは顔にそのまま書いてあるのかもしれない。華麗に優雅に立ち去っていたはずなのに。
自分の行動の拙さから意識を放したくて遠くを見つめてしまう。
「そのまま大人しく僕を好きでいてくれれば良かったのに……」
「はい?」
「そのまま大人しく僕を好きでいてくれれば良かったのにと言ったのです! 僕の知らないところで僕のことを好きになって、また僕の知らないところで心変わりですか。随分と都合が良いのですね」
なぜか分からないが、アタシ、今、サミュエルにめちゃくちゃ怒られている。アタシの気持ちはアタシだけのものだ。それに心変わりの意味もよく分からない。
「心変わりとは?」
「まだ分からないのですか? リュシーはフロリアンが好きなのですよ! いつの間にか僕から心変わりしてね!」
「アタシがフロリアンを? そんなはずありませんわ。だって、サミュエルの時は手中に収めたくて仕方なくて、その美しさに一瞬で心も目も耳も奪われたのですもの」
「それは僕という人間を知らない時に感じたものでしょう? そんなもの絵画に見惚れているのとなんら変わりありませんよ!」
なんという言い草だ。初恋でしたと言う相手に、その詳細を尋ねられた挙句、聞かれるがままに答えれば、ただのファン心理となんら変わりないと宣う。確かに一瞬のことだったけど、この言いようはあんまりだ。
「その言いようはあんまりではありませんか!」
「そう言いますが、リュシーの言い分を聞く限り、容姿や社会的地位にのみすり寄って来る取り巻きとなんら変わりありません」
なるほど。サミュエルも魑魅魍魎モンスターに辟易としているのは分かった。だけど、作戦とは言えアタシはちゃんと本音で付き合っていたはずだ。
「ですが、わたくしはサミュエルにたかる魑魅魍魎モンスターとは違います。ちゃんと本音で向き合ってきたつもりです。それをそのように言うなんて、今まで築いてきた関係をそんな風に……。あんまりです!」
「あんまりなのはリュシーの方です! 好きな人に好きだったと言われた上、今は違う人を想っていると聞かされたのです。僕の方がずっと可哀そうです!」
……え? 今何を……? サミュエルがアタシのことを……?
呆然とサミュエルを見つめるとハッとしたように口元を押さえた。そして、意を決したように言う。
「いいです。リュシーが気付かなかっただけで、リュシー以外の者はどうせ気付いているのですから。そうですよね? パトリック?」
サミュエルに視線を投げられたパトリックにアタシも視線を向ける。パトリックがコクリと頷いた。
「存じておりました」
驚いて、ルネにも視線を向けるが、気まずそうにコクリと頷くだけだった。
「リュシー、王族がなんの信頼もおけない者に看病など頼むと思いますか? 僕がそのような愚かな人間に見えますか?」
「ですが、あれは……。わたくしの看病法を……」
「それだって、わざわざリュシー本人に来ていただく必要のないことです」
あんなに分かりやすい行動はないのに、なぜ自分の気持ちに気付かなかったのだと半ば攻め立てられる。こんな声を荒げたサミュエルを見るのはダニエル事件以来だ。正直怖い。
……なんだろう。告白されているはずなのに、怒られているような気がする。
「とにかく! リュシーはフロリアンが好きなのです。そして僕はリュシーがフロリアンを想うようにリュシーを想っているのです! だけどフロリアンより僕の方が絶対にリュシーを幸せに出来ます! 絶対あきらめませんから!」
そう捨て台詞を吐いて、サミュエルは帰って行った。
呆然としたまま、紅茶に口をつける。もう冷めきっている紅茶の温度がサミュエルの告白? の時間を物語っていた。




