ダニエルのせい。
……なぜこんなことに。
アニーたちと話しているとダニエルがやって来て、流れるように連れ出された。そして、なぜか二人きりでいま談話室にいる。
「あの、何か御用かしら?」
「最近、パトリックに早朝訓練をしてもらっているようですが、その訓練に私も混ぜてはもらえませんか?」
見覚えのある媚びるようなダニエルの薄気味悪い笑顔に、背筋がぞくりとした。
正直、いやだ。こんな魑魅魍魎モンスターをサミュエルに近付けるわけにいかないし、なによりアタシが近付きたくない。
どうやって断ろうかと思案しているアタシを舐めるような目で見てくる。気持ち悪い。
「それは……わたくしの一存では……。パトリック様が訓練してくださっているので、まずはパトリック様のご意見を伺わないと……」
断る言葉が思いつかなかったため、判断はパトリックに丸投げすることにした。
うん。完璧だ。パトリック様は状況判断能力に長けているのでよしなにしてくれるだろう。
「そうですか。ではパトリックに聞いてみます」
そう言って、ニヤリと笑ったダニエルの顔は、獲物を狙う肉食動物そのものだ。
「それにしてもリュシエンヌ嬢は本当にお美しいですね。ご婚約はまだと伺っていますが、誰も放っておかないでしょう」
じろじろと頭のてっぺんからつま先まで見られて気持ちが悪い。ここから出たい。どう言ってこの場から離れようかと思案していると、ダニエルの手が近付いてきた。頬に触れようとしているのが分かる。思わず顔を逸らし、じりじりと後退していると背中に壁があたった。同じくじりじりとダニエルが距離を詰めてくる。
妙な空気に叫びそうになったそのとき。バン! と戸の開く音が聞こえた。その先にサミュエルとフロリアン、カンタンとセヴランがいた。
サミュエルが勇ましくズイズイとこちらに歩みを進めると、ダニエルは左右に目を泳がせて、アタシから距離をとるように後退する。サミュエルは嫌悪感を隠しもせずダニエルに厳しい視線を向けて、いつもより低い声で問いかけた。
「ここで何を?」
ニコリともしないサミュエルから発せられるその言葉にダニエルは口を噤む。顔が青ざめていく。
アタシはと言うと、意味の分からない恐怖で体がぶるぶると震えていた。
返事をしないダニエルにもう一度サミュエルが問う。
「ここで何をしていたのかと聞いているのです」
「……ただ、朝の訓練のお仲間に入れてほしいとお願いしていただけです。そうですよね? リュシエンヌ嬢」
確かに、言葉のやりとりだけで言うとそういうことになる。だけど、なにかが違う。なにか、なにか妙な恐怖心がアタシを支配した。でもそれは、アタシの受けた印象にすぎないため、なんと答えたらよいか分からない。
それが分かっているかのようにダニエルは、アタシに視線を向けたまま目を細めてフッと笑う。
「大丈夫か?」
フロリアンがアタシの元に駆け寄り心配そうな顔で覗き込んでくる。アタシはフロリアンの影に隠れるように背後に回った。
その様子を見ていただろうサミュエルが、ダニエルに言った。
「そのお話だけであれば、個室で二人きりになる必要などないはずです。少々マナーが悪いのではありませんか?」
「……ですが、私は連れ去ったわけではありません」
ダニエルは個室でアタシと二人きりになったのは、アタシの合意のもとだと主張した。合意とは認めたくないが、深く考えずついてきたのは事実だ。
サミュエルの厳しい目がアタシに向けられて、視線だけで問い詰める。「ダニエルの言ったことに間違いはないのか」と。アタシは小さく頷いた。サミュエルはため息を一つ吐いてダニエルに向き直った。
「ダニエル。早朝訓練はこれ以上数が増えるとパトリックも捌ききれなくなるでしょう。どうしても訓練がしたいのであれば他の方となさってください。話は以上です」
退室を命じられたダニエルは渋々といった様子で談話室を出て行った。
フロリアンに肩を抱かれて、椅子に座るよう促される。これからサミュエルの説教を受けるのだろうと確信したアタシは助けを求めるようにフロリアンの袖を掴み、潤んだ瞳で見つめるが困ったように笑ってそっと首を横に振るだけだった。
カンタンとセヴランは怒られておけ、とでも言いたげに席に着くように顎をしゃくる。
「さて、リュシエンヌ嬢。なぜこんなところでダニエルと二人きりになっていたのですか?」
「……その、話があると言われて……なんか、流れるようにこちらに」
「流されていてはダメでしょう。貴方は公爵家の令嬢なのですよ? その地位にあやかろうと近付く者がいても不思議ではないのです。もっと周りを警戒しなさい!」
サミュエルがこんなに説教臭い人だとは思わなかった。死神と思ったアタシの感覚はそんなには間違っていないのかもしれない。言い足りないサミュエルは「それに」とまだ言葉を連ねる。
「前々から思っていたのですが、貴方は近しい者を信頼しすぎるきらいがあります。それは好ましくもありますが、もっと自身の立場にあった行動をするべきです」
……もうサミュエルがルネにしか見えない。
サミュエルの言葉に同意するように深く頷くフロリアンたちを見ると、サミュエルの言い分は間違っていないのだろうけど、アタシにだって言い分はある。
「わたくしはダニエルを信頼したことなど一度も、一秒たりともありません。なんとなく信用のおけない人だとは思っていました!」
ダニエルを信頼していたと思われるなんて耐えられない。あんな一目見ただけでいけ好かないと判断した人を。
サミュエルがため息をついて首を横に振った。
「あなたは信頼していない人と易々二人きりになるのですか?」
「……呼ばれたから付いて行っただけです……」
屋敷では親以外にアタシを呼び出す人なんていなかったし、前世にいたっては、誰に呼び出されようと、同級生に呼ばれたら付いて行くのが普通だった。そんな種類の警戒心を養う必要などなかったのだから、仕方ないと思う。
アタシ悪くない……。
「……今後は呼ばれたからといってホイホイ付いて行かないように」
ホイホイという表現が馬鹿にしているようで気に食わないが、これ以上逆らっても同じ言葉がループするだけだ。だけど……。
「では、今後どなたかに呼ばれたらどうしたら良いのですか?」
アタシは小学生じゃない。だいたい、呼ばれたら元気よく返事するのが当たり前だ。付いて行ってダメなのは知らない人だけだろう。
「……僕か、シル、どちらもいない時はパトリックに付いて来てもらってください」
「わたくしが呼ばれたところに行くだけのために、みなさまを巻き込むのですか?」
おおげさな。と思っていたのがバレたようだ。鋭い目でギロリと睨まれた。子犬のようなサミュエルはどこにもいない。初めて見たときはあんなに爽やかなサミュエル様だったのに、どうしてこうなってしまったのか。
「必ず! 分かりましたね?」
アタシが頷くのを見届けたいのか、フロリアンも、カンタンもセヴランもめっちゃ見てくる。
「承知しました」
「ではこれで、話は終わりです。帰りましょう」
先生か! もうつっこみどころ満載だ。
荷物を取りに行くための教室までの道中、フロリアンが教えてくれた。ダニエルに連れて行かれて大丈夫かと不安になったフロリアンは、カンタンとセヴランとアタシたちの後をつけて、アニーはサミュエルに報告に行った。アタシたちの居場所を把握したフロリアンがサミュエルを迎えに行き、談話室に入って来たとのことだった。
本当は、あの場でダニエルを諫めることが出来ればよかったけど、平民が言っても受け入れてもらえないだろうとサミュエルに頼むことにした。すぐに助けてあげられなくてすまないと謝られた。
アタシの不注意な言動にみんなを困らせていたのだと知って、申し訳なくなった。アタシがもう少し警戒心を持ち合わせていれば。正直、ダニエルのことはアホ扱いだったので、ダニエルがアタシに何かできるはずもないとタカをくくっていたのだ。
寮にはなぜかサミュエルの付き添いのもと戻ることになった。嫌な予感がして一人で帰れると言ったが、ニコリとした笑顔の圧により呆気なく受け入れることとなった。
自室のドアを開けたルネに今日のことを全部報告されて、ルネからもサミュエルとほぼ同じ内容の説教を受けた。
そして、ミシェーレ公爵家家訓に『一人でどこでもふらつかない』が追加された。
ミシェーレ公爵家家訓とは学院に入るときに両親に持たされた、アタシの学院での生活態度の注意書きにみせかけた、脅し文句だ。
『身分に関係なく多くの者と関わること』『ルネの言葉には粛々と従うこと』から始まり『諍いが起きないよう目を光らせている管理者が常にどこにでもいることを肝に銘じよ』で終わるのだ。要は、全ては両親の監視下にあるのだから、ミシェーレ公爵家の令嬢としてふさわしくない言動は慎めということだ。
六箇条まであったが、たった今七箇条になった。
なんてことだ。家訓はルネの権限で追加できるシステムだったのだ。そして例にもれず、その追加された家訓は父の提唱と同等の扱いがされるらしい。つまり、何が何でも守らなければならない。
「こんなにみなさんにご迷惑をかけたのですから、クッキーを焼きましょう」
「へ?」
なんでクッキー焼くの? お礼に?
半ばルネのゴリ押しでクッキーを焼かされたアタシは、翌日みんなにクッキーを配ることになった。早朝訓練のときに持参したため、パトリックをのけ者にするわけにもいかず、パトリックにも差し出す。
「なぜ、クッキーを?」
「いつも訓練してくださっているお礼です」
真実は避けて、いつものお礼だとにこやかに微笑むと、パトリックはみんなの手にもあるクッキーを見渡した。それに気づいたセヴランが余計なことを言う。
「昨日、リュシーがやらかしたんですよ」
「やらかした、とは?」
「よく知りもしない男の後ろにホイホイ付いて行って、談話室で二人きりになってたんです」
「よく知りもしない男と二人きりに、ですか?」
パトリックが片眉をあげて、ほとんど変わらない表情でアタシをみた。アタシはニコリと微笑み、会話を打ち切ろうとする。
「もう過ぎたことです」
「過ぎたことだからおしまいというわけではありません。そのような言動は慎むべきかと存じます」
「はい。慎みます。ご心配ありがとうございます」
これでおしまい! ともう一度ニコリと圧をかけた笑みを送る。だが、戦場で戦う志高い騎士には通じない。
「なにかあったらどうなさるのですか」
「なにもなかったから、どうしようもありません」
もう何も聞きたくないから、何も言わないでほしい。反省したのだから許してほしい。
最近アタシの天使の笑顔の効力がなくなってきている気がする。ルネと母以外はこの笑顔でだいたい思い通りにできていたのに……。
「そういうことを言っているのではありません」
「……パトリック様。わたくし、昨日そのことで散々、もう本当に散々! サミュエル殿下と側仕えに叱られたのです。反省もしております。これ以上はわたくし、心が病んでしまいます」
しょんぼり俯くと「そうですか。今後はお気を付けください」と話を閉じてくれた。サミュエルよりは話が通じるようで嬉しい。
だけど、翌日短剣を渡された。これからは自衛もできるように訓練が追加されるらしい。
わぁーい。やったー。……ふんっ! みんなしてバカな子ども扱いして!
だいたい短剣って! なにかあったら相手を殺してでもってこと? 嫌だわ!
「わたくし、人を殺めるなどしたくはありません」
「人を殺めずに自衛するためには、手加減しながら戦うということです。とても公爵家の令嬢が身に付けられるレベルではございません」
「……はい」
パトリックの最もな意見にそれ以外の返事が出てこない。
……どうせアタシの体力は十段階中二ですよー。
なぜかフロリアンとセヴラン、カンタンも一緒に短剣の扱いの訓練をすることになった。平民が長剣を持ち歩くなど現実的ではないので短剣がちょうどいいらしい。
「これで訓練すれば、僕にもリュシーが守れるね」
アタシの頭をポンと叩いたフロリアンがふんわりと困った顔で笑った。
フロリアンとアニー、セヴラン、カンタンと話していると、何食わぬ顔でダニエルが近寄って来た。フロリアン、セヴラン、カンタンがざっとアタシの前に壁を作る。
ダニエルがその様子を見て不敵な笑みを浮かべた。
「そう警戒しないでくれ。リュシエンヌ嬢と仲良くなりたいだけなんだ」
あの個室二人きり事件のあと、サミュエルがシルに調べさせたと言ったこと。ダニエルは隙あらば公爵家に婿入りしたいと、その機会を虎視眈々と狙っているとのことだった。そして、どうやら今標的になっているのがアタシらしい。その情報を受けての三人の行動だった。
「リュシエンヌ様はご気分がすぐれない様子なので、救護室で休まれるご予定です」
この言葉は、サミュエルがフロリアンたちに前もって言っていたものだ。サミュエルかシル、パトリックがいない時はこう言って、早急にアタシを隠せと。今は使われていない音楽室にでも閉じ込めておけとも言っていた。どんどんアタシの扱いが酷くなっていっている気がする。
フロリアンの言葉にダニエルが顔をしかめてアタシを一瞥する。
「顔色もよろしいようですし、そのようには見受けられませんが」
ダニエルの言葉を遮るようにアニーが血相を変えて言う。
「大丈夫ですか?! リュシエンヌ様。さぁ、救護室に参りましょう」
みんなの計らいにより救護室に行くと見せかけて音楽室に行くことになった。どうやらこのまま閉じ込められるらしい。
もちろん元気しゃんしゃんだ。アニーに連れられて音楽室に向かう途中パトリックに会い、事情を聴いたパトリックが自分も、と付いてきた。
なんだ。この重警備は。なんかリードをつけられた犬の気分だ。元気に駆け回ってはいけないのだろうか。
「リュシエンヌ嬢。サミュエル殿下より伺っています。自分も親しい者から聞いてまわったのですが、ダニエル様は目的の為なら少々手荒いことも辞さない方のようなので、気を付けられた方がよろしいかと存じます」
「ですが、パトリック様。こう重警備を強いられますと少々息苦しいように感じます。せっかく学院で過ごしているのですから、もう少しのびのびと過ごしたいものです」
「失礼ながら、のびのびと過ごした結果が今の状況なのではないでしょうか」
……ぐうの音もでない。だけど、もう少し気楽にしたい。
そうだ。警戒はみんなに丸投げしてアタシは今まで通り過ごすというのはどうだろう。結果的に今の状況と変わらないけど、息苦しさは解放できる。
「周りの者が気遣ってくれるからと言って、気を抜いてはいけません。ご自身が警戒しないと一人のとき自分を守り切れません。危険な目に合う前に回避する術を身に付けないといけません」
……パトリックはエスパーかもしれない。適切にアタシの心の声に返事をされた気がする。
「自衛とはそういうものです」
「……はい」
……心配してくれるのはありがたいけど、正直息苦しい。こういうときどうして、気持ちだけを受け取りたい。
こうしてアタシは針の筵の中で過ごすことになった。




