うっかりミス
早朝訓練では、それまで見守っていたサミュエルも加わり、サミュエルとフロリアンはアタシたちとは別メニューをこなすようになっていた。アニーは相変わらずうっとりとサミュエルに目を奪われていて、カンタンとセヴランはアタシと同じメニューと実践訓練をこなしている。
カンタンとセヴランはアタシより遅くから訓練に加わったのに基礎体力の違いのせいか、どんどんメニューをこなしていく。男性と女性では鍛え方が違う用で、アタシがパトリックから教えられるのは、痴漢撃退法みたいなものと簡単な剣捌きで、カンタンとセヴランは柔道と空手みたいな体を使った力任せの体術も覚えさせられている。
みんなこんなに鍛えてどこで成果を出そうと言うのか。
訓練後の朝食でカンタンとセヴランに使用人の件について話した。
「カンタン、セヴラン。わたくしが勝手に考えているだけだから、興味がなければ断ってくれて構わないんだけど」
カンタンとセヴランが期待に満ちた目をアタシに向けてくる。
「なに?」
「なんかいいことあんの?」
口元に拳をあててクスクスと笑っているシルを見れば、以前シルと話していたことは二人に筒抜けのようだ。
「その、どこかの貴族の屋敷で使用人として働けないかとお父さまに仲介役をお願いしたの。わたくしとしてはせっかく仲良くなれたから主従関係にはなりたくないし、うちの屋敷ではなく、父の信用のおけるところで雇ってもらえないかと考えているのだけど……」
「俺は、気心が知れたリュシーの屋敷で働きたいな」
「うん。俺もそれがいい」
即答だ。アタシと主従関係ができることへの寂寥感はないのだろうか。アタシだけがもの悲しさを感じているようで淋しい……。
「でもそうしたら、もうこんな風に気軽に話すことはできなくなるんだけど……」
「大丈夫、大丈夫。隙を見て話しかけてやるよ」
「リュシーは淋しがりだな。他の屋敷で働くと、それこそリュシーを見かけることさえなくなるだろ?」
確かにそうだ。公爵家同士のつながりは大事だけど、それ以上にそれぞれの屋敷で得た情報は他に漏らしてはならない。接触は難しくなる。
「そうね……。では、うちの屋敷で働けるようにお父さまにお手紙を出しておくわ」
「やったね!」
「ありがとう」
それはそれは嬉しそうに笑ってくれた。以前のアタシなら絶対に平民と関わることはなかったし、仕事の斡旋なんてもっての外だった。順調に以前のアタシとは違う道を進めている気がする。それにこれで彼らの目標は達成できたのだから、アタシにくっついて回る必要もない。計画通りだ。
「これからはもっとリュシーを守れるようにしないとな」
「あぁ。これまで以上に護衛に力を入れないと」
ギョッとした。何を言っているのか。目標が達成できたのだから、アタシのお守など面倒なことからは手を引いて距離をとるべきだろう。
「なにを……言ってるの……? 仕事が決まるのだから安心でしょ? アタシのお守なんて面倒なことからは手を引いて、ゆっくりしていいのよ?」
「何言ってるんだ。公爵家の使用人として働けるんだ。見習い以前にミシェーレ公爵家当主の信用を失うようなことはあってはならないんだから、これまで以上にリュシーを守らないと」
「そうそう。今リュシーの身に何かあったら、見習いさえ反故になることもあり得るからな」
「……そんなに気を張らないで? 見習いに入るとそれこそ気の置けない日が続くのよ? 楽に過ごせるのは今だけなんだから、ゆっくりと寛いでいるべきよ」
想定外のカンタンとセヴランの言葉に焦ったアタシは、屋敷の使用人はそれはそれは大変なのだから、今のうちに休んでおくべきだと言い連ねる。
「心配は嬉しいけど、せっかくのチャンスだからな。滞りなく使用人として働けるように、今から頑張らないと」
「そうだ。ルネ様とも連携をとるというのはどうかな?」
「それはいいですね。ミシェーレ公爵家当主も安心でしょう」
セヴランとカンタンの思い付きにサミュエルが援護射撃を送り、今まで以上に周りを固められることになった。焦ったアタシは助けを求めるように視線を彷徨わせる。目の合ったシルはニヤリと笑みを浮かべ、フロリアンは困ったような笑みを浮かべて、よしよしするようにアタシの頭を撫でた。
こんなに思い通りにいかないことが今まであっただろうか。チクショー! 全部ダニエルのせいだ。
そんなある日。息苦しい日々を過ごしていたアタシの元に吉報が届いた。なんと、大々的な王族を含む会議にサミュエルが参加するという。シルも政務を学ぶため父について行き、護衛としてパトリックも参加。
我が屋敷の使用人もその会議に駆り出されるため、人手不足になる。カンタンとセヴランは我が屋敷の下働き要因として出向くようにとのお達しだ。
なんと素晴らしいことだろう。これで学院に残るのはアタシとアニー、フロリアンだけになる。アニーとフロリアンなら撒けそうな気がする。
「サミュエル殿下、パトリック様、お気をつけて。シル、頑張ってね。カンタン、セヴラン、みんなのお役に立てるよう頑張ってね」
みなさまにしばらくお会いできないのはとても淋しいわ。と瞳を潤ませて声をかける。内心、笑いが止まらない。
ふはははは。これで一人の時間を確保できる。一人の時間って絶対にとれない状況に追い込まれると、絶対にとりたくなるものなのだ。
「リュシエンヌ嬢。くれぐれもアニーとフロリアンからは離れないようにするのですよ。アニーとフロリアンもリュシエンヌ嬢から決して離れないように」
なぜアタシがこれ幸いと一人になろうとしていると見透かしたような会話になるのか。現世はエスパーの集まりなのか。
それでは、とみんなを見送り寮に戻る途中でフロリアンが言った。
「決して離れないで」
「リュシー、貴方に何かあるとわたくしの城入りが見送られる可能性があるということを絶対に! 絶対に! 忘れないで!」
「は、はい」
アニーの強い目力におののいて身を反らしたままそう答えるしかなかった。
さっきまではあんなに幸せな気分だったのに台無しだ。アタシの希望は秒で崩れ去った。でも確かにアタシの行動でアニーの信頼が失われる可能性はある。そうするとアニーと敵対して、崖コース直行かもしれない。今のアニーをアタシが襲うことはないけど、今のアニーだからこそ、という考えは拭えない。そのくらいアニーは必死だ。
……がっかりだ。
翌日の早朝、アタシはいつもどおり学院の運動場にいた。しんと静まり返っていてしばらく待っても誰も集まってこない。不思議に想い首を傾げる。
そうだ。パトリックがいないから今日は訓練お休みなんだ!
寮に戻ろうと踵を返すとダニエルが嫌な笑みを浮かべて背後に立っていた。
「もしかしていらっしゃるかな、と思って来てみれば。お会いできてよかったです」
「な、なにか御用でも?」
「以前も申しましたように、リュシエンヌ嬢とお近づきになりたいのです。最近は、私が近寄ろうとするとすぐに壁ができて、一言も交わせないでしょう?」
「ま、また、機会がありましたらぜひ……」
逃げるように早歩きすると、なんてことはなしにすぐに追いつかれる。コンパスの差が大きすぎる。
「次の機会なんてお取りいただけるのですか? 私にはそうは思えません。少しだけでよいのでお話いただけませんか?」
ダニエルに行く手を阻まれて前に進むことができず、生唾を飲んでゆっくりと頷いた。
パトリックが言っていた。ダニエルは目的の為なら少々手荒いことも辞さない方だと。手荒なこととはどういったことを指しているのだろうか。分からないから怖い。恐怖で口の中が渇き、背中を冷や汗がつたう。
「お、お話とは?」
「リュシエンヌ嬢は、婚約者候補についてどのようにお考えですか?」
「……婚約者候補ですか? とくに何も考えてはいないのですが」
「では、私はどうでしょう? 婚約者候補に入れてはいただけませんか?」
「ダニエル様なら引く手も数多でしょう。なにもわたくしなどにそのようにおっしゃらなくても……」
ダニエルはわざとらしいくらいの笑顔を顔面に貼りつけて言った。
「私はリュシエンヌ嬢に一目ぼれしたのです。貴方の様な方はそうはいない。天使を具現化したような美しい容姿に加え、成績も優秀。平民にも分け隔てなく接する優しい心。どれをとっても惹かれずにはいられないでしょう」
なんだ、こいつは。こんな息するようにおべっかを吐けるような人間、アタシが信用するとでも思っているのか。この魑魅魍魎モンスターめっ。
「お褒めの言葉ありがとうございます。ですが、わたくしの婚約者はきっとお父さまがお決めになると思うのです。ですから、わたくしに申し入れをいただいてもどうしようもございません。ダニエル様も伯爵家の令息ならお判りでしょう? わたくしに決定権など一つもないのです」
「ですが、リュシエンヌ嬢からのお言葉があればミシェーレ公爵家当主もご一考くださるはずです」
なぜ気持ちが悪いと思っている相手を自分の婚約者候補として父に進言しなければいけないのか。そして、なぜこの目の前にいる男はそれが当然とでもいうように自信満々なのか。どれをとっても気味が悪い。
そもそも伯爵との結婚なんて、アタシの生活レベルが下がるではないか。アタシは今の生活に満足しているから生活レベルを維持したい。上げるのも下げるのもごめんだ。
「……申し訳ございません。なんとも思ってもいない方を婚約者に、などと嘘吹くメリットがわたくしには感じられません」
はっきりとお断りして、立ち去ろうとするとガシッと腕を掴まれた。すごく強い力。ブンブンと振って放そうとするが、全然放れない。……怖い。
「そのような言い方はあんまりではありませんか。私のことなど何一つ知りもしないのに」
「知りたいとも思わない方を知ろうとする時間の余裕はございません。手を放してください」
カッとダニエルの顔が怒りに赤く染まるのが分かった。
……マズい。言いすぎた……。
「いいえ。放しません。知る気がないのなら強制的に教えるまでです」
掴んだ腕をくるりと返してアタシの背後に回ると、そのままハンカチを口に押し付けられた。なんとか逃げようと、太ももに携帯していた短剣を握るがダニエルの手刀で虚しくも落としてしまう。ダニエルから逃れようと抗うごとに息は荒くなる。
「ふんっ。公爵家令嬢だからって偉そうに」
ダニエルのその言葉を最後にアタシは意識を手放すことになった。




