リュシーのピンチ
「おい、起きろよ」
衝撃の振動に驚いて目を覚ますと冷ややかな声が聞こえる。目の前には怒りに顔を歪めたダニエルがいる。ニヤリと片方の口角だけを上げる。
「優しーくしてやるから、ちゃんと覚えておけよ」
逃げようと腕を動かそうとして腕を拘束されていることに気付いた。口はタオルを挟まれて声を出せないようにされている。首を左右に動かして辺りを見渡すと、寮の部屋のベッドの上のようだ。腕はベッド柵に繋がれている。
自分の身に何が起ころうとしているのかを察して、怖くて涙が溢れて来た。声をあげても口に挟まれたタオルに吸収されてしまう。
誰か! 助けて!!
「んーんー」と声にならない声で叫ぶ。ダニエルの手と顔が至近距離に迫る。アタシは思い切り足を蹴り上げる。ダニエルの腹にヒットして、腹を抱えてうずくまった。その隙に腕の革ひもをを外そうとギシギシと動かす。だけど、びくともしない。再び近付いてきたダニエルの顔は真っ赤に染まって鬼の形相になっていた。足をバタバタ動かそうとするが、今度は馬乗りになられて、足が動かせない。
絶対に諦めるもんか! こんなゲス野郎にいいようにされてたまるか!
だけど気持ちだけが空回りして、固定された手足は動かない。ダニエルが服に手を忍ばせようと顔を近づけたとき、思い切り頭突きをお見舞いした。頭を押さえたダニエルがキッとアタシを睨みつけて拳を振り上げた。
殴られる!
そのとき、部屋のドアが大きな音を上げて開いた。
音の鳴る方に視線を向けると、涙で滲む世界にフロリアンがいた。
フロリアンは一瞬の間にアタシとダニエルを交互に見て、勢いよくこちらに向かって駆け出した。ダンと飛び跳ねると、その勢いのままダニエルに飛び蹴りをする。フロリアンとダニエルはアタシの視界から消える。頭を起こしてベッドの下を見ると、そこには倒れ込んだダニエルと、軽蔑の色を浮かべた目でダニエルを見下ろすフロリアンがいた。
「リュシー、大丈夫か?」
「お前! 平民ごときが伯爵にこんなことしてタダですむと思ってんのか?!」
フロリアンは視線をダニエルに向けたまま、低めの声で言った。アタシの体は恐怖と緊張に囚われて、顎はガクガクと震えている。返事をしたいけど物理的にも精神的にもできない。
フロリアンは怒りと蔑みに満ちた顔で、ダニエルを見下ろし、起き上がり殴りかかろうとしたダニエルの腹部に蹴りを入れた。ダニエルはゴホゴホと咳込みまた腹を抱えるように丸まった。
その隙にフロリアンはアタシの口に充てられたタオルを手際よく外して、ダニエルの腕を背中側に捻り、両手を背中の後ろで縛った。そのまま、枕カバーを外してダニエルの腕を固定したタオルとベッドの脚を縛り、ダニエルの動きを封じた。
そこでやっとアタシに視線を落として、ベッド柵に繋がった革ひもを短剣で切って抱き起してくれる。アタシは小さな子供のようにフロリアンにしがみついてボロボロと泣いてしまった。
なにがどうなってこうなったのか分からなくて、わんわんと泣いていると、教師が入って来た。部屋の状況を見て全てを察知したらしい教師は、ダニエルをどこかへ連れて行き、アタシとフロリアンには明日教務室に来るよう言った。
「とりあえずここから出よう」
フロリアンに肩を抱かれて、部屋から出る。そのままフロリアンに送られてルネの待つ寮へと戻った。フロリアンから事情を聞いたルネは青ざめた顔で、アタシを抱きしめてくれた。
湯あみを手伝ってくれて、今日はもう休むようにと言う。ベッドに横たわると、ルネが心配そうに頭を撫でてくれて、アタシは冷めやらない恐怖と優しいぬくもりに涙を流す。しゃくりを上げて泣き続けるアタシの涙をルネが拭ってくれる。
「大丈夫ですよ。朝までずっとお嬢様の傍におります」
ルネはアタシの涙を拭った手をそのまま頬にピタリと充てて、もう片方の手でアタシの手を握ってくれた。
アタシは泣き疲れたように眠りについた。
翌日、フロリアンとアタシは教務室で事情聴取をされた。ダニエルは自宅に強制送還されたそうだ。処分はすべての事情を確認後、ということになっているらしい。
アタシは自分の知る全てを話し、フロリアンはフロリアンの知る全てを話した。
昨日、時間になってもサロンに現れないアタシを心配したフロリアンとアニーは「まさかね」と言いながら運動場に足を運び、そこで無造作に落ちているアタシの短剣を見つけた。
嫌な予感がしてサロンに戻るとダニエルの姿もない。念のため、ダニエルの自室を訪ねると、ダニエルの自室の前で使用人がオロオロと血相を変えていた。話を聞くと、ミシェーレ公爵家の令嬢をダニエルが連れ帰って絶対に入って来るなと部屋を追い出された。そして、それを聞いたフロリアンが慌てて突撃してくれたとのことだった。
ダニエルは、というと、公爵家令嬢であるアタシとお近づきになりたかったが、あまりにもアタシの態度が悪かったため腹が立って、既成事実を作ってしまおうと考えたそうだ。
なんて奴だ。眠らせて移動したにもかかわらず、わざわざアタシを起こしたのは契った相手が誰であるのかを印象づけるためだったようだ。
教師に解放されフロリアンと二人になった。アタシは怒りを隠さずに言い連ねる。
「なんて奴! そんな力技で公爵令嬢を我が物にしようなんて。ダニエルの頭は飾りなのかしら。女をなんだと思っているの。怒りが抑えられないわ!!」
バッとフロリアンを見ると真剣な目でアタシを覗き込み、諭すように言った。
「でもリュシーが逆上させるような言葉を言ったから今回の事件は起きたのかもしれない。自分を守るためにも言葉は選ばないといけないよ?」
味方だと思っていたフロリアンのアタシを非難する口ぶりに、更に怒りで顔が熱くなる。
「じゃあフロリアンはアタシがいけなかったと言うの?!」
「そうは言ってない。今回のことはもちろん全面的にダニエル様に非がある。ただ、発言を考えれば避けられることもあるって言いたいだけだよ」
「わたくしは婚約者候補にしてくれというアホな男に『なんとも思ってもいない方を婚約者に、などと嘘吹くメリットがわたくしには感じられない』とか『知りたいとも思わない方を知ろうとする時間の余裕はない』とか、正直に自分の気持ちを話しただけだわ。何がいけないの?」
フロリアンが驚いたように目をパチクリさせた。
「そんなこと言ったの? それじゃあダニエル様が逆上したって仕方ないよ。考えてごらんよ。リュシーに仲良くなりたいと思う子がいて、その子に一生懸命話しかけてるのに、貴方のことはなんとも思っていない、とか、知りたいとも思わないとか言われたら、どんな気持ちになる?」
被害者の自分がフロリアンに責められている気がして納得がいかない。だけど、アタシの答えを待つようにじっとフロリアンに見据えられたので少し考えてみた。
例えば、フロリアンたちに初めて話しかけたあの日、アタシがダニエルに言ったことと同じようなことを言われていたらどうだろう。……きっとすごく悲しい気持ちになって、そのあとに何で平民の貴方たちに公爵令嬢であるアタシが、そんな言われ方をしなければいけないのかと腹が立ったはずだ。
そこまで考えてハッとした。もしかしたらダニエルも同じように感じたのかもしれない。家格としてはアタシの方が上だけど、女のくせに、と思ったとしてもおかしくない。
確かに相手の気持ちを逆なでする発言だった……。いや、言い過ぎたかな? とはチラッと思ったんだよ?
「……そうね。悲しいと感じたあとに、なんでそんな言われ方をしないといけないんだって怒りが沸いてくるわ……」
フロリアンはアタシの頭を優しく撫でて、ふんわりと笑った。
「そうだね。人には少なからず自尊心があるんだ。その自尊心を傷つけられたとき心底悲しむ人もいれば、理不尽な目にあったと理性を保てなくなる人もいる。それを態度に出すか出さないかは、やっぱりそれぞれの人間性の問題ではあると思うけど、どちらにしても人を傷つけるのはリュシーにとっても建設的なことじゃないよ。今回のことでよく分かったんじゃないか? 人の気持ちを推し量ることが結果的に自分を守ることにもなるんだってこと」
視線を結びながら、静かに話すフロリアンの言葉を聞いたアタシはこくりと頷く。
「……わたくし、以前親友のことで相談したときに、人の気持ちを思いやる大切さを教わっていたはずなのに……。ダメね……」
「ダメってことはないさ。自分にとっての相手の価値によっても、心を尽くせる範囲は違うと思うし。だけど、リュシーは公爵家の令嬢だろ? 相手の気持ちを推し量る器は絶対に身に付けておいた方がいいと思う」
これでこの話はおしまい、とまた頭を優しく撫でてくれた。
「わたくし、まだお礼を言ってなかったわ。助けてくれて本当にありがとう。消せない傷をつけられるところだった……」
「俺も。助けられて本当に良かったよ」
なんとなくその言葉の真意を確認したくなった。
「わたくしが公爵家の令嬢で、王子にも頼まれているから?」
カンタンとセヴランはそんなようなことを言っていた。
「んー。それはあんまり関係ないかな。例えば、アニーが同じような状況だったとしても絶対に助けに行くしね」
「それに」と眩しいものを見るように細めた目でアタシを見た。
「それに俺、妹がいてさ。女の子が理不尽な目に合うのは見てらんない。だからリュシー、俺のためにも危険な目に合わないように気を付けてくれよな」
そう言ってまた、頭をぽんぽんと叩いた。
こんなに優しいフロリアンともう少しでサヨナラしないといけないんだ。アタシの死亡フラグ回避のための国外逃亡作戦は間違っていなかったのだろうか。
ふとそんな不安で心が痛くなる。瞳の奥が熱くなる。気付いたときには縋るように言葉を発していた。
「フロリアン」
「なに?」
「もし……もしもよ? ここにいたら死ぬって言われたらフロリアンならどうする?」
「なんだ、それ? なんか漠然としてるな」
「ここで死ぬことになる運命で、でもここにいたい。そんな時フロリアンなら……」
じっと、フロリアンの返事を待つ。フロリアンは考えるように首を傾げた。
「んー。よく分からないけど、それは友達と期間限定で離れて死ぬ運命から逃れるか、友達とこのまま死ぬまで一緒にいるかを選ぶかってこと?」
アタシは一つ頷いてフロリアンを見上げる。
「期間限定なら友達と離れて死ぬ運命から逃れる方を選ぶかな?」
「……どうして? 場合によってはもう一生会えない友達もいるかもしれないよ?」
アタシの考えは本当に正しい? フロリアンもそう思ってくれる?
「生きていれば一生会えないってことはないと思うけど、死んだら絶対に一生会えない。この可能性は揺るがない」
……そうか。死んだら何もかも終わりなんだ。立場や状況が変わっても生きてさえいれば……。
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「……この前読んだ本がそんな感じので、わたくしだったらどうするかなって思って」
「そっか」
ほっとした顔で頬を緩めるフロリアンとしばらく視線を交わしていると、アニーの心配そうな声が聞こえた。
「リュシー、フロリアン。大丈夫だった?」
「あぁ、アニー大丈夫だよ」
「アニー、心配かけてごめんね」
「まったくよ! 助けられたから良かったものの何かあったら取り返しがつかなかったのよ? これからはわたくしリュシーの部屋まで迎えに行くことにしたから!」
あぅ……また自由が減った……。




