一年が経った
リンネルに来て一年が経った。長くも短い一年だった。なんとかニキアスとは婚約者候補で踏みとどまれているし、サミュエルとも仲良しの友人のままだ。パトリックは例によってアタシを鍛えることに夢中だ。
サミュエルの看病をしてからというもの、何かにつけて城に呼び出されて、看病法の一つ一つの詳細や、そうするに至った考えについて聞かれた。プレタールの王子がその看病法で以前までより早く風邪が治癒したことでアタシの看病法に信憑性が増し、少しずつ風邪の看病はそれにシフトしていくと陛下が言っていた。
叔父は、リンネルは情報を得ることに慣れているから、国内で広げて効果がなかったとしてもアタシの責任を問われることはないと言っていたけど、そうは言っても死亡フラグだらけのアタシは不安を禁じ得ない。
しっかりと陛下に「風邪の場合のみに有効かもしれない程度にお考え下さい。大きな病気になるとわたくしなどの看病法ではとても太刀打ちできません」と伝えておいた。
「分かっておる」と満足そうに頷く陛下を見て、恐らくリンネルの国民は研究肌の人が多いのだろうと思った。新しい情報の真偽を確認する作業がそもそも好きなのだろう。それはアタシに細かく意見を求めてくる医者や研究者を見ていると一目瞭然だった。目が爛々としているというか、目の前にお菓子をぶら下げられた子供のようなのだ。
医者相手に子どものアタシが意見するなど前世ではとても考えられない。医者とか教師とか『先生』と呼ばれる人に尻込みするのはアタシだけではないはずだ。気を悪くしないかと尻込みしていると、思いつくことがあれば気負わず話すように言われた。その真偽はこちらで確認するから、と。
なぜか宮廷医師のモリスに気に入られたらしいアタシは、この半年ほど休みの度にモリスに連れまわされた。薬草の知識は薬屋の方が詳しいからと、そこにも案内された。
風邪の看病くらいしかできないと何度も言ったのに!!
叔父に愚痴ると「留学の実りが増えて良いではないか」と満足げに笑うだけだった。どうやら自分の姪が殊の外、優秀な人材として扱われているのがとても嬉しいらしい。
そんなある日、モリスに王族の健康診断に付き合わされていた時のことだ。健康診断を終えたサミュエルが言った。
「リュシーは医術に興味がおありなのですか? 留学の当初の目的は農業についての知識や技術を得るためだったと記憶しておりますが」
「わたくしもその予定でしたし、モリス医師と共に王族の健康診断に立ち会う日が来るとは思ってもいませんでした」
何かにつけてモリスに連れまわされては、業務終了後意見を求められるのだ。
おかしいよね? アタシ十五歳だよ? 十五歳の子どもが宮廷医師に意見を求められるなんて絶対おかしいよ! たかが風邪の看病がうまくいっただけだよ?
「だが、それはリュシエンヌのせいもあると思うぞ」
いつの間にか背後にいたニキアスが、なぜか責めるような言葉を吐く。アタシの何がいけなかったというのか。
「他国の者が、リンネルに来ると体調を崩すのは他国にない病気の素が原因かもしれないと言ったであろう? あれが医師たちに衝撃を与えたのだ。自国から出たことのない我々にはない着眼点だとな」
前世の父が海外出張のある仕事をしていたので知っていただけだ。出国前に出張先の流行り病に沿ったワクチンを接種してから出張に臨んでいた。
……ニキアスが言わなければ医師の耳に入ることもなかったと思うけどね!
「あぁ。あれはこれまでの医術の見識に衝撃を与えていましたね。他国に渡った者やリンネルに入国した者に、移住後三か月以内に、体調を崩したかという問いに過半数の方が同意したと聞いています」
「……ですがあれは、ただの思い付きです。そんな国家規模のアンケート……調査をすることになるなどと誰が考えますか?」
「自国に他国にはない病気の素があるかもしれないと考える者もそうはいない」
「……ただの思い付きだと申しておりますのに!」
「そのただの思い付きが医師らの探求心に火をつけたのであろう」
じゃあもう、余計なことは言わない。これ以上振り回されては敵わない。正直、平日は学院、休日はモリスのお供か農業の見学で休む暇がない。誰もアタシの健康については考えてくれないのか。ルネでさえ叔父と同様、毎週末連れ出されるアタシを誇らしげに見送るのだから。
「だからと言って、思いついたことを口にしないなどと考えてはいまいな?」
アタシの心を見透かしたようにニキアスが言った。アタシの周りの人はなぜこんなにも手に取るようにアタシの考えを当ててくるのか。
「そ、そ、そのようなことは……」
「考えていたのだな? ハッキリ言おう。留学に利があるのはプレタールの者に限ってのみであってはならない。リンネルにとっても利がないと、情報を持ち出されるだけになるではないか。リュシエンヌにもそのくらいのこと分かるであろう?」
「……はい。……ですがアタシの思い付きが利になるかどうかは……」
「お前はただ思い付きを話せばよい。その正否を確認するのはリンネルの仕事だ」
今のは間違いなく王族のニキアスとしての意見だ。逆らえるはずもない。助けを求めてサミュエルをチラ見するが静かに首を横に振るだけだった。
もとはと言えば、風邪っぴきのときにアタシを呼んだサミュエルが悪いのに……。
それさえも口にできない。サミュエルもまた王族だから。アタシはあと一年を言われるがまま粛々と過ごすしかないのだ。何度となく思う。なぜアタシは王子二人と行動を共にしているのか。
はぁ。と無意識にため息が漏れた。
「あと一年、できる限りのことをしたいと思います」
「うむ」
「リュシー。僕にもできることがあればおっしゃってくださいね」
健康診断が終了し、モリスに意見を求められた。何か気になった点はないかと。現世での健康診断はいやに簡素だ。聴診と触診と身体計測のみだ。前世にあったような心電図検査や聴力検査、視力検査などはない。気になった点といえば、その辺りだが、それをしたからと言って、補聴器はないし、メガネも広く流通してはいない。対処できるものがないのだからしても意味がない気がする。悪戯に体の異常だけを告げられることになるのだから。心電図検査に至っては生死が関わることもあるだろうし、いづれにせよ、そこまでの詳しいことはアタシには分からない。
考え込むアタシにモリスが問いかける。
「何かあるんだね?」
ニキアスの思いついたことは全て話せという言葉が耳をかすめる。
「……視力の検査や脈の検査はしないのでしょうか?」
聴力検査や心電図検査など説明できそうもないことは最初から言わない。
「ほう。視力検査と脈の検査?」
視力検査は学校の検査板を思い浮かべて話す。数値化することで前回より悪くなっていないかが分かるはずだ。検脈については、薬屋に不整脈っぽい症状用の薬があると聞いたので対処できるはずだ。自分が前世で医者にそうされたように、手首を触り脈が規則的に動いているかどうかを確認すると良いのではないかと伝えた。
ただ、視力検査については数値化できてもメガネを量産できない現世では、悪くなっているかどうかが分かるだけでそう役に立つとは思えない。検脈については不整脈があったとしても、特に治療の必要がないものもあると前世の医療特番で見た気がする。脈が規則的に動いていないからと、すぐに薬というのもいただけない。
アタシは懸念事項も併せてモリスに伝えた。モリスは「ふむふむ」と満足そうに頷いた。
「やはりリュシエンヌ様は視点が違っておもしろいですな」
正確にはアタシの視点ではなく、前世で育った者としての視点だ。そう敬われるのはなんとなく後ろめたいからやめてほしい。
やっとモリスに解放されて屋敷に帰ろうとすると、城の執事に引き留められた。夕食を準備したとのことだ。モリスに連れまわされた挙句、陛下との食事会の誘いを受けるのは最近では珍しくなくなった。
サミュエルの看病に来た時に招かれたときのメンバーに加えてサミュエルもいる。サミュエルがいるので、陛下がニキアスとの婚約を臭わせると、サミュエルがスマートに話題を変えてくれるのであの時よりはまだマシだ。
皇后のアタシを見定めるような厳しい目もいつしか柔らかいものになったし、この食事会にも慣れてきたので、以前と比べると随分とリラックスできるようにはなった。本当はサミュエルにニキアスとの婚約者候補破棄について相談したいけど、サミュエルとなかなか二人になることがない。来年プレタールに帰る形で、しれっとご破算にすることはできないかと考えあぐねている。……無理だろうけど。
そんなある日、フロリアンとアニーから手紙が届いた。アニーの手紙にはいつも通り、サミュエルの情報求む! 的な内容で、フロリアンからの手紙の内容は愕然とするものだった。
『やぁ、リュシー元気かい? 俺は変わらずやってるよ。もうリュシーがいなくなってから一年も経つんだね。長いような短いような不思議な感覚だよ。
カンタンとセヴランから聞いたんだけど、リンネルのニキアス殿下の婚約者候補にリュシーの名前が挙がっているんだって? 屋敷中が歓喜に沸いていると聞いたよ。おめでとう。リュシー。
あぁ。まだ候補だからおめでとうは早いのかな。いつも対等に接していてくれたから、あまり考えたことはなかったけど、リュシーは王族と結婚できるような立場の雲の上の人だったんだね。
リュシーとの身分差に改めて気付かされたよ。学院に行かなければ、もっと言えば、王が平民の入学を認めなければ、俺とリュシーは顔も合わすことのない立場だったんだ。
だけど出会えた。その運命には感謝している。でもちょっと寂しいって思ってしまう。ははっ。贅沢だよな。リュシーはずっと公爵家の令嬢だったのに、俺だけが勝手に近く感じてしまっていたんだ。
もしかしてリュシーはもう帰国しないのかな? だとしたら淋しいけど、リンネルにリュシーの幸せがあるのなら、俺は応援するよ。リンネルでのリュシーの生活を。
どうか元気で。体、大切にするんだよ』
ニキアスの婚約者候補について、フロリアンにはなんとなく知られたくなかった。だから手紙には書かなかった。ブッチするつもりだったし。
フロリアンに婚約を祝われたことがすごく辛い。気持ちがざわついて、こめかみが痛くなる。手紙の最後に『またね』ってなかった。次の約束がないのが怖い。
アタシとフロリアンは別世界の人間だと、なんとなく突き放されたような気がした。
酷い焦燥感に呆然としたまま、溢れ出る涙を拭うこともできなかった。




