学院がはじまった
ティノス学院が始まった。キュレール学院では護衛は学院内にはいなかったが、ティノス学院では護衛も側仕えも教室までの同行が認められているらしい。側仕えも護衛もランチの時間が必要のため、だいたいはランチの時間だけ側仕えが給仕も兼ねて役目を変わるそうだ。
少し早く学院に到着したアタシは、学院内のサロンでコーヒーを飲みながら授業開始を待っていた。この学院のサロンも中庭が見渡せるようになっていて、城と同じ色合いの花が咲き誇っていた。木々の緑も鮮やかで見ていて気分がいい。自然の中でピクニックしているようだ。
例によってアタシは中庭を楽しみたいからと、窓にほど近い席に座った。緑を見ていると目が奪われる。どれだけでも見ていられる気がする。
ティノス学院のマイナールールがキュレール学院のそれと同じなら、王子二人は中央の席に座るはずだから隅にいれば関わらずに済む。
両国の王子と知り合いだと分かると、魑魅魍魎モンスターが出没するに違いない。そんな面倒なことは避けたい。
窓際の席に着くのは、目の保養にもなるし、魑魅魍魎モンスターからも目をつけられなくて済むので一石二鳥だ。
ぼーっと中庭を見つめていると、ふとキュレール学院のみんなを思い出した。フロリアン、アニー、カンタン、セヴラン。今頃みんなどうしているのだろう。フロリアンとアニーは普通にアタシが登校して来ると思っているに違いない。
アタシだけではなく、サミュエルもパトリックもいないことを知って、何も聞いていなかったフロリアンとアニーはどう思うだろうか。
帰国後、また友人として付き合ってくれるだろうか。それとも友人なのに教えてくれなかったと怒って、もう会ってくれないだろうか。
……フロリアンは情の厚い人だから、たぶん望めば会ってくれると思う。アニーは、友人としてのアタシに絶望したとしても、アタシに利用価値がある限り無体な扱いはしないと思う。
うん。なんとなく大丈夫な気がする。
そこまで考えて思い至った。パトリックはミシェーレ公爵家当主の命令でアタシに同行したはずだ。気を悪くしていないだろうか。
アタシは後ろを振り返り、背後に位置するパトリックを見上げた。
「パトリック、その、ごめんなさい……」
「何のことでしょう?」
パトリックが首を傾げて問いかけてきた。パトリックにはアタシに謝られることに覚えがないようだ。
「その、アタシのせいでキュレール学院での生活を取り上げることになってしまったでしょう? 申し訳ないことをしたと思っているのです」
「あぁ」
パトリックは頷き、そして首を横に振った。
「そのようなこと気になさらなくて結構です。授業については護衛を兼ねて受けることもできますし、騎士として、他国で鍛錬をつめるのは喜ばしいことなのです。リュシエンヌ様の護衛の任をしていたことで得られた特権なので、こちらからお礼を言わなければならないくらいです」
「……本当にそう思ってる?」
「えぇ。もちろんです」
その言葉にホッとして表情を緩めると、パトリックも微かに口角を上げた。
「こちらでも早朝訓練はいたしますからね」
思いがけないパトリックの言葉にギョッとする。あれは死亡フラグがあったからこそ、アタシも頑張っていたわけであって、決して習慣化したいわけではない。正直、アニーのいないこの国で死亡フラグが立つとは思えないから、体力年齢四十代でも一向に構わない。
……というか、よくよく考えれば前世のように体育が必須授業でないうえ、少しの距離も馬車を使うこの国の貴族は、みんなそんなもんだと思う。
「大人しくしておりますから、どうかお気づかいなく。パトリックは大事な時間をご自身の鍛錬にあててちょうだい。わたくしを守ってくださるのでしょう?」
「お守りするためには、万全を期してリュシエンヌ様ご自身の体力の底上げも必要です。ミシェーレ公爵には許可を得ておりますので、ご安心ください」
護衛が付いている公爵家令嬢が体力をつける必要があるのか。あのときは崖下落下未遂とかダニエルのこともあったし、なにより死亡フラグがあったから、甘んじて訓練を受けていた。いま必要な理由が分からない。息苦しいほどに一人になることがないのだから。
「わたくし、寝るとき以外は常にパトリックかルネが一緒なのですけれど……」
「女性しか入れない場所があるでしょう? ルネは側仕えであって護衛ではありません。女性の護衛がいない以上、リュシエンヌ様ご自身が身を守れるに越したことはありません。それにここは自国ではないので、どのような危険が潜んでいるかも分からないのです」
「そう……」
しょんぼりだ。ダニエルに短剣で歯向かおうとして、手刀であっさり抑え込まれたことをアタシはハッキリと覚えている。本気で来た男相手に女が敵うはずがない。刃物を持っていても手の甲一つで返り討ちだ。それに、ダニエルのときのようなことが、そう何度も起こるとは考えられない。それともパトリックはアタシをムキムキに鍛え上げたいのか。
「わたくしダニエルのことで分かったのですが、男性の力に女性は敵いません。それなのに訓練する意味はあるのかしら?」
「少しでも抵抗できるように体力が必要です。それと、あの時は短剣を振りかざそうとして手刀で抑え込まれたのですよね? ですから、そうなる前に一撃を与える手段をお教えします。それと、スピード力も必要ですね」
なにやら「あの訓練とあの筋肉トレーニングと」と、ぶつぶつ言い始めた。アタシの周りにはどうしていつも立ちはだかる壁があるのだろう。世の公爵令嬢はみんなこんなに息苦しいのだろうか。それともアタシが、前世の記憶を思い出したばかりに自由を求めるようになってしまったのか。
ただ一つ確かなのはパトリックの早朝訓練からは逃れられないということだけだ。
げっそりと項垂れていると、サロン内がざわついて視線をあげた。他の貴族たちの視線の先にアタシも目をやると、ニキアスがいた。プイっと顔を窓の外に向けて気配を消す。友人がいないだろうニキアスにロックオンされては敵わない。
「やぁ。リュシエンヌ。迷わずに来れたか?」
壊れた人形のようにギギギと首を回すと、予想通りニキアスがいた。
「ニキアス殿下ごきげんよう。おかげさまで真っすぐたどり着けましたわ」
正直、馬車に乗っていただけだし土地勘もないので、本当に真っ直ぐ来られたかは分からないが、今はそんなことどうでもいい。早く話を終わらせて中央の席に行ってもらいたい。
ニキアスが不満そうに片眉を上げてアタシを見る。
「俺の名を呼ぶのに敬称は不要と言ったはずだが?」
ニキアスのその言葉にサロン内がまたざわついた。針のむしろだ。こうなるのが嫌だからわざと敬称を付けて呼んだのに。
「え、えぇ。そうでしたわね」
「俺は誰だ?」
「二、ニキアス……」
さすが一国の王子。その凄みにあっさり敗北だ。
耳に入って来る貴族たちのコソコソ声を辿れば、アタシとニキアスとの関係を詮索するような会話だ。
本当迷惑。王子なんだから王子らしく重役出勤すれば良いものを……。
はぁ、と困り果てて中庭に視線を戻して頬杖をついていると、聞き覚えのある声がした。
「リュシエンヌ、早い到着ですね。僕はニキアスと一緒に来たのですよ」
振り返るとやはりサミュエルだった。わざわざニキアスと呼んでくれたのはアタシとニキアスとの関係が特別なものと思われないための配慮だろう。
だけど、現実は残酷だ。夏休みの間に顔合わせをした学院生諸君はアタシが公爵令嬢であること、サミュエルがプレタールの王子であることを知っている。自国と他国の王子二人と親密そうに話している公爵令嬢はいったいどういう立場なのだと話しているのが遠くに聞こえる。
「……そうですの。ごきげんよう、サミュエル。城から一緒に通学なさったのですね。仲がよろしいようで何よりですわ」
聞き耳を立てているだろう貴族たちに聞こえるように言う。サミュエルとニキアスが仲良しのため、サミュエルと同じ留学生のアタシもなんとなく仲良くしていると思わせたい。それなのに、当たり前のように二人が同じ席に着く。
トイレに逃げ込もうと思っていたのに……。
というか、二人とも王族なのだから重役出勤すればいいのに。
早く始業の鐘が鳴ってほしい。そうしたら自然な感じで鐘が鳴ったとそそくさと講堂の隅に早歩きするのに。
早歩きでニキアスには勝てないか……。
「そういえば、こちらでは早朝訓練はどうするのですか?」
サミュエルの言葉が聞こえなかったフリをして中庭を見つめる。今のアタシの味方は、中庭の美しい景色だけだ。
「パトリック?」
アタシが返事をしないと踏んだのか、サミュエルは早々に質問相手をパトリックに変えた。
「明日から始める予定です」
え? 明日からなの? 初耳だけど?
アタシは聞き耳をたてつつも、会話には入らない。周りの学院生たちに王子二人と仲良し認定されては堪らない。せめて、なんとなく一緒にいるけど、王子二人とは距離があると思わせたい。隣国にまで来て魑魅魍魎モンスターに囲まれたくない。
「そうなのですか。またご一緒しても?」
「えぇ。ぜひ」
二人で話が進んでいく。アタシの予定がアタシ抜きで決まっていく不快感を分かってくれる人はどこにもいない。
「早朝訓練とはなんだ?」
「ニキアスがお気になさるようなことではございませんわ。つまらないことです」
ニキアスがムムッと不満気な顔で睨んでくる。ニキアスは言葉も行動もいつも本気過ぎて、ちょっと疲れる。自分に関係のない話は聞こえないフリをするスマートさを持ち合わせてほしい。
「俺に知られると何か問題でもあるのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「パトリック?」
サミュエルとアタシとパトリックの遣り取りで、パトリックなら口を開くと踏んだのか、サミュエルと同じようにニキアスもパトリックに質問相手を変えた。
なんなんだ、この王子二人は。アタシが答えないことはパトリックから聞き出そうとして。でも彼らは正しい。王族に質問されてパトリックが答えないわけにはいかない。王族に聞かれて答えない公爵令嬢もいないけど、時々意識が遠くにお散歩して耳に何も入らないことがあるという設定でいきたいと思う。
王族は唯一といっていいミシェーレ公爵家より格上なので、正直気を遣わないといけないと思うと面倒なのだ。全ての質問に律義に返事を返し続けるのは骨が折れるのだから、心のお散歩を時には許してほしい。自分の意志で逃げられる魑魅魍魎モンスターより、ある意味ではたちが悪い。実際気遣いが出来ているかは置いておいて。
アタシが思考を巡らせている間も、パトリックから根掘り葉掘り聞きだしたニキアスは、どんどんとその顔色を変えていく。
「なに? 崖から落ちそうになったうえ、男に捕らえられただと?」
……他国の王子相手に、ちょっと内情を話し過ぎではないのか。
キッと恨みがましい目でパトリックを睨むと涼しい顔で言った。
「リュシエンヌ様には、監視の目が多いにこしたことがございませんので」
まるでアタシが危なっかしい子供みたいな言いようだ。崖から落ちそうになったのは風が吹いたからだし、ダニエルに捕まったのは早朝訓練があると誤認したからだ。ちゃんと立派な理由がある。そんなつまらないことで、いつまでもごちゃごちゃと肝っ玉の小さい男だ。
そもそもパトリックはアタシの監視に王子二人を使おうとしているのか。
肝っ玉の小さい男だと思っていることは伏せて、自分の言い分を伝えると王子二人が顔を見合わせてため息を吐いた。
「たかが三か月の間に、それだけのことがあれば周りが心配するのは無理のないことであろう」
「やはりニキアスもそう思われますか? リュシエンヌと一緒にいるとそのあたりの価値観がよく分からなくなるのです」
「あぁ。サミュエルの考えで間違いない。少なくともここの学院生に崖から落ちかけたものも、攫われたものもいない」
ニキアスの言葉に安堵したようにサミュエルがほっと一息ついた。
……なんかむかつく。
「そろそろ教室に参りましょう。パトリック?」
立ち上がるアタシにニキアスが残念な子を見るような視線を向けた。
「待て。場所は分かるのか?」
「あ……パトリック?」
パトリックなら知っているかもしれないと視線を向けると、静かに首を横に振った。その様子を見ていたニキアスが、わざとらしくため息を吐いた。
「行くぞ」
なんだかんだニキアスとサミュエルと行動を共にすることになった。一緒に行動するのが二つの国の王子なので、周りの視線が痛い。正直しんどい。




