パトリックの暇のすきに
「本日は午前中、騎士同士の情報交換会がありますゆえ暇をいただきたく存じます。くれぐれも一人でふらふらとうろつかれないようお願いいたします」
パトリックが朝食後窘めるようにそう言った。学院は休みだし、アタシは屋敷から出ない。だから午前中と言わず、一日でも二日でも一週間でも一か月でも休暇をとればどうかと提案してみたが即刻拒否された。先日の休日も護衛していたので少し休んでほしい。
パトリックは、よほど護衛の仕事に責任を持っているのか、仕事がすごく好きなのか、夏休み中のリンネルでの護衛訓練以外、休暇をとっていない。つまり、ずっと一緒にいる。ずっと背後にいる。淋しいと叔父と話していた時も、ニキアスに心配されていた時も、なんなら手紙を読んで泣きまくったあとの腫らした瞼も、全て見られているのだ。
元同級生だっただけに居た堪れない。たまにしか話すことのなかったクラスメートがある日を境に、屋敷でも外でもピッタリと自分に付き従うのだ。あんな場面もこんな場面も見られてしまっているし、今後も見られるに違いない。少なくともリンネルにいる間は。
「リュシエンヌ様? 聞いていらっしゃいますか?」
自分の思考の海に捕らわれていると。パトリックに無理やり意識を戻させられた。
「……えーと、なんと?」
「ですから、外出する際にはエマニュエル公爵の護衛騎士のカエサルにお願いしてありますので、必ず同行させるようお願いいたします。エマニュエル公爵にも許可は取ってあります故」
その後も、見かねたルネがアタシのお茶を二度入れ替えてくれるくらいの時間、懇々と注意点を述べられた。屋上は崖と同様アタシにとっては危険なところだから絶対に一人で行かないように、とか、急に誰かが訪ねてきたときも一人で対応しないように、とか。最終的には自室と居間以外はカエサルを連れて行けと言われた。ちょっと過保護だと思う。
情報交換会の時間が迫っているのに、まだ言い足りないのか、でもこれ以上遅くなると間に合わないのか、パトリックらしくもなく、部屋の扉をその手で閉める直前まで荒げた声で注意し続けた。
ルネは閉まった扉を一瞥したあと、にっこりと微笑んだ。
「分かりましたね?」
「パトリックが言った通り、ここから動くなよ!!」という副音声が聞こえるのは気のせいではないはずだ。アタシは複数回頷く形でルネの言葉に返事をした。
今日のアタシは実質、自室か居間以外には居られない。どうせ居座り続けないといけないのなら中庭が見える応接間がいいとルネに希望を出した。ルネが応接間の使用予定を執事長に確認してくれて、応接間の移動の許可が出た。
応接間で中庭の見えるガラス窓に近いテーブルに着いて、ルネが持って来てくれた本を読みながら、またお茶を飲む。この世界の女性の室内での娯楽といったら本とテーブルゲームくらいだ。それだって一人ではできない。自室だとルネが相手をしてくれるのだが、側仕えという立場で主人と同じ席に着くのは外聞がよくないので、屋敷内での共有スペースでは絶対に相手をしてくれない。
もう乙女ゲームは懲り懲りだけど、ガンシューティングゲームがしたい。前世では銃型コントローラーを使って、にっくきいじめっ子たちを頭に浮かべて、プレイ中の敵をやっつけまくっていたのだ。
願ったところで降って来るわけでもないので、静かに本を読んでいるとお腹に飼っている虫が空腹を告げた。ルネがクスリと笑い、お菓子の準備をしてくるので待っているように言った。ルネが退室して応接間に一人になると、途端にトイレに行きたくなった。
叔父の屋敷に移ってパトリックも滞在を始めた当初は、トイレの時もパトリックが音もなく後ろを付いて来ていたが、さすがにそれは勘弁してほしいと頼み込んだ。それでも真面目なパトリックは、首を縦に振らなかったため叔父からも言ってもらって、学院ではトイレも同行するということで決着した。
プレタールでも学院のトイレに付いて来ていたが、このままなし崩しにどこのトイレであっても同行しないということにしたかった。しかし、エマニュエル公爵にも言われたから仕方なく屋敷内のトイレは遠慮するといった態度だったので、それ以上は言えなかった。
いったいパトリックはトイレにどんな危険が潜んでいると思っているのか。
だから、応接間から出ることになるが、トイレは一人で行っていいはずだ。ルネがお菓子の準備をしている間に済ませようと思う。
トイレを済ませ廊下を歩いていると屋上庭園へと続く階段への扉が目に入った。
屋上へと続く階段への扉はなぜか、すごく輝いて見えた。その輝きはまるでアタシに『ちょっとだけなら大丈夫。ほら、こっちにおいで。天気はいいし、風も気持ちいいよ』と話しかけているようだった。ふらふらと、その輝きに吸い込まれていく。
屋上へと続く階段を上がるなか、息切れが以前より軽くなったことで、体力がついてきたと実感する。星空観賞会のときには少しだけだけど息が切れていて、その様子を目敏く見ていたパトリックに翌日からの早朝訓練にランニングを追加されたのだ。その成果が出ている。
何度でも思う。パトリックはアタシを鍛えてどうしたいというのか。三階くらいまでならともかく、それ以上の階段が続けば前世のアタシだって息切れくらいはした。パトリックは体力がないと心配して訓練をしてくれているのだろうけど。
自分で開けたことのない屋上の扉を開けて、びっくりした。重い。前世の非常階段の扉だってこんなには重くなかった。この時代の科学が早急に発展することを切に願う。
花たちを愛でながら、芝生へと進み、ころんと寝転がった。ちょっと首元がチクチクするけど問題はない。実は星空観賞会のとき、寝転がっている王子二人が羨ましかったのだ。
風通しがいいので少し肌寒いけど、太陽が燦燦としているのでちょうどいい。若葉の匂いが鼻をかすめる。少し視線を巡らせれば色とりどりの花が見える。その中に、ニキアスが髪飾りにしてくれた花があった。白の絞りの入った紫がかったピンク色の花だ。今は、自室の机の上にガラスボールに水を張って浮かべている。
叔父から聞いたのだが、この屋上庭園の花はとても美しいけど毒性のある花もあるため、部屋に飾りたければ必ず叔父の使用人か庭師に許可を取るようにとのことだった。星空観賞会のときに叔父の使用人がいた気がしたが、気のせいではなかったらしい。もちろん、ニキアスがくれた花には毒性はない。
毒のことを考えていてふと自分の死亡フラグについて思い出す。最近は孤独に苛まれることと、それに抗うことに頭がいっぱいで考えることがなかった。二年後、死亡フラグを回避したアタシは自由に動き回れることだろう。たぶん。
帰ったらカンタンかセヴランに頼んで、フロリアン、アニー、シルを招待してもらってお茶会をしてもらおうか。みんなで過ごすいつの日か来るだろうその日のことを考えながら、頬にあたる風を気持ちよく感じていた。
「リュシエンヌ様!!」
「お嬢様!」
パトリックとルネの声が意識の遠くで聞こえる。
頭がズキズキと痛む。手を頭に持って行こうとすると手がすごく重たく感じる。熱い、熱い、熱い。そっと目を開けると、心配そうな顔のルネが額のタオルを取り換えてくれているのが目に入った。
「お嬢様。お加減はいかがですか?」
「……頭が痛いわ。……体も怠いし、とても熱いし、手が重たくて挙がらないのだけど」
ルネに返事をした自分のかすれた声で風邪をひいたのだと分かった。自慢じゃないが現世に生を受けてからというもの一度たりとも風邪をひいたことのない健康優良児だ。だけど、前世の記憶を辿っても風邪をひいてこんなにも手が重たくて動かせないということはなかった。背中や手足、シーツと毛布との接触面に信じられないくらいの汗を感じる。
現世はおそらく前世より古い時代だ。ともすればアタシは何か前世にはないウイルスにやられたのかもしれない。医療も前世のように発達しているとは思えないし、もしかしたら万が一のことがあるかもしれない。そこまで考えて涙が溢れてきた。
死亡フラグのためにあんなにも居心地の良かった居場所を手放したというのに、死んでしまうのか。神様はどうあってもアタシを殺したいのか。神様だけじゃない。生きとし生けるもの全ての意志がアタシの死を望んでいるんじゃないか……。
涙が目尻を流れてこめかみから頭皮へと浸みこんでいく。酷く寂しい。侘しい。
どうせ死ぬのなら寸前までプレタールのみんなと一緒にいたかったよ……。
「お嬢様? どこかお辛いですか?」
「……わたくし……死ぬの……?」
ルネの目がギョッとしたように見開き口がポカンと開く。我に返ったようにふんわりと笑みを浮かべた。
「ただの風邪ですよ。お医者様にも見ていただきました。温かくして寝ていればすぐに治るそうですよ」
ルネが言うには、アタシは屋上庭園で居眠りをしてしまったようだ。お菓子の準備をして応接間に戻るとアタシがいない。トイレにでも行ったのだろうとしばらく待っていたが、戻ってこない。それから他の使用人と手分けをしてアタシの捜索をしたが見つからない。
情報交換会を終えて帰宅したパトリックに報告すると、パトリックがもしかして、と屋上を探しに行った。そこに芝生に寝転んだまま瞳を閉じているアタシがいたそうだ。
「こんなところで寝転んではしたない」と言いながら、アタシに近付いても反応がない。額には汗が滲んでいる。おかしいと思い頬に触れると熱い。よく見ると額だけでなく体全体がしっとりと汗ばんでいる。それなのに、体は震えている。ルネの様子を見ていたパトリックがアタシを抱き上げて、そのまま自室まで運んでくれたそうだ。
……やっちまったな。
ルネの声色が心配から呆れに変わり、更に怒りに変わって来た。その移り変わりに反応するようにアタシの涙は引いていった。今のアタシの瞳はどちらかというとカラカラに乾いている。
「パトリックに屋上に行くときは護衛を付けるように言われていたはずですが!?」
「……急なことだったから」
「なにが急だというのです? お手洗いの扉を開けたら屋上に出たとでもいうのですか!?」
「……そんなようなものです……」
嘘ではない。輝いていた屋上に続く扉が悪い。さっきまで確かに心配と慈愛に満ちていたルネの表情は、すっかりといつもの調子を取り戻したようで、まだ小言を続けている。
「……これからは言われた通り屋上に出る時は供の者をつけます。それよりルネ? 手が重たくて挙げれないのだけど」
ルネの表情は不安に強張り、布団をそっと退けてくれた。というか、さっきも同じこと言ったんだけどね。
「どうですか? 手は挙がりますか?」
ルネの言葉に手を挙げてみると難なく挙がった。どういうことだと、その挙がった手で布団を持つと、これでもかというほど毛布やら布団やらが掛けられていた。
こんなに何でも上に掛けられたら重たいはずだよ! 汗もかくはずだよ!!
「なんでこんなに布団が掛けられているの? 重たいのだけど……。熱いし……」
「先程まで震えられていたものですから」
額を拭えば腕にべったりと汗がへばりつく。
「今はこんなに汗をかいているわ。ルネ、席を外していたの?」
滝汗をかいているアタシに気付かないルネではない。洗面器の水や横飲みの水を替えに行っていたのかもしれない。
「いえ。ずっとお傍におりましたが……」
「ではなぜ布団はこんなにもたくさん掛けられたままなの?」
ルネを責めているわけではない。単純に意味が分からないだけだ。ルネが病人の看護をする際にマニュアル以外のことをするとは思えない。
訝し気な表情でルネが首を傾げる。
「風邪をひいたら温かくして過ごすのが看護の常識です」
なんと、この世界では悪寒のときも発汗のときも同じく布団をかけて体を温めるのが、病人の看護の基本だそうだ。風邪が治るまで交代制で横にずっと張り付いて、熱くて病人が布団を蹴飛ばしたら、また掛けるのが主な看護になるらしい。厳密には額を冷やすことになんの意味もないが、額に置いた濡れタオルの効能は思いやりだけなのか。考えられない。
「……ルネ。汗には体温調節作用があるの」
前世のアタシは高校の選択科目で生物をとっていた。そこで習ったのだ。このくらいのこと前世の高校生ならみんな知っている。
アタシはルネに説明した。風邪のウイルスを退治するために体を温めた方がいいが、ウイルスとの戦いに体が有利になったら、汗をかいてくる。寒気がなければ今度は体を冷やし過ぎないように細目に着替えをした方がいい。汗で体を冷やし過ぎると体に残っているウイルスがまた元気になって、風邪をぶり返してしまうと。
ルネの常識にないことをアタシが言ったのか、ルネはアタシの話を首を傾げたまま聞いている。
汗をかいて体の水分が抜けすぎてしまうと、体の中の水分バランスが悪くなって最悪の場合死ぬこともある。この世界にスポーツドリンクなんてあるわけないので白湯をお願いした。アタシが風邪にうなされながらも途切れ途切れに説明する様に哀れんだのか、首を傾げながらも言うとおりにしてくれた。
着替えもしたいし、シーツも変えてほしい。あんな、オネショの後みたいにびっしょりと濡れたシーツの上でもう寝ていたくない。そう言って体を起こすと頭から血の気が一気に引いて、ふらりと上体だけ横に倒れてしまった。
ルネは慌ててパトリックを呼んできてアタシを椅子へと運ばせた。パトリックが退室したのを見届けて、数人の使用人とルネで一気にアタシの着替えとシーツの交換を終えた。本当はマットレスごと取り換えてほしい。シーツを取り換えたところで、そのシーツが即座に汗に濡れることは目に見えている。とはいえ、いくらアタシでもそんな重労働はさすがにお願いできない。
使用人たちも首を傾げながらシーツ交換とアタシの着替えをしているしね……。
すべてが終わりルネだけが部屋に残る。ノックの音がしてルネが返事をすると、パトリックが入って来て、またアタシを寝台に運んでくれた。
「ごめんなさい。汗まみれで、気持ちが悪いでしょう?」
アタシを寝台に降ろすとパトリックは少しだけ首を傾げた。
「気持ちが悪いなど思うはずがないでしょう? 汗は風邪に勝つために必要なのだと使用人たちから聞きました。ともすれば、自分にとって敵を倒す剣と同じです」
ちょっと意味が分からないが、気持ち悪くないのであればそれでいい。
「ありがとう」
「とんでものうございます。……風邪が良くなったら、お話があります」
パトリックの強い眼力と目が合い、話の内容に見当がつき、おもわず身を引いた。一瞬怯んだアタシに気付いたパトリックが顔に笑みを広げた。
「お大事になさってください」
パトリックの笑顔を初めて見た。優し気な笑顔はとても感動的だったけど、会話の内容が内容だけに怖い。風邪が治ったらすぐに謝罪したいと思う。
寝転んだベッドは冷たくなかった。どうやら汗に滲んだ新しいシーツに気付いて、掛け布団の一つを敷布団にしてくれたみたいだ。さっきまでよりベッドがふかふかする。ふかふかベッドに熱っぽい体の上にはタオルケットだけ。涼しくなったし寝返りも打ちやすい。体がホッとしているのが分かる。
翌日、熱がすっかりと下がったことにルネは驚いていた。体温計なんてものはないから、首元を触っての体温測定だけれど。熱は下がったが、念のため学院は数日休みましょうとルネが言った。
ルネいわく、現世では風邪の熱が一週間下がらないのが普通らしい。まぁ、あんな風邪をひいて治ってまたひかせるためにあるような看護ではそれも当然だと思う。叔父が見舞いに訪れたときも解熱の早さに驚いていた。前世と現世では“風邪は寝て治す”の“寝て”の意味合いがだいぶ違う。
今後はアタシ流の、正確には前世で当たり前に行われている家族看護を屋敷中の側仕えに指南するとルネが意気込んでいた。自分の死亡フラグには一向に役立たずだった前世の記憶が、やっと意味を持ったことにほっこりとしていると、ノックの音が聞こえた。
ルネが返事をするとパトリックの声が聞こえ、ルネが対応のために退室した。
戻ったルネが困った顔で言う。
「ニキアス殿下がお見舞いにいらっしゃいました」
うっわ。




