叔父と二人の王子と一人の護衛騎士
瞼の上に、冷たいタオルが置かれたことに気付いて目が覚めた。いつもは声を荒げて布団を剥ぎ取る形でたたき起こすルネだけど、今日はもうしばらくそっとしておいてくれるようだ。
昨夜の寝る前、ルネはアタシが泣いた後だということに、すぐに気付いたようだった。とくに何か言ってきたわけではなかったけど、一瞬アタシの瞳を見つめたあと眉尻を下げて心配そうな顔をしたので、泣いたことに気付かれことが分かった。
寝台に入ってからもフロリアンからの手紙の内容を何度も何度も反芻して、その度に泣いた。あんなに涙が溢れた夜は初めてだった。
一人でいることと一人だと感じることの大きな違いに、胸が押しつぶされた。ここには優しく頭を撫でてくれる人はいない。困ったような顔で笑いかけてくれる人もいない。
だけど、一夜明けてみれば、冷たいタオルをあてて泣き腫れた瞼を癒してくれるルネがいた。小言ばかりでうるさいと気付かなかっただけで、いつも近くでアタシの様子をそっと見守ってくれているルネが。
サミュエルもなんだかんだと心配してくれて、アタシがニキアスの婚約者にならないようにと取り計らってくれている。
それはすごく幸せなことだと思う。現状帰国することは叶わないのだから、周りの優しさを、気遣いを集めて、からっぽになった気がする気持ちを満たしていこう。
冷たいタオルを手に取り、寝台から起き上がる。その気配に気付いたらしいルネが天幕を開けた。心配そうなルネと目が合い「もう大丈夫」という気持ちをこめて、にっこりと微笑んだ。
「おはよう、ルネ」
***
その日アタシは叔父と遅めの昼食を摂っていた。食事中はパトリックも食事休憩に入っていてルネが付いてくれている。基本的に屋敷内の護衛は外部の者と関わらない限り必要ないそうだが、なぜかいつもパトリックとセットで行動だ。たぶん、父か父から色々聞かされている叔父が心配して屋敷内でも護衛をつけているのだと思う。
叔父がにこやかに笑いかけてきた。
「そう言えばリュシエンヌはもう屋上庭園は見たのか?」
「いえ、屋上にはまだ一度も上がっておりません。庭園があるのですか?」
「あぁ。なかなか立派だぞ。知り合いの公爵が屋上を庭園にしていてな。それが素晴らしかったから私も倣ったのだ。妻も喜んでいる。リュシエンヌも興味があるのではないかと思ってな」
屋上庭園はミシェーレの屋敷にはなかった。興味深い。きっとプレタールにはない花が植えられているだろう。
「えぇ。ぜひ拝見したいですわ」
「食事が終わったら案内してやろう」
叔父と叔父の使用人、パトリックとルネと屋上に上がった。叔父の使用人が扉を開いてくれて、外に出ると、そこはまるで天国のようだった。赤、白、黄、ピンク、紫。色とりどりの花が咲き誇っている。
「こちら側がプレタールの花で、こちらがリンネル、それでここが輸入した各国の花だ。どうだ、美しいだろう?」
「えぇ。とても。風も気持ちいいし、ここでお茶でもできたらどんなに心が安らぐでしょう」
「よし、お茶を準備させよう。あぁ。リュシエンヌはコーヒーと紅茶どちらが好みだ? どちらも準備できるぞ」
アタシは紅茶をお願いして、叔父に促されるままに席に着いた。アタシの背後にはそっとパトリックが付いた。叔父と屋上でお茶をするだけなのに護衛はいらないと思うが、崖から落ちかけたアタシに異議を唱える資格はない。ちゃんと弁えている。
プレタール、リンネル、各国からの輸入花とエリア毎に丸いガーデンテーブルとその周りにガーデンチェアが四脚設置されていた。テーブルも椅子も白色で統一されていて芝生の緑に映えて美しい。
お花のエリア毎にお茶やお菓子の種類を分けるのも楽しいのだと叔父が言う。なんと贅沢な娯楽だろう。アタシにも自由に出入りする許可をくれた。時々ここでランチをするのも楽しいかもしれない。
「少しは気が紛れたか?」
思いがけない叔父の問いかけに驚いてバッと顔を上げると、最近のアタシを見るルネのような顔でアタシを見ていた。
「最近は元気がないような気がしてな。リュシエンヌと過ごした時間は数えるほどしかないが、いつもくれる手紙の中のリュシエンヌは元気そうだったから。……リンネルに来て淋しく感じているのではないかと思っていたのだ」
アタシはいつもどおりに過ごしていたはずで、気落ちしている様子を見せた覚えはない。きっと少しの変化から読み取ってくれたのだろう。いつも仕事に奔走している叔父なのに、アタシのことも見てくれていたのだ。心が温かいもので満たされる気がした。
「プレタールを思い出して少し寂しく感じていたのです。プレタールまでの往復の時間を考えると、学院の長期休暇中も帰国は難しいでしょう? 二年も帰れないのかと思うと……」
叔父はアタシの言葉に、昔を懐かしむように遠くを見つめて目を細めた。
「私もリンネルに来て間もない頃は、プレタールに帰りたくて仕方がなかったものだ。もう一生あの地で暮らすことはないのだと思うと悲しくてな」
そうだ。叔父はアタシと違って、もうプレタールに居住することはない。どれだけ淋しがってもたまの里帰りが精いっぱいだ。そのうえ叔父は毎日忙しくしている。里帰りの時間をとるのも難しいだろう。
「叔父様はどうやってその淋しさから解放されたのですか?」
叔父は目を閉じて、静かに首を横に振った。
「解放されることはない。ずっと淋しいという気持ちはある。だがな、少しずつ薄れていくのだ」
静かに話す叔父をアタシも静かに見つめ、頷くだけの相槌にとどめる。
「プレタールは懐かしい。あそこは私が生まれ育った場所だ。幼いころからの友人は皆プレタールにおる。帰国したところで会えたことは一度もない。私は里帰りに暇をとっていても、友人たちは執務中だからな。……淋しいものだ」
「……孤独を感じた……のですか?」
淋しそうな気づかわしそうな顔の叔父がアタシと目を合わせて一つ頷いた。
「リュシエンヌもそうなのか?」
アタシは叔父と目を合わせたまま頷いた。
「えぇ。孤独を感じたのは生まれて初めてのことで、ひどく戸惑っているのです」
「そうか……。リュシエンヌ。私はな、今はもうプレタールを思い出して孤独を感じることはなくなったのだ。淋しいとは思うがな。少しずつ大切な思い出を噛み締めるように懐かしむだけだ。そうなれたのはな」
「そう……なれたのは……?」
「日を追うごとにリンネルでも親しい仲間が出来たからだ。もちろん妻も。愛しいと思う人がいて、楽しい時間を過ごせる仲間も出来た。例え、プレタールに帰ることになったとしても、そのときはリンネルを思い出して孤独を感じるかもしれん」
じゃあ、ここでは親しい人を作らない方がいいのではないか。こんなにも悲しい気持ちになるのはリンネルにいるときだけで充分だ。
アタシの気持ちを見透かしたように叔父が言う。
「だがな、そうだからと、リンネルで親しい仲間を作ることを恐れてはいけない。遠く離れていても、二度と会えなかったとしても残るものは確実にあるのだ。私にはプレタールで過ごした仲間との楽しい記憶がある。今でもその記憶に救われることもあるのだ」
「……でも、わたくしはそもそも人付き合いが得意ではないようなのです。下手に近付いて怒らせるようなことになると……」
ダニエル事件の記憶が蘇り、寒気が走る。体がぶるっと震えて両腕を擦った。
叔父はダニエルとのことについて父から聞いているのか、慮るように頷いた。
「……だが、それだけではなかっただろう?」
アタシは両腕を擦りながら、俯いていた視線を叔父に移した。
「……それだけではなかった?」
「楽しみや喜びも感じたことがあったのではないか? 今孤独を感じているということは、それだけ充実した時間を過ごせたからではないのか?」
叔父に諭されて、すぐに思い至る。フロリアンの子供を諭すように優しく響く声。アニーの身分差を感じさせないアタシの使いっぷり。カンタンの言わなければ良かったと後悔したように俯く姿。セヴランの小馬鹿にしたようにからかい、おもしろがる屈託のない笑顔。気付けばシルの掌の上で、シルの思い通りに動いていた数々の言動。
そんなみんなとの優しくも楽しい時間。
「はい。たくさん……たくさんありました。楽しい時間が。嬉しかった記憶が。……わたくしが今こんなにも淋しく感じるのは、素敵な思い出があるからなのですね」
「あぁ。だからリュシエンヌ。ここでもかけがえのない思い出をたくさん作って行ってほしいのだ」
「私もリュシエンヌとの楽しい思い出が欲しいしな」と、叔父は悪戯っぽく笑った。アタシは頬をつたう涙をそのままに、満面の笑みを浮かべて頷いた。
「ときにリュシエンヌ? 私にも何かできることはないか? その、リュシエンヌが少しでも淋しく感じないように……」
親族である叔父だからこそのお願いがある。
「ではお言葉に甘えて……。わたくしのことはリュシーと呼んでください。父も母も兄もそう呼んでくれていたのです。叔父にもそう呼んでもらえると、家族といるみたいで嬉しいです」
叔父は困った顔で笑った。
「そんなことで良いのか? もっと他に何か……」
なんでも言っていいんだぞ。と叔父の強い視線が言っている。
「では、また今日みたいにお茶会をしていただけますか? こんな風にお話を聞いていただけて、叔父様のお話も伺わせてもらえて、心がとても軽くなったのです。……いつも大変忙しそうなので恐縮なのですが……」
叔父は胸にドンと拳を打って「任せておけ!」と笑ってくれた。
……ここまでなら、とてもいい話で終わったのだが、叔父からサミュエルとの縁談について聞かれ、そんな話はないと返すと、いつでも力になると言われたときは腑に落ちなかった。ニキアスについては気が進まないのなら断ってもいいと言ってくれて安心したのだけど。
そして、なぜか、この屋上庭園で星空観賞会をすると意気込んだ。サミュエルとニキアスも呼んで楽しく過ごしてほしいとのことだ。手筈は整えると鼻息荒く言った。
励まそうとしてくれているのは嬉しいが、ちょっとズレてる……。たった今ニキアスのことは断ってもいいと言ったばかりではないか。なぜ王子二人とアタシを近づけようとするのか。叔父の他意のない笑顔に不思議に思ったところでハッとした。
素敵な思い出を作ってほしいってことだ。
***
叔父のセッティングした星空観賞会に叔父はいなかった。急な仕事が入ったらしい。自分がいなくても淋しさを紛らしてほしいという心遣いはとても嬉しいが、まだ学院以外でも他人と関われるほどの復活はできていない。
しかし、目の前にはニキアスとサミュエルがいるため、そんなことも言っていられない。アタシは叔父が教えてくれたように二人に伝えた。
「こちらの芝生に寝転がって空を見上げると、視界いっぱいに星空が広がってそれは素敵な時間を過ごせるそうですよ」
「リュシエンヌは寝転がらないのか?」
「えぇ。これでも公爵令嬢です。淑女としてははしたないですわ」
「それもそうですね……」
サミュエルとニキアスが寝転がって空を見上げ、感動のため息をついた。二人は寝転がりながら、アタシは横に座ってしばらく星空を見上げながら、とりとめのない会話をした。お茶を飲んでくると二人に告げると、パトリックがアタシの後ろを付いて来て椅子を引いてくれた。椅子に座り紅茶を口に含む。
椅子に座り辺りを見渡せば、ぽつんぽつんと外灯があり、星を見るのに邪魔にならないように、だけど花の色もうっすらと見えるようになっている。ガーデンテーブルの上には昼に見たときにはなかったランプが置かれていた。
星を見上げていると、プレタールのみんなのことを思い出して、また瞳の奥が熱くなってきた。ぶんぶんと首を横に振り気持ちを立て直そうとする。
「ほれ」
ニキアスの声に視線を上げると、ニキアスの手が近付いてきて耳に触れた。何が起きたか分からず首を傾げていると、ニキアスが笑った。
「そちらで一本分けてもらったのだ。さすが俺の見立てだ。よく似合う」
自分の耳元に手を持って行くと、カサリと音がした。花を髪飾りにしてくれたらしい。
「ふふっ。似合うなんて。こう暗くては似合うか似合わないかなど分からないではないですか」
「ははっ。気付いたか」
ガーデンテーブルの上に置かれたランプの柔らかい光に照らされたニキアスが、使用人を一瞥すると、ニキアスの使用人はアタシの横の椅子を引いた。ニキアスが優雅にその席に腰掛ける。言葉だけだと暴君だが、やはり王族の所作はきれいだ。
「もう少し、ランプの傍に寄ってみろ」
アタシは言われたとおりにランプに顔を近づける。ニキアスが満足そうに頷く。
「そうするとよく見える。やはり俺の見立てに問題はない。似合ってる」
「そうですか? ありがとうございます」
ランプから離れたので、どこまでアタシの表情が見えるか分からないが、ふふっとほんのり笑って見せると、ニキアスはホッとしたように一つ息をついた。
「やっと笑ったな」
「はい?」
「……最近はなんだか元気がないと思ってな。その……心配だったのだ」
あの自分が良ければオールオッケーを地で行くニキアスが、なんとアタシの様子を見て心配してくれていたのだと言う。
アタシ、そんなに態度に出てたのかな……。
「ご心配いただきありがとうございます。少しプレタール国を思い出して淋しくなっていただけです。……ダメですね。周りに気取られないようにと態度には出ないよう気を付けていたつもりなのですが……」
ニキアスが静かに首を横に振った。
「学院での様子ではそうは見えなかったぞ。ただ、早朝訓練のときのちょっとした仕草がな……少しいつもと違うなと思っただけだ。公の場でなければ感情が漏れることもあろう。それを悪いとは思わぬ。貴族は常に誰かと一緒だから、信用できる相手と一緒のときに少し気が抜けるくらい良いと思うぞ」
アタシ的には早朝訓練の時も気を抜いたつもりはなかったが、それでも他の学院生と居る時よりは気が楽だから、少しの気の緩みが態度にでてしまったのかもしれない。だとしたら、今後も……。
「先日、叔父に話を聞いてもらって随分心が軽くなったのです。もしかしたら、また、ニキアスにそう思わせる時があるかもしれませんが、どうかお気になさらないでください」
「なぜだ?」
「なぜだ?」? アタシは何の質問をされているのか。落ち込んでいても気にしないでと言ったら「なぜだ?」と言われた。「なぜ気にしなくて良いのだ?」という意味なのだろうけど。
「その、わたくし如きのことで一国の王子の気を煩わせたくはありません」
「俺は確かに王子だが、王子が友人の心配をしてはいけないのか? 随分冷たいことを言うんだな」
表情までは見えないが、口調だけで察するにはお冠のようだ。
「冷たい……ですか?」
「リュシエンヌはプレタールでは平民と仲良くしていると言っていたな。その友人たちに心配されても同じように言うのか?」
「……おそらく同じように言うと思います」
「……そうか……。それは迷惑だからか?」
なるほど。ニキアスは「心配なんかされると迷惑だからやめて」と受け取っていたらしい。
「迷惑なわけありません。心配は大切に想う相手にするものでしょう? 嬉しいことです。ですが、自分の気持ちもコントロールできず、人を巻き込むのは申し訳ないように思いまして」
「なぜそう思うのだ?」
「……その、以前わたくしが殿方に攫われたという話があったでしょう? あれも元を辿ればわたくしにも非があるのです。それなのにたくさんの人を巻き込んでしまって……心苦しく思っていたのです」
監視の目が厳しくなって煩わしくもあったけど、という気持ちは心の中だけに閉まっておく。
「……そうか。だが俺は勝手に心配するぞ。俺も初めて知ったのだが、心配とはしようと思ってするものではない。自分でも気づかぬうちにそうなっているのだ。そんなもの王族教育を受けている俺とて止めることは敵わぬからな」
そう言って、ニキアスは「ふんっ」と鼻を鳴らした。
確かに、するなと言われてしないことなどできることではない。だけど、なにも「気にしないで」と言っている相手に「気にする」と明言する必要があったのか。それに人を心配したのが初めてとはいったいどんな境遇にいたのか。ニキアスの環境を疑えばいいのか、人間性を疑えばいいのか最早分からない。
「あ、あ、ありがとうございます」
「うむ。何かあったら俺に言うのだぞ。王子だからな。大抵のことはしてやれる」
「何をしてさしあげるのですか?」
サミュエルの声がして振り返るとパトリックの隣に立っていた。暗さに慣れた目でうっすらと王子とは分かるが表情にいたっては全く分からない。
「内緒だ」
きっぱりとニキアスがサミュエルの会話への介入を拒否した。
「パトリック?」
そんなに会話の仲間に入りたいのか、サミュエルはパトリックから聞き出そうとパトリックに声をかけた。トークテーマを変えて三人で会話すればいいだけのことなのに。
「パトリック」
ニキアスがサミュエルに情報を漏らさせないように怒気を含んだ声でパトリックの名を呼ぶ。するとまた、サミュエルがパトリックの名を呼び、次はニキアスが呼ぶ。終わらない。パトリックとサミュエルはアタシの背後にいる。
……もうアタシは振り返らない。
パトリックは随分と人気者だ。そう思うことにした。
二人の会話からアタシの心だけを離して、誰も視界に入らない場所に視線を固定した。そしてそっと自分の気配を消す。
星がきれい。満月の日には外灯は消して、ガーデンテーブルの上のランプだけで月と花と星を愛でよう。月明かりに照らされた花たちは、それはきれいなことだろう。
その日、アタシの心と気配が二人の王子と一人の護衛騎士の元に帰還することはなかった。




